『旅人、ユーラシアを往く』  小堺 高志

 

まえがき

これはもう30数年も前、私が20代前半に始めて海外に出た時の話である。

 

子供のころから旅行記を読むのが好きだった私は「ヨーロッパ自転車の旅」とか「未開の地アマゾンを行く」、滞在記「アメリカの小さな町から」そして小田実の「何でも見てやろう」などなど、そのころの私にとっては冒険記である文書を読みあさり、世界地図を見ては心を躍らせていた。中学生の頃にはいつしか海外に出たいという気持ちを確実なものとして持っていた。そして、アメリカは今回行けなくとも、いつかかならず行ける時が来るだろうと初めての海外の目的地はヨーロッパであった。

その思いが現実味を帯びてきたのは大学生活も最後の年となり卒業単位も殆どとり、アルバイトをして旅の資金が幾らか溜まったころであった。最初の計画では行く先々でアルバイトをしながら、最低1年くらいのつもりであったが、出発の数ヶ月前に両親に計画を話すと、かなりの纏った旅の資金を渡され、その際父に言われたことが「アルバイトなどをせずとも、援助をしてあげるから見たいところを見て早く帰って来い」ということであった。必ず戻って卒業するという条件で立て直した計画は大雑把なものでソビエト連邦から北欧にはいり、ヘルシンキ、ロッテルダム、ロンドン、パリ、マドリッド、ローマとヨーロッパを回り直接空路で帰国するか、条件がそろえば陸路の中近東経由で帰る、というものであった。

目的地ヨーロッパでは、白夜とアルプスを見ながら国々の人と文化に触れ、単なる観光旅行ではない自分にしか出来ない旅がしたいと思っていた。そしてその頃、直接空路ヨーロッパから帰国する航空費とほぼ同じ値段で陸路で2ヶ月かけて日本に帰られるという情報を得ていたので、南経由で帰るのであれば、ヒマラヤと南十字星を見てみたいと、思っていた。

 

以前、私の渡米時のことを書いてHP上に発表した『夏の風』は時期的には前後するがこの作品の続編となるものである。長らく手元に寝かしていたこのヨーロッパ編の記録は私にとり始めての海外旅行であり、その経験はその後の私の人生を大きく変えることとなる。昨年の中秋の名月を見ていてヨーロッパでみた月を思い出し、「そろそろまとめてみるか」と思ったのであった。以下は30数年の歳月を越え蘇る私の青春の旅の記録である。

 

その後の世界情勢は大きく変わっているが、皆さんも始めて海外に出た時の感動や自身の青春真っ只中であった時を思い出し、読んでいただけたらと思う。

 

2006年 1月

小堺 高志

カリフォルニア州、トーレンスの自宅にて

前編・『白夜』

 

1.旅立ちのとき

6月19日、7時10分前に目覚ましの音に目を覚ます。弟と住む都内高円寺のアパート、周りを見れば見慣れた顔の5−6人が雑魚寝して眠りほうけている。昨夜のことを思い起こせば、友達からの電話、実家からの電話の後、親友の池田、そして部の後輩の面々が顔を出し、送迎マージャンなどと称し、朝方の4時まで起きていた。僕はその後も寝過ごしてはいけないと何度も時計を見て、朝を迎えたのであったが、僕が起きても誰も起きてこない。

仕度が終わったころ、弟が起きてくれたが他の面々は布団の中から「元気で行ってこいよ」「気を付けて行って来てください」などと寝ぼけ声を出すばかりで起きて来て見送ろうなどと言う奴はいないようであるが、こうして顔を出してくれたことが嬉しい。外は今にも雨が降りそうな重い空模様である。

見送りは要らないといってあるので、弟の声に送られて玄関の一歩から僕の旅は始まった。

 

横浜から船に乗っての出発である。予定より少し遅れて桜木町の駅で降り、桟橋までタクシーで行くことにしてタクシー乗り場で待っていると、僕の後ろに同じような姿の男が同じようなリュックを持って並んだ。彼には2人の見送り人と思える人が同行しているが一人旅の様子。「バイカル号ですか?」と声をかけると「そうです」との返事、さっそく旅は道づれと彼らと一緒にタクシーに乗り、横浜港へと向かう。曲渕と名乗った彼は1年間大学を休学してヨーロッパを周ってくるという。彼の見送りの友達がタクシー代を払ってくれ、出入国管理事務所に行って出国の手続きをする。さっそく旅仲間を作れたのは大きな収穫である。

手続きを終え、目の前に停泊するバイカル号に乗り込む。「さらばモスクワ愚連隊」、「青年は荒野をめざす」を書いた五木寛之もこの船に乗りヨーロッパへ行っている。数多くの小説にも出てくる有名な船である。有名な割には思ったより小さな船であった。『これでは佐渡に行く佐渡汽船と大差がないな』、などと思いながらリュックを船室に運ぶ。

部屋にはすでに同室者がいた。自己紹介をして一緒にデッキに出る。彼は須藤さんと言い、私より一つ年上、明大を出て何もすることがなくて退屈しているところを親父さんに言われ、親父さんの仕事であるインテリアを学びにヨーロッパにでも行ってくるかということになったのだそうである。

出航は1時間遅れているが、だんだんと船上の人と桟橋の間で飛び交うテープの数が多くなってくる。須藤さんも見送り断り組で、手に何本もテープを持って別れを惜しむ人たちの後ろで、この期に及んで別れを惜しむとはと、弱冠開き直って冷静に人々を見物する。やがて楽団が「蛍の光」を演奏しはじめると船は静かに桟橋を離れる。時計をみると11時55分であった。もう後には引けない若さだけが取柄の僕をどんな旅が迎えてくれるのか。ちょっと気持ちが高ぶるのを感じる。はずむ会話の中、須藤さんとは気が合いそうである。

 

   バイカル号で出発                         親しくなった須藤さん

2.バイカル号ナホトカに向かう

船室に戻るともう一人の同室者、鈴木君がいる。彼は僕より若いが、パリへ3年間の予定で油絵の勉強に行くという。それぞれが目的は違っても一人旅の若者が多く、最近の若者は僕も含めてではあるが、なかなかやるものである。

昼食の合図に食堂に行くと同じテーブルに佐藤さんという人がいた。彼はパリへ語学留学をするという。食堂でかいがいしく給仕をしてくれる金髪のウェートレスの姿にすでに僕らが外人なのだと思い起こす。食後、同室の二人が船酔いで寝込んでしまった。そういえば外洋に出た船はかなり揺れはじめている。僕もベッドに横になってしばらく時間をつぶすことにする。

 

夜、時計を1時間遅らせてハバロスク時間にするようにと知らされる。今のところ船酔いが重くない僕は、二人を置いてミュジックサロンで毎晩開かれるというダンスパーティーに顔を出してみることにする。薄暗い中で昼間港まで一緒に来た曲淵君を見つけ、同席すると、そこで彼の同室者の3人を紹介された。他に同席者で関西大学の教授がいらした。ロンドンで開かれる学会に出席する化学者だというが、わざわざ時間のかかる船旅をしているところが只者ではない。

この船では夜になると船員が華麗なる変身を遂げミュジシャンとしてステージに立ち船客を楽しませてくれると聞いていた。4人組のバンドが演奏を始めると、周りのテーブルはほとんど他国人で、僕の気持ちも船の中であることを忘れ、すでにここはどこかの外国である。

ハードなリズムになると皆踊りだす。彼らの体格の大きさには圧倒されてしまう。アメリカ人とヨーロッパの人がほとんどであるが、ヨーロッパ人は外国語であるはずの英語をほとんど不自由なく使っている。それに比べ日本の英語教育、取り分け会話力のなさを痛感する。横浜で絵の先生をやっていて、この後3年ほどパリで勉強してアメリカに帰るというアメリカ人に会う。日本にいた彼はかなり日本語を話す。半々くらいの日英混合語で結構なんでも通じる。このくらい日本語を話してくれたら楽であるが、これから先の旅では日本語が通じるはずがないのである。彼と一緒の友人は30年日本にいて日本語はぺらぺらだそうだが、いまは船酔いで寝ていると言う。この機会にいろいろ英会話を試してみるが、なんとか通じるとは言い、自作英語の域を出ない。英会話をもっと勉強しておくのであったと思っても、もうサイコロは振られている。これからはその場その場でサイコロの目を楽しみながら会話力を磨いていくしかないのである。

 

日が変わって夜中12時になるとパーティーも終わり、船室に戻ると昼間デッキで会った松本が僕を訪ねて来ていた。ウィーンからヨーロッパに入って、2ヶ月間回って北欧に行き、またこのコースで帰国する予定だという。ヘルシンキから入る僕とは逆コースになるので、また何処かで会うことになるかもしれない。一人旅の連中とは同じ境遇のためか、すぐに友達になれる。

デッキに出ると真っ暗な海に船の上げる白い波が印象的であった。

 

昨夜の夕食を一緒にした佐藤さんが起こしに来てくれて、最初の朝を迎えた。一番船酔いの激しかった鈴木君の具合はかなり良くなったが、須藤さんと二人今日の朝食はまだ食べないというので佐藤さんと食堂に向かう。このソビエト連邦のインツーリスと言う国営旅行会社の扱うヨーロッパまでのツアーにはその間の3食も含まれているので、食べられないとはもったいなくも、かわいそうな二人である。それでも須藤さんは昨夜のプロ野球、南海、ロッテ戦の結果を気にかけ、はては今年の紅白歌合戦の心配までしている。彼は2年間の滞在予定であるから、今後なかなか日本の新聞を読む機会もないだろうが、出発して一晩、いまだ日本に未練たっぷりである。

 

昼食のころから波も静かになって来た。同室の二人も起き出し、丸一日ぶりの食事を取る。「また酔うといけないから、あまり食べないでおこう」と言いながらも、食べだすとやはり2食抜いているのでフォークが進む。

夕方すっかり元気になった須藤さんが「日本海に入って、また酔うといけないから、酔う前に酔いに行こう」とのうれしいお誘い。バーに行ってビールを頼むことにする。 カウンターの向こう側に体格の良いおばさんが働いている。

冗談半分で「おばさん!」と呼びかけてみると日本語で「はい、ちょっと待ってよ」と返ってきた。一瞬驚きで須藤さんと顔を見合わせ、「ビール頂戴」。カウンターの裏には日本のガムが並んでいた。

イギリスに留学すると言う日本の女性が二人コーラを飲んでいた。話をすると船内での向こうの男性はやたら親切だと言う。結論としては日本の男性も良いところはもっと真似るべしと言うことであった。勉強になります。

このころから外にはイカ釣り船がたくさん見え出した。船は下北半島のあたりを回りこんで日本海に入っていこうとしている。夕暮れ時からたくさんの釣り船に灯りがつき厳しい漁師の生活を垣間見る。「イカが獲れてもスルメが安くならないのはなぜか」学生運動で大学を追い出されかけた須藤さんは当然「政治が悪い、政治が」おまけに昨日の船酔いも自衛隊の船があげた波のせいだとおっしゃる。

 

発見、バイカル号に麻雀のセットが置いてある。早速、好き者が集まって 1卓囲むことにする。何しろ出発の日の早朝まで麻雀を打っていた私である。丸い卓ではあるがヨーロッパではお目にかかれないであろうと、もう一度麻雀稗の感触を惜しむのであった。

 

夕食後、バイカル号最後の夜を惜しむダンスパーティーが開かれた。昨夜とはだいぶ変わって、民族舞踊、歌とステージに立っているのは全員乗組員のはずであるが、上手い。りっぱなショウが一通り終わるとあとはダンスタイムになり、今日は外人のペースに巻き込まれ、日本人もかなり積極的である。ダンスを申し込むと誰でも一緒に踊ってくれる。

寝る前に上の階の一等乗客用の浴室に入りにいった。本当は僕らの2等にはシャワーしかついていないのであるが、1等船室のある階にはきれいな浴室がある。私を世話してくれた旅行代理店の戸谷さんからの入れ知恵で、一等船室の客と言う顔をしていけば、まったく問題ないようである。僕にとり始めての洋式のお風呂であるが湯船の中で体を洗うと言うのは日本人の観点からいくと不潔な感じがするが、おそらくこれから先お湯をためてお風呂につかると言う機会も少ないはずである。やはりお湯に浸かっての入浴はいいと、一等乗客顔をした僕は思うのであった。

楽しいかったバイカル号の船旅最後の夜は更けていく。明日はいよいよ初めての異国の地を踏むことになる。 
船員によるショー

3.初めての異国、ナホトカ上陸

3日目、明け方ごろ窓から外を見ると船は霧に覆われている。視界は50メートルくらい、船側の黒い海面とその上を覆う白い霧しか見えない。それでも波はかなり静かになっている。時折汽笛を鳴らしながら日本海の真只中を船は進んでいく。汽笛と霧が船旅の情緒を盛り上げる。

サロンでアメリカ人とトランプをする。ニッピーという彼は立川の米軍基地におり、ヨーロッパ経由でアメリカに一時帰国し、また日本に戻る予定だと言う。日本人との会話に慣れた分かりやすい英語を話してくれるが、彼はなんと5ヶ国語を話せると言う。2ヶ国語目で苦労している僕からは羨ましい限りであるが、世界には何ヶ国語も自由に操る人がいくらでもいるのであろう。

外のざわつきにデッキに出てみると霧の切れ目にソ連の陸地が見える。やがて船は鉛色の海面を滑るように静かに桟橋に付けられた。いよいよ僕にとって始めての異国の地への上陸である。

簡単な手続きであったが2時間も待たされて、やっと上陸の許可がでた。下船のアナウンスがされると一斉に荷物を持った乗客が出口に向かう。

ここはナホトカの港、まず目に入った港の景色は天候のせいもあるだろうが色彩に乏しい、暗い感じの町である。港からバスで駅に運ばれることになるが、小さな町であるからバスで2分とかからないところに駅があり降ろされたのは、何でも見てやろうと乗り出していた僕には拍子抜けであった。汽車の出発まで1時間半ほどあり、辺りを歩いてみる。その辺の雑草を見てみるとタンポポが多く、オオバコなどあまり日本のそれとあまり変わらない。雑草はどこに言っても雑草であるが、日本のそれより存在感があるのは異国で思いがけず見慣れた草に出会った僕の気持ちのせいであろうか。

 

汚れた服を着た小学校高学年くらいの子供が3人寄ってくると片言の英語で「マッチ箱を交換してくれ」と言う。持っていたマッチを彼らの差し出すソビエトのマッチと交換してやると今度は「チュウイン・ガムをくれ」、「タバコをくれ」と要求がエスカレートしてくる。ガムは持っていない、タバコは子供にはだめだと言うと「良い時計をしているな」と来る。そして自分もアメリカ製だと言う時計を見せてくる。どうせまがい物であろう。「勉強するのに使うから、ボールペンをくれ」と言う。おもわず日本語で「嘘をつけ!勉強するようにはみえん」、今から立派な詐欺師である。さらに20カペーカを出して白いのと変えてくれと言う。白いのと言えば、100円玉のことであろうが、最初5円玉を見せると、とんでもないと言う顔をする。面白半分に1円、10円と加える。それ以上出したらこちらが損をする。小学生とは思えない憎たらしいガキである。そもそもソ連のコインなど日本の1円玉よりさらに小さくて貧弱な、とても硬貨とは思えない代物である。1ルーブル紙幣などは最初から偽札としか思えない、舐めたら当り、外れなどと出てきそうな5百円札の半分くらいのチャチな紙幣である。しかもこのひねくれて可愛げのない子供たち、誰が交換してやるものか。

 

さらに進むと丘の上に学校らしき建物がある。その横の建物にはスローガンが書かれている。スローガンには「ソ連人民に栄光あれ」と書かれていると佐藤さんが辞書を片手に解読してくれた。佐藤さんは翻訳関係の会社につとめ、フランス語をマスターするためにパリに留学の旅であるから、僕らの中では英語も一番話せるし、辞書を片手にロシヤ語の解読のみならず会話も出来てしまう頼りになる人である。

駅に戻るとまもなく汽車は北に向かって出発した。最初の風景は開拓村のような造りの農家が続く。川で魚釣りをする人がいる。家路を急ぐ人がいる。日暮れは9時を回ってからであったが、家の明かりが見える。この灯りの一つ一つに家庭があり、僕らと同じような生活があると思うと、こんな視線で他国の生活を見られる旅に出て良かったと実感が湧いてきた。闇の中、大きな建物はない、高い建物もない。それでもあたり一面に散らばった灯りはそこに確実に人が住んでいることを知らせている。僕は暗い窓からその温かみのある灯りをいつまでも見続けていた。

  
ハバロスクに向かう車窓からみる開拓村

4.どうせ僕らはBクラス

目を覚ますと一瞬寝ぼけながらここが何処だか考えた。シベリア平原を走り続ける汽車の中であった。大平原がどこまでも続く。あまり大きな雑草はない、そして森もまだ背の低い広葉樹林で、想像していたツンドラにひろがる針葉樹林ではないので思っていた風景とは少し違うが、やたらに広い。風景を見ていると汽車が止まっているのかと思うほど、見渡す限り風景が同じで変わらない。今走っているのはナホトカからハバロスクへの線路上、ソ連の極東の端っこをちょっと走っているに過ぎない。

 

まる一日走ってハバロフスクに着き、駅からバスに乗せられ、レストランに向かう。車窓から見る街並みはナホトカと違ってかなりヨーロッパ的な都会らしい町である。広い道路をガイドの案内で走る。ガイドもここからは英語オンリーであるらしい。日本語は隣の友達との間でだけ使われ、耳に入ってくる言葉の比率がいつの間にか英語の方が圧倒的に多くなっている。切り替えに慣れていないので、ぼんやりしていると英語のリズムで日本語を聞いていて自分でもおかしいと感じる。この同じ団体の中でも日本交通が取扱店である「LOOK」の団体には日本人の係員がついているが、我々の山下新日本の扱いの13名はどうせツーリストのBクラスであるから現地の英語を話す係員しか付いていない。この「どうせツーリストのBクラス」という半分やっかみの言葉がこのところ僕らの間での、はやり言葉である。でも実際は「LOOK」もインツーリストの分類ではツーリストのBクラスであり、少し料金が違うくらいで、ほとんど待遇に変わりはないのであるが、わずかな違いを強調して話題にし、面白がっているのである。

 

レストランで昼食を食べる。ソ連のパンは固くてまずい。黒パンは味を覚えたら癖になると聞いたが今のところ僕の舌に合うとは思えない。失礼ながらこの味が癖になると言ったのはよほど貧しい食生活を何年も強いられた戦争捕虜の方たちであろうか。そしてさらに不味いのが胡瓜で、生で出されたら苦く、漬け物で出されたら腐っているのかと思う酸味でなんとも現代の日本では捨てられるしかないであろう代物である。外国人である僕らはこれでもこの国の最高級の食材でもたなされているはずであるが、やはり極寒の地となる国では冬季は保存食しかなく、美食は育み難いのであろうか。

 

ソビエト連邦国営旅行公社インツーリストが取り扱う日本からヨーロッパへの片道ツアーはここハバロフスクからシベリア鉄道で陸路を1週間かけてモスクワに向かう人たちと、空路モスクワに飛ぶ人たちとの2手に分かれる。ほとんどの人が空路モスクワにむかう方を選んでいるようであるが、シベリア鉄道でモスクワに行き、ヘルシンキから自転車で3ヶ月間ヨーロッパを回るという2人の若者とはここで別れる。インツーリストのBクラスにはBクラスにしかない旅の面白さがあるように行き先は一緒でもさまざまな過程があり、そこにはまた違う旅があるのである。ヘルシンキからは全てを自分で選び、決めて、作る旅となる。その方が団体で動く旅行より遥かに面白く、有意義な旅が待っていると僕は思う。

  
ハバロスク市内にて

5.夕焼けのモスクワ

午後2時45分、僕らは飛行機でハバロフスクの空港をモスクワに向かって発った。僕の人生初めての飛行である。今の今まであんな鉄の塊が空に浮くわけが無いと言う鉄学(哲学)を持っていた。しかし現実に今、僕の乗ったアエロフロートの大型ぼろ飛行機は空中を飛んでいる。「空港で整備員がガムテープを持って行くのをみた。あれは落ちそうな機体の部品を貼り付けるために使われるに違いない」などという、まことしやかな話が伝わってくる。それでもあのバイカル号より静かなものである。機はだんだんと高度を上げ、雲を下に見下げると、雲の切れ目に地上の道路が糸のように平原を走るのが見える。時たま開墾された耕地が見える。これが例のコルホーズやらソホーズやらと呼ばれる集団農園であろう。時たま現れる大きな開拓地が10円禿げに見えるほどソ連の平原は広く森は深い。

飛行機の中で前の席のおばさんがスェーデンのケネディー家 (この家の主人はどこか故ケネディー大統領に似ているので僕らの間ではそう呼んでいた)の子供二人に折り紙を作ってあげている。最初に作ったのは蛙、器用なものである。ケネディさんは「太らせて食べたいね」と大阪訛りの日本語で皆を笑わせる。そういえば彼の子供に英語で一生懸命話しかけたのに通じないで日本語が返ってきた、子供達は日本生まれの日本育ちで英語は話せなかったと言う話をバイカル号の中で聞いたものである。僕も今後のために折紙で鶴、兜の作り方を教わった。

 

モスクワに近づくと雲が絨毯のように下で白く輝いている。時に綿飴のような雲、霞のような雲といろんな姿ではじめての飛行機の旅を楽しませてくれる。雲の上にはまぶしい太陽が輝いている。時折はるか下に曲がりくねった河や湖、森がみえる。約9時間の飛行でモスクワに着くと聞いている。この距離をハバロフスクで別れた若者は今、シベリア鉄道で1週間かけてモスクワへと進んでいるはずである。モスクワではさらにフィンランドのヘルシンキ行きと、オーストリアのウィーン行き、そしてロンドン行きにと分かれて行く。僕は基本的には一人旅であるが行く先々で友達を作れば良いと思っているし、今のところそのハンディーは感じない。会うは別れの初めとか、旅はまだまだこれからである。別れた友の倍の友達を作るべく頑張ろうと思う。

 

モスクワ空港は広く、緑に囲まれた美しい空港である。バスで市内に向かうとモスクワは広大な土地を惜しげもなく使ったヨーロッパ的な美しい都であることが分かる。湖で釣りをしている人がいる。ここはソ連の首都であるから、日本で言えば都内に自然の森林がかなり残され、湖があって、そこで魚釣りを楽しんでいるようなものである。皇居のお堀では錦鯉が釣れてしまうであろうが、そもそも釣りは許されているのであろうか?やはり庶民が都内で釣りを楽しむとしたら釣堀とか限られた場所になってしまう。ここモスクワは広大な自然の中に作られた都会という感じで、まったく違和感なく自然の中での生活を楽しむ人がいる。中心街に近づくと中世の石造りの建物がうまく現在の建物に調和している。

やがてバスは僕らのモスクワでの宿泊所となる「ロシアンホテル」に着いた。ガイド嬢の説明によると、この「ロシアンホテル」はヨーロッパで一番大きなホテルだと言う。なるほどこの建物の大きさは100メートル四方の16階くらいあり、真ん中に50メートル四方くらいの中庭を持つ、形としては大きな枡のような形をしている。明日はモスクワの市内観光が組まれているが、このホテル自体がモスクワの名所群の真只中に位置しておりクレムリン、赤の広場、レーニン廟など写真で何度も見た場所がこのホテルのすぐ周辺にある。じっとしていられず佐藤さんとホテルの周りを歩いてみる。今までは船から、飛行機から、バスから見るだけであったソ連が、いま僕の足の下にあった。時間はハバロフスクの時間からさらに7時間戻し夜の9時である。日本では東の空の明らむ6月23日午前5時、モスクワの街は今赤い夕日に輝いている。家路を急ぐ人、デートを楽しむ若者、明るくてとても夜9時とは思えないが、西の空が完全に暗くなったのはそれから、さらに2時間後であった。


ホテルの窓から見た風景                     佐藤さんと、後ろに見えるのがロシアンホテル

 

6.モスクワを見てやろう

モスクワの夏の朝は早い。3時半に外を見るとすでに夜は明けていた。スモッグのないモスクワの空は快晴である。ロシアンホテルの僕らの部屋のすぐ下には、ロシア帝政時代の古い建物がいくつかあって、そのうちの幾つかは修繕中であった。何百年もの歴史を感じさせるレンガの建造物は日本の木造とは違った良さがある。

朝のラッシュアワー時にも街は静かである。窓から見えるところでは数台の車と10人くらいの勤めに向かうらしい人しか見えず、この街には朝のあわただしさと言うもが感じられない。ずば抜けて高い建物もなく、たまに15階くらいの高層ビルが見える程度。うまく街に溶け込んだ近代ビルの間に中世の塔が顔を出している。

 

バスに乗って市内観光に出かけクレムリン、赤の広場等を見る。赤の広場は何万人も行進の出来るような大きな広場だと思っていたが建物に囲まれた、あまり広さを感じない場所にあり、実際かなり狭い場所であった。すぐそばにあるレーニンの墓は途切れない長い見物人の列が出来ていた。その長い列を見て、僕らは自由時内のレーニン廟の見学をあきらめた。このあたり一帯は石畳のたたずまいであり、石とレンガで造られた建物など、そこにいる人以外はすべて歴史を感じさせるものばかりである。

ちょうどレーニン廟の衛兵の交代が始まった。大きなモーションで歩いてきた3人の兵が、中に消えるとちょうど上の大時計が11時を指した。その鐘が鳴り止まないうちに中で交代した3人の兵が出てきた。まさにからくり時計の一部である、おもちゃの兵隊のような正確な動きに感心したのであった。

次に行ったクレムリンはかなり広かった。ここは日本のお城の内堀、外堀のように二重の城壁に囲まれている。外側の城壁は内壁と300メートルほど離れてその跡をわずかに残しているにすぎないが、その二つの城壁の間に僕らの滞在しているロシアンホテルは建っているのであった。そのホテルの西側には内城壁とクレムリンが見える。元々王宮であったクレムリンは、今は博物館と立法関係機関が使っている。その博物館には帝政時代の品物がたくさん展示してあった。金、銀、宝石の装飾品、皿、狩に使われた美しい銃、矢、剣、すべてが贅沢の限りをつくしている。この贅沢な皇帝、貴族の生活がやがて庶民の反発と革命を生むこととなるのである。現在、連邦政府が使っている建物は昔からある建物より低く、しかも一番目立たない位置にそれとなく、本当にそれとなく建てられているのには感心した。こうして歴史的風景を壊さないように保護しているのである。

コスイギンもブレジネフも誰もクレムリンには住んでおらず、彼らは市内のアパートメントに住んで通っているという。そして大抵、その家賃は日本円で月に5千円くらいのものだと言う。

 

広大な土地を贅沢に使って建てられたモスクワ大学、日本の北海道大学のキャンパスをさらに大きくした日本では見られない規模の教育機関である。レーニンの丘、ボリショイ劇場、チェホフの家、チャイコフスキー・コンサートホール、レニングラードホテル等、聞いたことのある名所が次々にバスの車窓に現れる。しかし、慣れない英語の説明をずっと聞いているのは疲れるのである。ロシア人のガイドさんは休みなく英語の説明を続けているが、分かりやすい英語であるだけに何とか聞き取ろうとするとかなり集中力を使うこととなる。その点、浜田と清水の二人のおばさんは英語はイエスとノーくらいしか知らないから、初めから英語を聞き取ろうとするつもりがないので楽であり、じつに堂々としたものである。30年来の親友と言う二人は50歳を超えていると思うが、コペンハーゲンに留学している清水さんの娘に会いに行く旅で、たいていは着物を着ていていつも元気一杯である。僕も日本から下駄を持ってきていたので、夜のボリショイサーカスの公演はお二人を真似て下駄で行くことにした。

下駄の音はホテルの玄関など絨毯の敷いてない場所では恥ずかしいくらい大きな音が響き渡る。屋内では少し音をころして歩いていたが、外に出るとその心地よい音にバスの運転手から「ハラショウ!」と言ってもらえた。

ボリショイ・サーカスの劇場の前でまたまた「チューインガムを持っていないか?」と聞かれた。ソ連でもてる方法を見つけた、チューインガムをたくさん持っていくことである。ソ連では作っていないか、あっても極端な品不足、庶民はチュウインガムに飢えている。ここはまだ「ギブミー ア チュインガム」の世界である。そういえばバイカル号の中でも売っていたのは日本製のガムだけであった。それでもモスクワっ子は「持っていない?」、と聞きながら財布を出す仕草をする。一方、ナホトカのガキは「ガム、くれ!」と手を出す態度の悪いこと。この辺で両者の違いは明白である。いまだに思い出すあの憎たらしい顔、ナホトカのガキは、ソ連への入り口という大切な場所に位置しながら、ソ連の評判をかなり落としているのである。ソ連邦議会はあのガキを日本海の藻屑とする決定をするべきである。

 

ボリショイ・サーカスは日本にも公演に来たことがあるが、本拠地とする劇場は小さい。直径20メートルくらいの円形ステージを囲み、見下ろすように客席が位置する。真っ暗の中でプラネタリュームのように天井に作られた星が輝き、その中で夜行塗料を塗った宇宙服のデザインの服装でする空中ブランコがすばらしかった。10時に終わって外に出るとまだ空が明るい。LOOK組は今夜はボリショイバレーに行ったはずであるが、まだ帰っていなかった。

今宵がモスクワ最後の夜である。インツーリストの手配による一流ホテルに泊まるのもこれが最後、これからの旅はこんなわけには行かない、自分で泊るところを見つけ、自分で食事を買って食べなければならない。

今日は土曜日、ホテルの外では夜中の12時になってもウオッカで酔った若者達が歌っている。騒がしいが、記憶に残るであろうモスクワ最後の夜であった。

 



リーニン廟 と衛兵                         モスクワ大学にて 

7. さらばモスクワ

翌日、ソ連科学経済博覧会なるものを見に行く。ソユーズ、ガガーリンなどと言う、聞き覚えのある言葉が盛んに出てくる。昨日までとは少し変わったソ連を見せてもらった。ソ連は人工衛星を飛ばす工業国でもあるのだった。

ホテルのチェックアウトが済んだ午後、荷物だけホテルに残して地下鉄に乗って市内を回ってみる。ここは共産国、空港や港は立ち入り禁止の場所があり、写真撮影は禁止といわれていたが、市内は意外と自由に行動できる。とはいえKGBに見張られていないという保障はない。

 

デパートに入ってみる。それぞれのコーナーに必要最小限の品物が並べてあり、もちろん日本製など皆無である。今夜から食事が付かないのでパンなどを買う。その買い方がわからなかったが、回りの人たちが親切に教えてくれた。どうやら最初にお金を払って、その領収書を持って売り場に戻ると品物と交換してくれると言う方法であった。

その帰りにバイカルで知り合ったクリスと出会った。クリスはこの後ヘルシンキからヨーロッパを回り、アメリカのルイジアナに帰ると言う。ヘルシンキ行きということは僕や須藤さんと同じコースなので再会を期して分かれる。

今夜は僕らや山下新日本のメンバーも3つのコースに分かれてもモスクワを発つ日である。ホテルに戻るとまもなく、僕らのグループからは一人だけロンドンへ向かう中田さんが午後6時半にホテルを発った。その後ウィーン経由、パリ行きの佐藤さん、鈴木君ら5人が9時にホテルを出ると、僕らヘルシンキ行きの7人だけが残された。

僕らは気を紛らわせるかのようにベルオスカ(外貨専門店)で買ったコニャックとワインを廻し飲みしながら時を過ごす。そして10時、出発のときは来た。わずかなモスクワ滞在であったが、人々の親切にも触れた。地下鉄の乗り方、乗り換え、僕らが迷っているとすぐに数人の人たちが来て丁寧に教えてくれた。

喉が渇いて水の販売機の前に立った僕の手に細かいお金をだまって握らせていった人。そしていつもやさしく迎えてくれたロシアンホテルのフロントのおじさん達。暖かい思い出を残してモスコーの街よ、さようなら、またいつか訪れる日まで。

 

レニングラード駅から夜汽車に乗る。やがてアメリカ人のグレイをコンパートメントに入れてワインを飲む。もはや外人をあまり意識しなくなっていた。言葉は不自由でも気持ちは通じることを知り、わずかな間で旅が僕をインターナショナルな人間にと変えつつあるのを感じる。
いざフィンランドへと夜汽車は進む。
  

8. ヘルシンキのユース

列車は森林の中を走り続け、2カ国目のフィンランドの国境手前で停車した。ソ連の係員に最後の検閲を受ける。最初の須藤さんが集中的にしつこい荷物の検査を受けている。そこで係員に日本のタバコ一本とマッチ一箱をプレゼントしたら他の人はまったく調べられることなく行ってしまった。汽車はゆっくりと動き出し、静かに国境を越える。とたんに目にも鮮やかな建物と美しい花の咲き乱れる花壇が線路の両側を飾る。上半身裸で、畑で働く人が見える。ソ連ではあまり原色を見ることがなかった。それがソ連を暗いイメージにしていたのかもしれない。フィンランドで見る空は同じ空と思えないほど明るく青く見える。

ヘルシンキの駅に着き、ここでこれまでずっと一緒のグループであった清水、浜田のおばさん、そしてストックホルムに向かう市川さんと別れる。須藤さんはしばらくフィンランドを回ってみたいというので、僕と一緒に行動することになっている。

須藤さんとは明日また駅で会うことにして、いったん別れ別行動をとってみることにする。僕は残った日本人数人と駅を出てユースホステルへと向かう。ヘルシンキのユースは1952年に開かれたオリンピックのメーンスタジアムの地下にある大きなユースで、回りはスポーツ公園になっている。幸い簡単にベッドが取れ、そこで会った日本人を入れて早速ディスコに向かう。途中で5人の若者に道を聞くと、一緒にいくことになった。彼らはスゥエーデンの中学生を卒業したばかりの15歳で、男3人と女2人、高校に行く前の夏休みをフィンランドで過ごしに来ているという。15歳とはいい、タバコの吸い方はさまになっているし、そのませ様には圧倒されてしまう。

彼らの案内でディスコに向かう道すがら「これから行く場所はよく喧嘩があるから」と彼らが言うと僕らの一人が僕らのうちの一人を指して「彼は空手家で、柔道家だから問題ない」という。僕も聞いたことのない話であるが、今ヨーロッパで空手といえば誰もが羨望の目で見るアジアの神秘であることが分かった。そして日本語では 気がとがめるような事も英語だとその意味を噛み締めることなく、かなり無責任にストレートに言い易い事も分かった。最初に案内されたディスコは休みであった。ヘルシンキは氷河で削られた土地なので到る所に小高い岩山がある。いくつか岩山を越え、湖の岸辺を歩き、駅の方面に行くとマンドンというディスコがあった。しかし、ここは18歳以上でないと入れないお酒を出すディスコであった。スゥエーデン人の彼らは入れないのでここでお別れである。1時間半ほど一緒であったが最初の印象と違って、なかなか良い奴らであった。お礼を言って分かれて、僕らは中にはいる。

 

門限ぎりぎりにユースに帰る。初めての海外のユースである。日本では何箇所かユースに泊まったことがあるが、ミーティングという交流会がほとんどのユースで毎晩開かれるが、ここはそんなものはなく、かなり自由である。日本人に会えば簡単な自己紹介と会話をするが、2年、3年、5年と海外を回っている人達がいるのには驚いた。とりわけ今日は日本人の多い日だそうで、僕らの部屋だけでも、ざっと見たところ15人はいる。トイレの落書きも日本語であり、とても外国のユースとは思えない。時間一杯までユースで過ごして、夜はすぐ外の公園で野宿というモサもいる。ここのユースは人気がありいつも満員なので続けて3泊は出来ない規則になっている。よって長期滞在者は3泊目は外の公園で寝て帰って来る人が大勢いるようである。食券を買うと安く簡単な朝食も取れるという。

夜が明けるように暮れ、夜が暮れるように明ける、いつの間にか朝が来ている、不思議なヘルシンキの第一夜であった。

9.少年よ大志を抱け

翌朝駅に向かって歩いていると、湖の岸で須藤さんと会った。今朝 駅で会うことにしていたのに結構狭い街なのであろうか。一緒に海パンを買い、駅に向かうと今度は先日汽車の中で宴会をしたグレイに出会った。彼は今夜ヘルシンキを出発するという。一リットル入りのコーラを買って飲むと久しぶりのせいか、実に美味い。これこそソ連にはなかった資本主義の味であろうか。コーラを飲んでいるとユースで一緒だった日本人に会う。本当に狭い街のようだが、要は皆まだ駅からユースの方に続く大通りを行き来しているだけなのである。彼はイギリス、アメリカなどを一年半旅しているという。さすがに旅慣れた感じで格好も様になっている。どこか安く食事の出来るところを知らないかと聞いたらヘルシンキ大学の学食に案内してくれた。外部の者でも問題ないようで、決して旨いものではないが、安くてたっぷりのマッシュトポテトとソーセージの、ボリュームのある食事であった。

 

ユースに戻って、隣にあるオリンピック・プールに泳ぎに行くことにする。美しい屋外プールである。3つの青いプールが並び、一方に観覧席が、一方は岩山がそのまま使われている。その他はすべて青い芝生である。岩山の上にはバレーボールのコートとウエイト・リフティングの設備があり、水着姿の市民が楽しんでいる。リーナとヤルモの双子の姉弟とティーナの3人組に会う。15歳だというが地元の子は昨日のスゥエーデンの子ほどはすれていない。フィンランドでは若者の3−4人に一人は英語を話すが、小学校から英語の勉強をしていると言う彼らの英語は僕らと同じくらいの英話力である。外国語としてスウェーデン語と英語を習っているというが、かなり会話に力を入れた教育を受けているようで、彼らの会話の方が僕らより慣れているようである。ヤルモの勘に助けられながらもいろんな話が出来た。よせば良いのに志村のやつが「我々は10年間英語を勉強している」と大きな顔をして言うものだから、僕は日本人の名誉のために慌てて英語と日本語がいかに異なる言語であるかを説明することになった。彼らと意気投合してプールサイドのカフェでアイスクリームをおごってやった。そしてプールを出て、岩山の上で夕日を見ながら歌を歌い、折鶴の折り方を教え、楽しい半日を過ごすことが出来た。

冬は日中が5時間しかないというこの街の人々は、その分、日の長い夏は精一杯太陽の恵みを受け、日の沈む10時くらいまで子供たちも外で遊び回っている。

明るいうちは夜遊びではないので親も咎めないそうである。午後10時ごろ彼らをバス停まで送っていく。別れ際、志村君がモロに日本語的発音で「ボーイズ ビィー アンビシャス」と彼らに言った。「少年よ大志をいだけ」、それは僕たち自身への言葉とも思えたが、彼らに通じたかどうかは分からなかった。彼らの乗ったバスが見えなくなるまで手を振り続けた。

2年くらい前、ヘルシンキの日本人が、麻薬がらみの犯罪で捕まり、一頃より評判を落としたらしいが、それでも僕らが街を歩いていると車優先のこの国でも、車は止まってくれるし、笑顔を投げかけてくれるし、声をかけてくれる人もいる。空手ブームの影響か14−15歳の女の子に「オス!」といわれるとやはり驚く。もちろん日本人以外の外国人の方が悪い奴は多いと思うが、彼らは口をつぐんだら大概の場合外国人とわからない。そんな中、髪の黒い東洋人は兎に角目立つ、そしてこの国ではその殆どが日本人なのである。ニュースの少ないなか、日本人が捕まったというニュースは大きなニュースとなり、いつまでも尾を引いているのであろう。今日の良い思い出が彼らの心の中にいつまでも残ってくれることを願う。

 

10. 初めてのヒッチハイク

いよいよヘルシンキを離れてみることにする。朝からそれぞれの計画にそって、同室の者がユースを出て行く。僕と須藤さん、そしてここで知り合った佐藤さんとでヘルシンキの北60キロにあるリッヒマキという小さな町を目的地に、出発することにした。この町を選んだ理由は、ヒッチハイクの初心者として手ごろな距離であることと、ユースのガイドブックによれば15くらいしかベッド数のない小さなユースがあったからである。僕たちの狙いはあわよくばそのユースの初めての日本人宿泊客になることである。ヘルシンキのユースには地方のユースで「君がここのユースに泊まった初めての日本人だ」といわれ、国旗を揚げてもらった人がいたという話を聞いていたのである。そしてこれは悲しい話かもしれないが日本人の行かない田舎ほど日本人は歓迎されるらしい。都会部には悪い日本人もいるのである。他の二人とはリッヒマキの駅で会うことにして、幹線道路に出て各自がヒッチハイクに入る。

初めてのヒッチで車はすぐに止まってくれたが、3キロくらいで行く方向が違って降ろされてしまった。しかし別れ際に親切にリッヒマキへの行き方を紙に書いてくれた。次はなかなか車が止まってくれず、道路脇でふて腐れていると、ヒッチの合図(右手の親指を行きたい方向に向けて立てる)もしていないのに、土建屋のお兄ちゃんが止まってくれた。そのお兄ちゃんが20分ほど走って、降ろされたところは車の通らないところであった。人に聞いてみると一本幹線道路から離れているというので1キロほど歩いて戻る。そしてそこでヒッチをはじめて約10分で止まってくれた車には先客の日本人が一人乗っていた。彼はこの先300キロくらいまで行くという。7ヶ月ほどヘルシンキでバイトをしていたそうで少しフィニッシュ(フィンランド語)を話すことが出来る。その車で30キロほど走り、共に降ろされたところで、ヒッチハイクを今朝から始めたばかりの僕に経験者である彼がそのテクニックやルールを教えてくれた。車が止まってくれ易い場所の選び方、ヒッチをしてはいけないところ、ヒッチに入る場所にすでにハイカーが居たら、かならずその人の下手に入ること、などである。彼と別れてしばらくして止まってくれたのは電気屋さんの夫婦であった。子供が5人いるそうで、持っていた紙切れで鶴を折って、幸福を呼ぶ鳥であるといったら喜んでくれた。ヒッチをするのに紙が一枚あれば御礼に折ってあげることが出来る折鶴はこれからも使えそうである。代わりに広告入りのボールペンを頂いた。

この夫婦はあまり飛ばさないがこの国の人の車の運転を見ているとかなりスピードを出している。先ほどのお兄さんはボロボロのダットサンで百何十キロも出していた。それで事故に会ったヒッチハイカーもいると聞く。この国では日本車が多いのには驚く。ソ連ではナホトカで日本人の乗り捨てたようなコロナを見て、その後、モスクワでニュースカイラインのハードトップが人垣に囲まれているのと、ブルーバードUを一台見ただけであったが、フィンランドに入ったら5台に1台くらいが日本車である。そしてこの国ではつい最近オートバイの国際レースがあったそうで、ホンダのオートバイは若者のあこがれの的であるらしい。車の絶対数が少ないので車優先の交通道徳で街中でもタイヤを鳴らして走っている。車はアクセルを目一杯踏みつけないと動かないとでも思っているかのような運転で、歩行者としては気を付けないと、ちょっと怖いのである。

 

その後も順調に親切な人たちに助けられながら午後3時頃、目的地であるリッヒマキの駅に着いた。予想通り、須藤さんの方が先について待っていた。ユースホステルのガイドブックを見ながらこの町のユースに向かう。中心街からかなり離れた所にあったが、歩いていく途中の風景が美しい。緑が一杯の中に童話の世界のようなかわいい家々が隠れるように建っている。

チェックイン後、ユースで待っていた佐藤さんを加えて散歩に出る。残念ながら僕らの前にすでに3名ほどこのユースに泊まった日本人がいたため最初の日本人には成れなかった。

ユースで聞いたところによるとこの町はすごく日本びいきの人が多いという。町を歩くと笑顔で手を振り、挨拶をしてくれる。フィンランドでは会釈をする時、日本とは逆にあごをクイッと前に出して顔を少し上げるようにして挨拶をする。その時「バイヴァー・こんにちは」「ナッ・ケ・ミィーン・さようなら」と言えば完璧である。この日本人に友好的な町はおそらくうわさに聞いた2年前のヘルシンキでの状態だと思う。その良き時代がまだ、この田舎リッヒマキにはまだ残っているようである。緑の美しさが目立つこの町が気に入ってしまった。

白夜の12時、外はまだ薄明るい、そしてもうすぐ、1時半ごろには夜が明けるのである。

1. リッヒマキの小さなユースで

ここのユースには僕ら3人の日本人の旅行者の他に2人のフィンランド人の若者が長期滞在をしていた。計5人、それが宿泊者の全員である。彼らトンモとビンダはタンペレという町からリッヒマキに1ヶ月間アルバイトに来ている学生であった。彼らは英語を話すので、今この国で大人気の空手や車、そして神秘の国であろう日本の話で昨夜は夜遅くまで盛りあがっていた。ここの管理人は高齢のおじいさんで毎日何度か顔を出すだけ。何時に帰ろうが、何時に起きようが、まったく僕らの自由である。こんな小規模の夏の間だけ開かれる小さなユースがこの国には結構あるという。

午前中にこの町の中心街に行ってみる。夏休みのせいか、若者の姿が目立つ。かなりビート掛かった者もいるが目が合えば必ずアゴをクッと上げる、あの挨拶が取り交わされる。これだけ外人、とりわけ外人と一目で分かる黒い髪の東洋人(この国の場合ほとんど全部が日本人の若い旅行者であるが)に対して興味を示し友好的な町はヨーロッパではフィンランド以外にはないと実感する毎日である。

 

夕方5時ごろにトンモ達がアルバイトを終えて帰ってくると、まだまだ日暮れまでにはたっぷりと時間がある。彼らにインスタントみそ汁を飲ませてみると「うまいスープだ、これは何から作ったスープだ?」と聞くので、「みそ汁は味噌から、味噌は大豆から造るのでタバコや酒の害を減らす」と自分でも分からない説明をすると、「分かった」という、この国の人はなかなか理解が早く頭が良いようである。さらに日本から持ってきていた梅干を食べさせてみると、これはさすがに驚いたらしいが「唾液が出るから体に良いのだ」というと全部食べてしまった。この国の人は「体に良い」という言葉に弱いようである。

外はパラパラと雨が落ちてきたが、プールに泳ぎに行く。温泉プールだというので日本のようなものを想像していたら、水温がちょっと暖かい程度でやっぱり寒い。トンモはタンペレで水泳教室に通っていたことがあるというだけあって上手い泳ぎをする。そして寒さにも強く出来ているようである。僕らはすぐに暖かいシャワーが恋しくなってしまう。

ヘルシンキのオリンピック公園同様、こんな田舎の小さな町にも陸上のトラックがあり、テニスコート、サッカー場、プールと運動施設はかなり立派なものが整っているのには感心する。もっともそれを維持するためか、タバコの値段は日本の23倍するし、税金はかなり取られているらしい。

 

プールを出るといつもの様に子供達が何人か自転車で僕らの後を付いてくる。白樺の林の中をユースに戻る。所々にみえる赤い屋根の家々、まったく絵になっている。街にビールを一杯飲みに出る。トンモがどう話を付けたのか隣り合った女の子から飲み代をもらったのには国民性の違いか驚いた。しかしそのすぐ後、隣のテーブルの男から「日本人か?」と声がかかり「そうだ」と答えるとまたビールをおごってくれた。ひょっとしてトンモも僕らをだしにして飲み代をせびったのかも?ビールをおごってくれた人はほとんど英語が出来ないのに知っている限りの単語を並べて話しかけてくる。そして家内がご馳走するから家に来いという。英語の通訳が入ったりして熱心に誘ってくれるので、断るのに大変であった。

 

1. フィンランドの優しさと悲しみ

5日後に、ここリッヒマキに戻ることにしてヒッチでこの「森と湖の国」、を見て廻ることにする。須藤さんとは毎日の行き先だけ決めて後はばらばらでヒッチをして、目的地のユースで落ち合うという計画を立てて、昼頃、遅い昼食をとってユースを後にする。マンタという町まで6台乗り継いだが、英語の出来ない人の車に拾って貰った時は折り鶴が役に立つ。言葉が通じなくてもなんとか心を通じさせる方法を少しずつ身に付けてきた感じである。ヒッチハイクはなかなか車が止まってくれなくて、長く待たなければならない時もある。そんな時、やっと止まってくれたり、時には一度通り過ぎた車が戻ってきてくれたりした時の気持ちは言葉に表せられない。

 

ハメエンリナと言う町で雨に降られてマーケットで傘を買うことにした。現金の持ち合わせのない僕はトラベラーズ・チェックを使おうとしたが、このお店では使えないという。それでも雨に降られて困っている旅行者を助けてあげようと、レジの女の子たちがいろいろ手を尽くして例外的に使わせてくれた。道路に戻ってヒッチハイクのサインを出すが、なかなか車が止まってくれない。

そのうち遥か200メートルほど離れたサロンから軍服姿の人が出て来てこちらに向かって歩いてくるのが見えた。何事かと訝る僕のところまで来ると、「この道路は高速道路だからここで車が止まることは許されていない、この道路に入る前の車を捕まえなさい」と親切にその場所を教えてくれた。おそらくサロンでずっと僕のことを見ていたのであろう。そしていつまでも車が捕まらない僕にわざわざ教えに来てくれた訳で、フィンランドの人たちの親切には感激させられる。旅行者の僕はお礼を言うくらいしか 出来ないのである。

教えられた車が高速道路に入る前の場所で車を待ったが、なかなか止まってもらえない。また雨がしとしと降ってきたので、日本で言ったらマンションのようなアパートの玄関の軒先を借り、荷物を置いてヒッチを続ける。そんな僕を2階のベランダから見守るおばあさんがいた。なかなか車が捕まらない状態にいやになってしまうが、そのおばあさんもずっと僕に付きあって見ていてくれている。励まされていると感じて僕も頑張った。約1時間後に車が止まってくれた。やっと車をチャッチ出来た時、彼女は手を叩いて自分の事のように喜んでくれた。おそらく彼女にとって平凡な毎日の中にあって遠い外国から来た東洋人を1時間も親身になって応援したのは大事件であったに違いない。

社会福祉の発達したこの国の老人の寂しさをこの老婆に見た気がした。僕はこの国に来て初めてしんみりとした気持ちになっていた。そして人の有難さを感じた。「おばあさん有難う、いつまでもお元気」で、再び会えるはずのない おばあさんに僕は手を振り、「キートス(有難う)」と心の中で繰り返しながら車に乗った。

 

タンペレとマンタの中ほどでマンタと書いた紙を持ってヒッチをしていると、タクシーが止まった。タクシーを止めたつもりはないし、ヒッチのサインに答えるタクシーも聞いたことがない。断ろうとする僕に窓越しに運転手が隣の乗客を指差して言う。「彼がスポンサーだから、どうせマンタまで行くから乗れ」という。半信半疑の僕を乗せ20分ほど走ってマンタに入った時、タクシーの料金メーターは78マルカを指していた。お金を支払わされては大変と折鶴や絵葉書をあげて様子を窺って来たが、そんな素振りはない。ためしにマンタのユースを知っているかと聞いてみると、人の良い運転手は「スポンサーを下ろした後、送ってあげるよ」とこともなげに言う。勿論下心があって聞いたのであるが、こうなったらこの国の人を少しだけ疑った罪滅ぼしに今回は徹底して甘えることにする。美しい湖に囲まれたマンタのユースにタクシーで乗り付けたのは夕方6時くらいであった。事情を知らず先に来て待っていた 須藤さんを初め、その場にいた人たちがタクシーでユースに乗り付けた人はいないと驚いていた。この国の人たちの優しさを改めて見せ付けられたような一日であった。

 

昼近く起きて、須藤さんと街に出てみようと歩き出した。すると途中でヒッチをしていないのに車が止まってくれて「乗れ」という。「すぐ近くだから、いいです」と一度は断ったが彼の熱意に負け車に乗るとそのままサロンに着けられた。50代後半くらいと思われる彼は黙ってビールを頼むと僕らの前に置き「飲みなさい」とジェスチャーで示す。ほとんど英語は出来ないらしく、話さない。場を持たせるため折り紙をしているうちに彼は紙に何か書き始めた。そして彼の目から涙がこぼれだした。それはフィンランド語で書かれたもので僕らには分からないが、一番初めにキートス(有難う)と書かれている一文字だけが分かった。やがて一生懸命に何かを語り始めた。彼のジェスチャーと紙に書かれた絵から世にも珍しい言語なしでの会話が続く。そしてだんだんと彼の話す物語が分かってきた。小国フィンランドの歴史とは大国スェーデンとロシアの間で翻弄される国土の奪い合いの場であり、巨大大国ロシア帝国とその後のソビエト連合からの独立を貫くための戦いの歴史である。彼は第二次世界大戦中の1939年から1944年まで兵士としてソ連と戦っていた。そして1943年のある日、全身に砲弾を受けて重傷を負った。激しさを増すソ連の攻撃に動けない彼は死を覚悟した。しかし、その時突然ソ連の攻撃が止み彼は九死に一生を得て助かった。それは日本と戦うソ連が兵力を極東に集結するためにフィンランドとの戦いを止めたからであった。それ以来、彼は見たことのない日本を命の恩人だと思いながら暮らして来たという。彼は2杯目のビールを奢ると何度も何度も力強い握手をして帰っていった。

そもそもフィンランドが独立出来たのは日露戦争でロシア帝国の力が落ち、1917年に民衆が決起しロシア革命が起きた。こうしてロシア帝国の目が国内に向かったその年にフィンランドは独立出来たのである。その意味で少なくとも日本は2度、憎きソ連を背後から叩き、フィンランドを助けてくれた国なのである。そんな思いをこの国の年配の人たちは皆、持っているようで、これがこの国に親日家が多い歴史的な背景である。これほど感謝されると嬉しくもあり、ナホトカでの憎らしいガキとのやり取り以外、ソ連と直接戦った覚えのない僕などは照れくさくもあるが、若者には更に近年の日本製品、空手、あるいは自分たちにはない黒い髪への憧れのような親日感情がある。現代の僕らはその恩恵に与る形で、旅をしている日本人とわかるとこの国の人々は精一杯親切に接してくれるのである。

 

1. 白夜の天使

“フィンランド”と言う国名は英語名であり、彼らは自分達の国を誇りを持って現地語で“スオミ“と言う。それは”森と湖の国“という意味だそうだ。実際この国に来て大きな地図をみて湖の多いことに驚いた。情報によればこの国には18万8千の湖があるという。そのほとんどはこの国の南半分にあり、氷河で削り取られた陸地と湖の関係が、例えれば虫に食われ向こう側が透けて見える葉っぱの様な地形をなしているのである。ここはそんな葉脈の上に出来た、湖に囲まれた町である。ユースに帰って宿泊客であるドイツ人の高校生3人と湖に泳ぎに行く。彼らは4日間ここに滞在しているという。パラフィンの塊を投げ合いながら湖に向かう。湖で泳ぐのははじめての経験であるが、水泳場となっている湖の水は美しく澄み、いかにもフィンランドらしい今までのプールにはない良さがあった。最初水が冷たいのだろうと思って入ったら、思いのほか湖は浅く水温は暖かかった。

湖畔の砂浜でドイツの高校生を相手に相撲を教える。彼は体は大きいが足の長さと重心の高さが災いし、面白いように技がかかる。彼らを投げ飛ばしているといつのまにか回りに15人くらいの見物人が集まっている。好奇心一杯の彼らも入れて10手くらいの投げ技を教えてあげ、質問にも答えてあげる。「他に何か出来ないか」というので、須藤さんが空手の型をみせる。高校の時、体操で国体に出ている僕は余興にバク転、宙返りをみせてやると、結構受けていた。3国入り乱れて、ドイツ人の彼らと「今度はイタ公抜きでやろうぜ」という話はなかったが楽しい ひと時であった。それにしても金髪の少女がビキニ姿で岩に座っているさまは実に決まっている。須藤さんはそんな彼女達を『白夜の天使たち』と呼んだ。

集まってくる子供達はほとんどが綺麗な金髪をしているが中にたまにここフィンランドでも珍しい薄く緑色がかった輝く金髪の子がいる。おそらく特別な呼び方があり、20歳前には普通の金髪になってしまうのかと思うが、染めているはずがなく、はじめて見た時はこんな金緑色の美しい髪があるのかと驚きであった。

 

7月になったこの日、午前中にヘルシンキから一緒だった佐藤さんが僕らと別れて出発した。僕はユースの前の芝生に寝転んで日記を書いたりして午前中を過ごす。今日は驚くほどの良い天気である。日本晴れという意味の言葉がこの国にもあるとすれば、まさに今日はフィンランド晴れである。裸になって体を焼くと北国にもかかわらず、その強烈な太陽光線と貫けるような目にしみる青空は気持ちが良い。草木も短い夏を謳歌するように生き生きとしている。

自分の気に入った所で十分な時間が取れるのは一人旅の特権であり、団体旅行にはない贅沢な時間である。そして今の僕にはそれが出来る。森の匂い、草の匂い、澄んだ空気の味、太陽のまぶしさと暖かさ、ユースの庭で寝転んで、五官の機能に自然を感じる。日本から一番近いヨーロッパ、フィンランド。すっかりこの国が好きになっているのが分かる。

 

夕方4時ごろから湖に泳ぎに行く。昨日より時間が早いせいか子供たちが多い。僕らが行くと水辺の子供たちがどっと集まってくる。そしてマジックペンを出して腕にサインをしてくれと言う。サインだけでは飽きたらず、どうせ読めないことを良いことにめちゃくちゃ日本語を書いてやる。男の子には『男一匹』『がき大将』女の子には『メス大将』などなど刺青感覚で漢字が受けるようである。そのうち漫画を描いたらさらに受けた。一番人気は僕の書く漫画の『ケッムンパス』。いいかげん手が痛くなるほどサインして、漫画を描いて、気が付けばその辺にいる子供たちはみんな両腕にマジックで落書き状態。列を作って腕を差し出すのだから、大変な人気で困ってしまう。この町には日本人が来たことがないのか?ともかく珍しがられ、取り囲まれ。街を歩けば自転車から、自動車から手を振って来るので、それに答えるのに一分に2回は手を振らなければならない。いつも車から手を振られる天皇陛下のご苦労も分かろうというものである。しかし最近はアゴで会釈するフィンランド式の挨拶を覚え、かなり楽になった。ここフィンランドの田舎では日本人はスター並みの扱いである。日フィン友好のため言葉の通じないガキを相手に今日も僕は頑張るのであった。女の子たちはおとなしいが、万国共通、男の子は元気一杯である。更衣室から女の子が出てくるとウインクをしたり、アゴをしゃくったりして僕に教える。タバコを吸う子もいるし、それなりにませているが、憎めない子供たちである。桟橋で落とし合いが始まった。女の子が服のまま落とされてそのまま泳いでいる。落とした男の子は中学生が、高校生で僕より10センチは背が高いが、僕が挑むと「ジュードー ノー」といって逃げてしまう。彼らが本気で掛かって来ても昨日の相撲で体の大きい彼らでも投げ飛ばす自信があった。当然 相撲と柔道の違いは彼らには分かっていないが、こういった投げ技に免疫のないうえに腰がもろく、どんな大技でも簡単に掛かってくれる。

 

日記を書きながらユースの窓から見る空は先ほどまで夕暮れであったが、今はそのまま朝を迎えようとしている。さすがに白夜の国には朝を告げる馬鹿な鳥はいない。

 

14.ヒッチハイクの楽しさ

2日間ユースで一緒だったドイツ人の高校生たちに別れを告げてヴァンカラに向かう。今回も須藤さんと行き先だけ決めて別々にヒッチに入る。今日は順調に車が捕まり快適なヒッチハイクである。フランス車シトロエンに乗ったスイス人のご主人とフィンランド人の奥さんの夫婦に日本人のハイカーである僕、いつの間にかこんなインターナショナルな状況が当たり前になっている。次に乗ったのはバケーションに向かう一家の車、二台の乗り継ぎで今日の目的地ヴァンカラの町に着いた。町の入り口で降ろしてもらうと、ドイツ人の二人の女の子がヒッチをしている。しばらく話し込んで情報交換。しかし女の子のヒッチは楽である。交通量のあるところなら大概5分くらいで車をゲットしていってしまう。男はその3倍くらい待つつもりで臨まなければならない。ヨーロッパの男性は女性に親切で甘いのは分かるがこうも歴然と男女差を見せ付けられるとこの国での日本人の威光も薄れるのである。

彼女たちが行ってしまったので、道路沿いにある売店でコーラを飲みながら、そこにいる若者達にユースへの道を聞く。その中のヤマハのオートバイに乗った一人がユースまでは2キロくらいあるから送ってやるという。リュックを背に、振り落とされないようにオートバイに乗せてもらってユースに着いた。前に一度なかなか車が止まってくれないので時間つぶしに二人乗りのオートバイにヒッチのサインを出したことがあったが、後ろの男が少し前に詰めてこれで乗れるかという仕草をしたことがあった。自転車の少年にサインを出したら、少し先までしか行かないという合図。パトカーにサインを出したらすぐそこでUターンをしてまたこの町に戻るからという合図で答えてくれた。この国の人たちはユーモアも心得たもので、車がなかなか止まってくれない時も時間を潰せるのである

ここのユースにはすでに一人の日本人がいて、彼も宿帳初めての日本人ねらいか日本人が自分だけでなかったことを互いに残念がったりしている。ユースの女性に聞いたら今年このユースに泊まった日本人は彼が4人目、僕が5人目だという。僕より遅れてきた須藤さんは6人目ということになるが、なかなか最初の日本人にはなれないようである。ここのユースも小学校を利用した夏の間だけのユースである。フィンランドはソビエト経由の日本からヨーロッパへの入り口であり、出口であるため、今やどんなに田舎に行っても日本人がいる。彼が明日行くヘルビスのユースはベッド数16、今度は期待できると張り切っていた。そして僕らは明日はフィンランドで最も美しいと言われるフィンランドの南東の湖水地方に向かうつもりである。

夜、ユースの受付をしている女の子にフィンランド語のレッスンをしてもらう。英語をフィンランド語のカタカナに書き直すことで僕専用の辞書を作ろうという訳である。フィニッシュの発音は日本語に似て母音が入るので、カタカナ書きをしたフィンランド語をそのまま読むと通じるようである。英語の通じない人の車に乗った時は、この即席会話教室の成果が発揮されることであろう。「シナ オッレテ カウニスツッタ」が「貴方は、美しい女性ですね」、「ミナ ラカスタン シヌア」が「僕は貴方を愛しています」。まー、この会話は使うことはないだろうが一応念のために書き留めておいたのであった。

 

1. キャンプ場のアクシデント

日本を出てから15日目、早くも大変なことをやってしまった。時は7月3日、午後6時半ごろ、その日は午後4時ごろプンカハーレヤと言うキャンプ場に着いてユースを探すが、今年はユースはオープンしていないとの事で、野宿をするつもりで宿探しをやめキャンプ場の湖で水泳を始めた。ここは岩肌の多いヘルシンキの周辺と景観が幾分違って針葉樹林の深い森の中に湖のある風光明媚なキャンプ場である。ひと泳ぎしてから例のごとく子供たちに囲まれて折り紙などをして、また泳ぐため、水面に突き出た桟橋に向かった。それは今までにも何度も見た幅1メートルくらいの岸辺から湖に向かって10メートルほど突き出した小さな桟橋である。体操の心得のある僕は飛込みにはちょっと自信があった。その時は高く踏み切り前方宙返りをして着水するはずであった。しかし、踏み切り台そのものがぷかぷかと水面に浮かんだタイプのもので、しかも飛び込む方向に対して横に10センチ幅くらいの板が打ち付けられ、板と板のあいだに1センチほどの隙間があった。それは後で分かったことであり、その時は今までの湖と同じように杭でしっかりと固定された台だと思っていた。踏み切った瞬間ふわりっと台が沈み込み足を取られた。強く踏み切れなかったので高く飛び上がることなく、そのまま水面に落ちるように着水した瞬間、足先に異常を感じた。岸に向かって泳ぐといよいよ右足の人差し指が突っ張っているのが分かる。上がって足先に触ってみてもそんなに痛みはないがしびれて感覚がない。突き指かなと最初は思ったが腫れがこない。曲げ伸ばしをしてみると触った骨の部分が少し凹んでいる、骨折しているのが分かった。「やっちゃった」と思った。踏み切った時、板と板の間の1センチほどの隙間に足の人差し指が引っかかってしまったようだ。子供たちが心配そうな顔をして寄って来る。家族連れのキャンパーが多く、親達が来てくれて、誰かがキャンプ場の管理人を呼んでくれた。管理人はかなり英語が出来たので心強かった。

マックと名乗ったこのキャンプ場の管理人は20代後半くらいか「近くには病院がないので、明日の朝イマトラという町までに行けば病院があるから今夜はここのバンガローに泊まりなさい」と言ってくれた。スリーピングバックで野宿のつもりがこのアクシデントで管理人のバンガローのベッドに泊めさせてもらえることになった。夕飯はキャンプ場の子供たちが持って来てくれた。リッヒマキに戻るまでは須藤さんともはぐれ、本当の一人旅であり、そこにこのアクシデントである。自己診断では単純骨折か少なくともヒビがはいっているだろう。この類の骨折は経験があった。3週間ほどでかなり普通に歩けるようになるであろうが、しばらくはビッコの生活となる。旅行の日程にも影響を与えるかもしれない。マッチ棒を添え木にして、絆創膏を貰って固定すると何とか歩けるようになった。マックを初め、子供たち、その両親たちの親切に囲まれ不思議に悲壮感はなかった。キャンプ場の皆が心配してくれる、こんな場所でのアクシデントであったことが幸いに思えたのである。

やがて丸太小屋の窓の外に美しい真夜中の夕焼けを見ながら眠りに付いていた。

 

朝、子供たちが見舞いに来てくれた。マックに言われたように、イマトラの病院を目指してキャンプ場を出ることにする。バスで行けと言うマックの勧めを断ってヒッチを続けることにする。実は手持ちの現金が9マルカしかなかったのであるが、イマトラまでのヒッチは今までになく苦労した。かんかん照りの中、マックが造ってくれたイマトラと書かれた板切れを持って車を待つが、なかなか止まってくれない。この辺を通る車のほとんどが家族連れのバカンスに行く車で家族のメンバーと荷物とですでに車は一杯である。2時間の長い待ち時間でやっと車を捕まえ、その後も待ち時間が長く、3台の車を乗り継ぎ、やっとイマトラに付いたのは午後4時であった。最後の車は小型トラックで土に汚れた服を着た人で、初めは山奥で穴掘りでもして生活している人かと思った。それにしては英語も話せるし、教養もあるちゃんとした人である。事情を説明すると、この車を置いた後、彼の車で銀行と病院に連れて行ってあげると言う。とても親切な人である。そして、彼の言っていた車置き場のある建物に着くと軍隊のようなバリっとした制服の人たちが出入りしている。察するところ森林パトロールの事務所であるらしい。昨日は公園管理官に泊めてもらい、今日も国家の車に乗せてもらいフィンランドの国家にも大いに感謝しなければならないようである。彼のダットサンに乗り換えて銀行に連れて行ってもらい、少し多めにトラベラーズチェックを現金に両替する。そして病院の前まで送ってくれた。「もうすぐ病院も閉まる時間だから急いで」と言う彼に厚くお礼をいって別れ、病院に駆け込む。旅行者保険を持っているのでそんなに診療代が掛かるとは思えなかったが、時間が4時を廻っていたのでエクストラ料金がかかると言う、幾らか聞いたら「30マルカ」だと言う。そんなに無駄金を使いたくなかったので「それでは、明日また戻って来ます」と言うと、「初診料だけで、見るだけ診てあげましょう」と言う。背の高い若い医者が来て、まずは、マッチ棒による僕の処置をほめた後、「このようなケースの場合、医者としてもレントゲンを撮って、このように固定する以外治療の仕方がないのです」と言うのでそれならば明日戻って来て、レントゲンを取った上、同じく固定してもらう必要もないと思えた。3週間もビッコを引いていれば治るだろうし、ヒビだけだったら2週間で治るだろう。彼の話でも「完全骨折の心配はないから、固定しておけば2−3週間で治るでしょう」との事で僕の見立てとまったく同じであった。時が治してくれるのを待つことにして病院を後にしてイマトラのユースに向かう。

 

1.. 万国共通語英語の力

イマトラの町は中心街のすぐ近くにダムがあり、そのダムでせき止められた湖を囲むように出来た町である。このダムは週末に放水するので観光地として有名だそうだ。ユースは街の中心街から少し歩いたそのダムを挟んで反対側にあった。古いレンガで出来た2階建ての一見普通の家で中年のおばさんがフロント裏の部屋に住み込んでいた。チェックインして荷物を降ろし、ユースのルールの説明をされた後、何人かの宿泊客を紹介される。ほとんどがヨーロッパの国々から夏の間北欧に旅行に来ている若者たちである。

 

街中の公園に行ってみようと歩き始めるとダムの橋の上で先ほどユースで見かけた男が話しかけてきた。彼はオランダ人でそうとう話し好きのようで、機関銃のように息をもつかず話てくる。

今までフィンランドで出会ったヨーロッパ人はドイツ人が一番多かった。そしてスゥエーデン人、スイス人の順か。参考までに世界中どこにでもいる旅行者は日本人とドイツ人で、何処にでも住み着いているのは中国人だそうだ。僕が今まで会ったヨーロッパ人は、ほぼ全員英語を話した。ヨーロッパでも最も語学力があるのは異なった言語圏に囲まれたスイス人というのが定説である。ほとんどのスイス人が最低ドイツ語、フランス語、イタリア語の3ヶ国語を幼い時から聞きながら育ち、ほぼ母国語として不自由なく話す。英語も僕の会ったスイス人は全員話したから、それで4ヶ国語である。ついで語学の達者な国民はオランダ人、デンマーク人の小国が続く、ヨ−ロッパの中心に位置するこれらの国々の人は、自国が狭く他国に行く機会が多い、その都度要求される言葉が違うので、他国語を話すのが必然的に必要な地形に暮らしていると言う事であろう。そんな中で世界中で一番使われる、現代最強の国際共通語が英語であることは、誰もが認めることである。僕がこれまでに感じたことは、現代では何ヶ国語も話せる人がいたとしても、英語を話せなければ語学の達人とは言ってもらえないということである。そしてその英語には大雑把に言えば英国英語、米国英語、オーストラリア英語、そして英語を母国語としない人たちの話す国際英語がある。それぞれに独特のアクセントがあるが英国英語以外はいうなればその地で勝手に話されてきた方言英語であるが、僕にとって一番分かり易いのはお互いが外国語としての英語を話す国際英語である。その点でオランダ人はこの国際語の達人と言える。彼が最初に僕に「英語を話せますか?」と言ったとき「はい」と答えてしまったのがいけなかった。いままでフィンランド人が相手であればそれで良かったのだが、ここは「少し話します」と言うべきだった。しかし彼がオランダ人だとは知らなかった。すでに遅し、かなり高度な話に入っていくのを止める術を知らない。彼はかってマラソンの選手で2時間20分台の記録を持っていて、予選の時体調を崩さなければ東京オリンピックに出場出来ていたはずだと言う話などを休みなく話してくる。最初は聞き取れなかった彼の言葉も耳を傾けているうちに、知っている単語はほとんど拾えるようになり、分からない単語が出てくると聞き返す。国を出てから半月で僕のヒヤリングもかなり上達したと自分でも感心する。彼の話の90%くらいは理解出来たと思うが、話す方はとても太刀打ちできない。「旅行者として、この国の政治をどう思うか」などとこちらに振られても僕は政治学者でないから大した意見を持っているわけでない、その上日本語で答えを用意出来たとしても英語で難しいことを言えないので、言いたい意見は置いといて「きれいな空気と自然があって良いと思うよ」くらいの事しか言えないのである。すると「日本は公害で空気、川、海が汚されていると言うが、国はどんなことをやっているのか」などと言われても、環境学者でないので気の利いた答えを持ち合わせている訳でない。あったとしてもそれを英語で伝えなければならないなど真に困るのである。しかしここは日本人の代表として何かを答えなければならないのであろう。「わが国でもルールを作って、だんだんと良くなりつつある」などと逃げるしかないのであった。

 

ダムの横にある公園に行くと何組か若者が芝生の上に車座になってビールを飲んでいた。近づくと夕方レストランで会った姉妹に呼び止められて彼女らの仲間に入る。座るとすぐに仲間のバッグから取り出されたビールが回ってくる。

そこにはもう一人日本人の若者がいた。鈴木と名乗る彼は僕と同じ新潟の出身だと言う。この国に入って5日目だと言うのでこの国で会った旅行者としては始めての後輩である。高校を出てアルバイトをして、自力でヨーロッパに来たと言う。良い奴なのだが、知っている限りの単語を並べた片言英語であることないことを話す。「我々は東京の学生で、ジャパニーズ文学 (この部分日本語)を勉強している、我々は子供のときからの友達である」と単語とジェスチャーで意思表示を立派にしている。「おいおい、今、会ったばかりだぞ、、、」、そして時たま話を合わせるために日本語で僕に話しかける。新潟県人らしからぬ彼をみていると、あまり言葉が出来なくても心を通じさせる才能を持った人はいるのだなと思わせられる。僕は笑いを堪えながら彼の話に合わせると、彼の話はちゃんとそれらしいストーリーになってしまうのだから面白い奴である。アルバイトをしながら2年間ヨーロッパを回ると言う彼、「久しぶりに新潟の人間に会えてよかったです」と喜んでくれた。彼ならどこに行っても立派にやっていけるであろう。繰り返すが新潟県人にはあまりこういうタイプの人はいないはずである。

 

翌朝ユースをチェックアウトして荷物を持って公園に行くと、鈴木が野宿している。水筒の水で顔を洗って一緒に朝食を済ませた後。彼は北に向かって出発した。僕の足の怪我は下駄を履くとほとんど普通に歩けるとこが分かった。下駄は底が固いのでギブスをしたのと同じような効果があり、足に直接ショックが来ない。しかも歩くために前に向かって地面を蹴るとき、下駄の高さだけ遊びがある上に、下駄で爪先立ちになっても指の骨折部分にはまったく力が掛からないのである。僕は足の様子を見るためにもう一日イマトラに留まることにした。

 

1. 天使がくれたバラ

 

僕は朝の教会の庭で芝生に横たわって空を見ていた。真っ青で透明な空の周りを木の枝の緑が囲っている。そして教会の鐘の音が小鳥のさえずりと争うように鳴り続けていた。今日は数人の乙女が洗礼を受ける日だという。

教会から出てきた洗礼を終えた乙女が走り寄ると、僕の手に一輪のバラの花を残していった。そのバラを手に、僕の心もやっと澄み始めていた。この3日間僕は自分の正体を見失っていた。そして荒れきった生活をしていた。僕はすべてを失い、もうこれ以上失う物はなかった。美しい自然もほとんど目に入らなかった。野良犬のように何かを求めてさまよい続けた。精神的に荒れ切った3日間の後、一輪のバラを手に今、新たな出発の時が来たと感じていた。この3日間ほど自分の弱さを知ったことはなかったし、自分の弱さを知った人間の危うさも知った。

 

鈴木と別れたその日、わずかの間に僕はすべてをなくした。鈴木がやっていったようにその日、野宿をするつもりで公園で若者の輪に入ってビールを飲んでいた。その後二人の少女に誘われ、公園から道路を横切ったところにある、ブルームーンというディスコに踊りに行く。公園では、いつものように一晩中若者たちが飲んでいて、顔見知りになった彼らが僕の荷物を見ていてくれると思っていた。しかし戻ってみると僕の荷物は跡形もなく消えていた。まさかこの国、この公園で盗難に会うとは思っても見なかった。気が付いた時、残された物は病院で使うつもりだった100マルカ(日本円で7千円位)の現金とサングラスとポケットの櫛、そしてタバコとマッチ、コンタクトレンズ、下着にジーパンとジャケット、時計と下駄。つまり身に付けていた物がすべてであった。パスポートすらなく、着の身着のままで突然、一人異国の地に投げ出されたというのが現実であった。

最初のころは表向きしか見ていなかったこの街中の公園には人生があった。福祉国家に生きがいをなくした若者が他にやることがなくて、毎晩ビールをバックに詰めて公園に集う。僕をなんの抵抗もなく仲間として受け入れてくれるが、夜な夜な酒に溺れエネルギーを発散するしかない、ここはそんな若者達の溜まり場であった。盗難に遭ったのは金曜日の夜で、月曜までなすすべがなかった。僕は自分からさらに深くその裏側に入っていた。3日間自暴自棄の状態で荒れた生活をしていた。

ふとしたきっかけで来た教会の庭で鐘の音と洗礼を終えた乙女のくれた一輪のバラの花が僕を現実に引き戻してくれた。

盗難に遭った夜、公園にいた若者が警察に連れて行ってくれて、簡単な調書をとられ、彼が家に泊めてくれた。そして火曜日の朝、ユースを通してパスポートと荷物の一部が見つかったと連絡が来た。一眼レンズのカメラ、日本円、羽毛の寝袋など、金目の物はほとんどなかったが、パスポートとリュックサックと着替えなど最低限、旅をつづけられる物だけでも出て来たのは幸いであった。さらに公園で和田さん、尾崎君の二人の日本人に会い、いろいろ助けてもらった。和田さんは英語がかなり出来るので、そばにいてくれると心強かった。尾崎君はこれからヘルシンキにいって、日本へ帰るところなのでと、持っていた寝袋を僕にくれた。こうして旅を続ける最低限の品物と勇気をもらったのであった。

 


18.再出発

イマトラからヘルシンキまでは315キロ、荷物の一部が見つかった翌日、トラベラーズチェックの再発行を受けるためヘルシンキに向かった。ヘルシンキの銀行でとりあえず250ドル分のトラベラーズチェックを受け取り、残りはコペンハーゲンで受け取れるように手配してもらった。これで旅を続ける目安が付き一安心、そのまま日本大使館に行って久しぶりの日本の新聞を読ませてもらう。1週間ほど前までの新聞があったが、僕の身にはこんなに大事件が頻発しているのに日本では大きなニュースはなかったようである。

 

ヘルシンキのユースは相変わらず日本人が圧倒的に多い。ソビエト経由でまもなく帰国する者と、2週間前の僕のように日本から着いたばかりでこれからヨーロッパを回ろうという者がほとんどなので方々に日本の匂いがする。そんな中に通称「落語家」と呼ばれている、扇子ならぬギターを抱えた一人の日本人がいた。彼は日本に帰国するためのソ連のビザを待っていて、僕が会った時すでにこのユースでは有名人であった。元々日本でも米軍キャンプで歌っていたという歌手崩れで、夜な夜な日本人とドイツ人を集めて2段ベッドの上でギターを弾きながら歌っていた。自分で作った曲から、日本の民謡、ロシア民謡、替え歌、外国の歌、その他リクエストはほとんどなんでもこなす。ギターの腕もかなりのものである上に話が面白い。大変なショーマンで、皆を笑わせながら次々に歌うのである。その中でもフィンランドで作った自作の「ブルー アイ」という青い瞳の乙女たちを歌った曲がすばらしく、僕も何度かリクエストさせてもらったのである。日本へ帰ったらレコードを出すそうで、その前にここヘルシンキで流行らせたいとのこと。彼の夢はどこまで実現されるのか分からないが、もし日本で彼のレコードを見つけたら5枚買うことを約束させられたのである。

 

リッヒマキに須藤さんが待っていると思いヘルシンキを出てリッヒマキに向かう。このコースはフィンランド到着後、僕の人生で始めてのヒッチハイクをしたコースである。今回は幸運にもヘルシンキから直接リッヒマを通過する車を捕まえてあっけなくも1時間で着いてしまった。懐かしいユースの前に行くと須藤さんがいた。10日くらい会わなかっただけなのに僕には積もる話が一杯あった。

ユースには他に宝田と中島という二人の日本人がいた。そしてここのユースの管理人は、以前のヨボヨボのおじいさんから陽気な30代の男性に替わっていた。彼もまた相当な日本びいきで会うたびに両手を高く上げて挨拶してくる。若いころ体操をやっており、この国のジュニアチャンピオンになったこともあるという。そう聞いては国体に出ている僕も黙ってはいられない。皆で何かをやってくれと頼むとバク宙(後方宙返り)をやってくれたので、僕も我慢できず、足にハンディーがあることを示してバク宙をやってみせたら、手が痛くなるほど拍手をしてくれた。足の回復は想像以上に早い。ヒビが入っても2週間で強度的には元の強さに戻ることを知っているが、精神的な痛さはすぐには克服できず、なかなか元のように体重をかけられず、庇ってしまうのであるが、マッチ棒で添え木をして怪我の直後から下駄で普通に近い状態で歩き続けたことが回復を早めていたのだと思う。怪我をしてから10日と少し、まだ添え木をしているし、無理をしたらまだ痛いのだろうなという思いがあったが、彼の飛び跳ねるのを見ていたら血が騒いでやらずにはいられなかった。バク転をやってみたら出来た、そしてつい、バク宙までやってしまった。そんな馬鹿なところがスポーツをやるものにはある。でもこれで明日から自信を持ってどんな所でも自分の足で歩いていけると思った。

ところで最近、海外に飛び出す若者は皆一癖、二癖持っていることに気づいた。だから日本人に会うとまずどんな旅をして来たか聞き、何をやる人か、何が出来る人かバックグラウンドを聞き出したうえで、良く観察するようにしている。

中島は法学部だけあって政治に関してなかなかしっかりとした意見を持っていて、時たま政治について日本を出て見てきた外国との違いを熱く語りだす。宝田は重量あげの選手で立派な体をしていた。体育会系のクラブにいただけあって、礼節を心得た好青年である。皆 海外に出てそれぞれが自分なりにいろいろ経験し、これからの人生を模索しているのだと思う。

 

マンタで涙を流しながら僕らにビールをご馳走してくれた人が須藤さんの辞書の裏にフィンランド語で書いてくれた文章を須藤さんが誰かに翻訳してもらっていた。それにはこう書かれていた。

 

君たちは新しい世代だ、

戦争を知らない世代だ

広く海外に飛び出し、外国を見て、

あの忌まわしい思いを消して欲しい

平和な世界を築いてほしい

戦争はもう、こりごりだ

 

僕は改めて彼の顔を思い出した。このメッセージを胸に今日からまた新しい旅への出発だ。須藤さんはトンモの故郷タンペレに行きしばらく滞在してそこにある英語学校に通うという。日本を発つ日にバイカル号で出会って以来ずっと一緒に旅をしてきた須藤さんとも、ここでお別れである。

須藤さんと別れ、骨折事故、盗難事件もひと段落付いた今、この町から再出発の心境で、まずは近くのラヒテという町に向け出発することにする。

 

リッヒマキにて

1. フィンランドの若者達

フィンランドに入って最初に気づくことはカラフルな色使いの国だということだ。街の至る所に美しい花壇が作られ花が咲き乱れている。家々の屋根、壁に原色系統がふんだんに使われ、草木は今が新緑とばかりに輝いている。実際春と夏が合わせて3ヶ月しかなく、8月になればもう秋というこの国には冬の暗い(日照時間約5時間、北に行けばさらに短い)イメージを明るい色によって弱めようという意図があるのだと思う。森と湖の多いこの国には日本とほぼ同じくらいの国土面積に日本の20分の1の人しか住んでいない。この国の子供たちは水泳が大好きである。水が冷たい5月から待ちきれずに泳ぎ始める。冬の太陽の恵みの少ないこの地では、短い夏の間に太陽の恵みを受けられる限り受けるため、裸で日光浴、水泳をし、帽子、サングラス姿もほとんど見ない。時には街中を裸足で平気で歩いている姿を何度もみた。一度東京で裸足で歩く男を見たことがある。その時は酔っ払いが靴を無くして来たのだろうと蔑みの目で見ていたが、今度この種の男を見たら、流行の先端を行く憎い男として尊敬してしまうだろう。