『旅人、ユーラシアを往く』  小堺 高志

 

まえがき

これはもう30数年も前、私が20代前半に始めて海外に出た時の話である。

 

子供のころから旅行記を読むのが好きだった私は「ヨーロッパ自転車の旅」とか「未開の地アマゾンを行く」、滞在記「アメリカの小さな町から」そして小田実の「何でも見てやろう」などなど、そのころの私にとっては冒険記である文書を読みあさり、世界地図を見ては心を躍らせていた。中学生の頃にはいつしか海外に出たいという気持ちを確実なものとして持っていた。そして、アメリカは今回行けなくとも、いつかかならず行ける時が来るだろうと初めての海外の目的地はヨーロッパであった。

その思いが現実味を帯びてきたのは大学生活も最後の年となり卒業単位も殆どとり、アルバイトをして旅の資金が幾らか溜まったころであった。最初の計画では行く先々でアルバイトをしながら、最低1年くらいのつもりであったが、出発の数ヶ月前に両親に計画を話すと、かなりの纏った旅の資金を渡され、その際父に言われたことが「アルバイトなどをせずとも、援助をしてあげるから見たいところを見て早く帰って来い」ということであった。必ず戻って卒業するという条件で立て直した計画は大雑把なものでソビエト連邦から北欧にはいり、ヘルシンキ、ロッテルダム、ロンドン、パリ、マドリッド、ローマとヨーロッパを回り直接空路で帰国するか、条件がそろえば陸路の中近東経由で帰る、というものであった。

目的地ヨーロッパでは、白夜とアルプスを見ながら国々の人と文化に触れ、単なる観光旅行ではない自分にしか出来ない旅がしたいと思っていた。そしてその頃、直接空路ヨーロッパから帰国する航空費とほぼ同じ値段で陸路で2ヶ月かけて日本に帰られるという情報を得ていたので、南経由で帰るのであれば、ヒマラヤと南十字星を見てみたいと、思っていた。

 

以前、私の渡米時のことを書いてHP上に発表した『夏の風』は時期的には前後するがこの作品の続編となるものである。長らく手元に寝かしていたこのヨーロッパ編の記録は私にとり始めての海外旅行であり、その経験はその後の私の人生を大きく変えることとなる。昨年の中秋の名月を見ていてヨーロッパでみた月を思い出し、「そろそろまとめてみるか」と思ったのであった。以下は30数年の歳月を越え蘇る私の青春の旅の記録である。

 

その後の世界情勢は大きく変わっているが、皆さんも始めて海外に出た時の感動や自身の青春真っ只中であった時を思い出し、読んでいただけたらと思う。

 

2006年 1月

小堺 高志

カリフォルニア州、トーレンスの自宅にて

前編・『白夜』

 

1.旅立ちのとき

6月19日、7時10分前に目覚ましの音に目を覚ます。弟と住む都内高円寺のアパート、周りを見れば見慣れた顔の5−6人が雑魚寝して眠りほうけている。昨夜のことを思い起こせば、友達からの電話、実家からの電話の後、親友の池田、そして部の後輩の面々が顔を出し、送迎マージャンなどと称し、朝方の4時まで起きていた。僕はその後も寝過ごしてはいけないと何度も時計を見て、朝を迎えたのであったが、僕が起きても誰も起きてこない。

仕度が終わったころ、弟が起きてくれたが他の面々は布団の中から「元気で行ってこいよ」「気を付けて行って来てください」などと寝ぼけ声を出すばかりで起きて来て見送ろうなどと言う奴はいないようであるが、こうして顔を出してくれたことが嬉しい。外は今にも雨が降りそうな重い空模様である。

見送りは要らないといってあるので、弟の声に送られて玄関の一歩から僕の旅は始まった。

 

横浜から船に乗っての出発である。予定より少し遅れて桜木町の駅で降り、桟橋までタクシーで行くことにしてタクシー乗り場で待っていると、僕の後ろに同じような姿の男が同じようなリュックを持って並んだ。彼には2人の見送り人と思える人が同行しているが一人旅の様子。「バイカル号ですか?」と声をかけると「そうです」との返事、さっそく旅は道づれと彼らと一緒にタクシーに乗り、横浜港へと向かう。曲渕と名乗った彼は1年間大学を休学してヨーロッパを周ってくるという。彼の見送りの友達がタクシー代を払ってくれ、出入国管理事務所に行って出国の手続きをする。さっそく旅仲間を作れたのは大きな収穫である。

手続きを終え、目の前に停泊するバイカル号に乗り込む。「さらばモスクワ愚連隊」、「青年は荒野をめざす」を書いた五木寛之もこの船に乗りヨーロッパへ行っている。数多くの小説にも出てくる有名な船である。有名な割には思ったより小さな船であった。『これでは佐渡に行く佐渡汽船と大差がないな』、などと思いながらリュックを船室に運ぶ。

部屋にはすでに同室者がいた。自己紹介をして一緒にデッキに出る。彼は須藤さんと言い、私より一つ年上、明大を出て何もすることがなくて退屈しているところを親父さんに言われ、親父さんの仕事であるインテリアを学びにヨーロッパにでも行ってくるかということになったのだそうである。

出航は1時間遅れているが、だんだんと船上の人と桟橋の間で飛び交うテープの数が多くなってくる。須藤さんも見送り断り組で、手に何本もテープを持って別れを惜しむ人たちの後ろで、この期に及んで別れを惜しむとはと、弱冠開き直って冷静に人々を見物する。やがて楽団が「蛍の光」を演奏しはじめると船は静かに桟橋を離れる。時計をみると11時55分であった。もう後には引けない若さだけが取柄の僕をどんな旅が迎えてくれるのか。ちょっと気持ちが高ぶるのを感じる。はずむ会話の中、須藤さんとは気が合いそうである。

 

   バイカル号で出発                         親しくなった須藤さん

2.バイカル号ナホトカに向かう

船室に戻るともう一人の同室者、鈴木君がいる。彼は僕より若いが、パリへ3年間の予定で油絵の勉強に行くという。それぞれが目的は違っても一人旅の若者が多く、最近の若者は僕も含めてではあるが、なかなかやるものである。

昼食の合図に食堂に行くと同じテーブルに佐藤さんという人がいた。彼はパリへ語学留学をするという。食堂でかいがいしく給仕をしてくれる金髪のウェートレスの姿にすでに僕らが外人なのだと思い起こす。食後、同室の二人が船酔いで寝込んでしまった。そういえば外洋に出た船はかなり揺れはじめている。僕もベッドに横になってしばらく時間をつぶすことにする。

 

夜、時計を1時間遅らせてハバロスク時間にするようにと知らされる。今のところ船酔いが重くない僕は、二人を置いてミュジックサロンで毎晩開かれるというダンスパーティーに顔を出してみることにする。薄暗い中で昼間港まで一緒に来た曲淵君を見つけ、同席すると、そこで彼の同室者の3人を紹介された。他に同席者で関西大学の教授がいらした。ロンドンで開かれる学会に出席する化学者だというが、わざわざ時間のかかる船旅をしているところが只者ではない。

この船では夜になると船員が華麗なる変身を遂げミュジシャンとしてステージに立ち船客を楽しませてくれると聞いていた。4人組のバンドが演奏を始めると、周りのテーブルはほとんど他国人で、僕の気持ちも船の中であることを忘れ、すでにここはどこかの外国である。

ハードなリズムになると皆踊りだす。彼らの体格の大きさには圧倒されてしまう。アメリカ人とヨーロッパの人がほとんどであるが、ヨーロッパ人は外国語であるはずの英語をほとんど不自由なく使っている。それに比べ日本の英語教育、取り分け会話力のなさを痛感する。横浜で絵の先生をやっていて、この後3年ほどパリで勉強してアメリカに帰るというアメリカ人に会う。日本にいた彼はかなり日本語を話す。半々くらいの日英混合語で結構なんでも通じる。このくらい日本語を話してくれたら楽であるが、これから先の旅では日本語が通じるはずがないのである。彼と一緒の友人は30年日本にいて日本語はぺらぺらだそうだが、いまは船酔いで寝ていると言う。この機会にいろいろ英会話を試してみるが、なんとか通じるとは言い、自作英語の域を出ない。英会話をもっと勉強しておくのであったと思っても、もうサイコロは振られている。これからはその場その場でサイコロの目を楽しみながら会話力を磨いていくしかないのである。

 

日が変わって夜中12時になるとパーティーも終わり、船室に戻ると昼間デッキで会った松本が僕を訪ねて来ていた。ウィーンからヨーロッパに入って、2ヶ月間回って北欧に行き、またこのコースで帰国する予定だという。ヘルシンキから入る僕とは逆コースになるので、また何処かで会うことになるかもしれない。一人旅の連中とは同じ境遇のためか、すぐに友達になれる。

デッキに出ると真っ暗な海に船の上げる白い波が印象的であった。

 

昨夜の夕食を一緒にした佐藤さんが起こしに来てくれて、最初の朝を迎えた。一番船酔いの激しかった鈴木君の具合はかなり良くなったが、須藤さんと二人今日の朝食はまだ食べないというので佐藤さんと食堂に向かう。このソビエト連邦のインツーリスと言う国営旅行会社の扱うヨーロッパまでのツアーにはその間の3食も含まれているので、食べられないとはもったいなくも、かわいそうな二人である。それでも須藤さんは昨夜のプロ野球、南海、ロッテ戦の結果を気にかけ、はては今年の紅白歌合戦の心配までしている。彼は2年間の滞在予定であるから、今後なかなか日本の新聞を読む機会もないだろうが、出発して一晩、いまだ日本に未練たっぷりである。

 

昼食のころから波も静かになって来た。同室の二人も起き出し、丸一日ぶりの食事を取る。「また酔うといけないから、あまり食べないでおこう」と言いながらも、食べだすとやはり2食抜いているのでフォークが進む。

夕方すっかり元気になった須藤さんが「日本海に入って、また酔うといけないから、酔う前に酔いに行こう」とのうれしいお誘い。バーに行ってビールを頼むことにする。 カウンターの向こう側に体格の良いおばさんが働いている。

冗談半分で「おばさん!」と呼びかけてみると日本語で「はい、ちょっと待ってよ」と返ってきた。一瞬驚きで須藤さんと顔を見合わせ、「ビール頂戴」。カウンターの裏には日本のガムが並んでいた。

イギリスに留学すると言う日本の女性が二人コーラを飲んでいた。話をすると船内での向こうの男性はやたら親切だと言う。結論としては日本の男性も良いところはもっと真似るべしと言うことであった。勉強になります。

このころから外にはイカ釣り船がたくさん見え出した。船は下北半島のあたりを回りこんで日本海に入っていこうとしている。夕暮れ時からたくさんの釣り船に灯りがつき厳しい漁師の生活を垣間見る。「イカが獲れてもスルメが安くならないのはなぜか」学生運動で大学を追い出されかけた須藤さんは当然「政治が悪い、政治が」おまけに昨日の船酔いも自衛隊の船があげた波のせいだとおっしゃる。

 

発見、バイカル号に麻雀のセットが置いてある。早速、好き者が集まって 1卓囲むことにする。何しろ出発の日の早朝まで麻雀を打っていた私である。丸い卓ではあるがヨーロッパではお目にかかれないであろうと、もう一度麻雀稗の感触を惜しむのであった。

 

夕食後、バイカル号最後の夜を惜しむダンスパーティーが開かれた。昨夜とはだいぶ変わって、民族舞踊、歌とステージに立っているのは全員乗組員のはずであるが、上手い。りっぱなショウが一通り終わるとあとはダンスタイムになり、今日は外人のペースに巻き込まれ、日本人もかなり積極的である。ダンスを申し込むと誰でも一緒に踊ってくれる。

寝る前に上の階の一等乗客用の浴室に入りにいった。本当は僕らの2等にはシャワーしかついていないのであるが、1等船室のある階にはきれいな浴室がある。私を世話してくれた旅行代理店の戸谷さんからの入れ知恵で、一等船室の客と言う顔をしていけば、まったく問題ないようである。僕にとり始めての洋式のお風呂であるが湯船の中で体を洗うと言うのは日本人の観点からいくと不潔な感じがするが、おそらくこれから先お湯をためてお風呂につかると言う機会も少ないはずである。やはりお湯に浸かっての入浴はいいと、一等乗客顔をした僕は思うのであった。

楽しいかったバイカル号の船旅最後の夜は更けていく。明日はいよいよ初めての異国の地を踏むことになる。 
船員によるショー

3.初めての異国、ナホトカ上陸

3日目、明け方ごろ窓から外を見ると船は霧に覆われている。視界は50メートルくらい、船側の黒い海面とその上を覆う白い霧しか見えない。それでも波はかなり静かになっている。時折汽笛を鳴らしながら日本海の真只中を船は進んでいく。汽笛と霧が船旅の情緒を盛り上げる。

サロンでアメリカ人とトランプをする。ニッピーという彼は立川の米軍基地におり、ヨーロッパ経由でアメリカに一時帰国し、また日本に戻る予定だと言う。日本人との会話に慣れた分かりやすい英語を話してくれるが、彼はなんと5ヶ国語を話せると言う。2ヶ国語目で苦労している僕からは羨ましい限りであるが、世界には何ヶ国語も自由に操る人がいくらでもいるのであろう。

外のざわつきにデッキに出てみると霧の切れ目にソ連の陸地が見える。やがて船は鉛色の海面を滑るように静かに桟橋に付けられた。いよいよ僕にとって始めての異国の地への上陸である。

簡単な手続きであったが2時間も待たされて、やっと上陸の許可がでた。下船のアナウンスがされると一斉に荷物を持った乗客が出口に向かう。

ここはナホトカの港、まず目に入った港の景色は天候のせいもあるだろうが色彩に乏しい、暗い感じの町である。港からバスで駅に運ばれることになるが、小さな町であるからバスで2分とかからないところに駅があり降ろされたのは、何でも見てやろうと乗り出していた僕には拍子抜けであった。汽車の出発まで1時間半ほどあり、辺りを歩いてみる。その辺の雑草を見てみるとタンポポが多く、オオバコなどあまり日本のそれとあまり変わらない。雑草はどこに言っても雑草であるが、日本のそれより存在感があるのは異国で思いがけず見慣れた草に出会った僕の気持ちのせいであろうか。

 

汚れた服を着た小学校高学年くらいの子供が3人寄ってくると片言の英語で「マッチ箱を交換してくれ」と言う。持っていたマッチを彼らの差し出すソビエトのマッチと交換してやると今度は「チュウイン・ガムをくれ」、「タバコをくれ」と要求がエスカレートしてくる。ガムは持っていない、タバコは子供にはだめだと言うと「良い時計をしているな」と来る。そして自分もアメリカ製だと言う時計を見せてくる。どうせまがい物であろう。「勉強するのに使うから、ボールペンをくれ」と言う。おもわず日本語で「嘘をつけ!勉強するようにはみえん」、今から立派な詐欺師である。さらに20カペーカを出して白いのと変えてくれと言う。白いのと言えば、100円玉のことであろうが、最初5円玉を見せると、とんでもないと言う顔をする。面白半分に1円、10円と加える。それ以上出したらこちらが損をする。小学生とは思えない憎たらしいガキである。そもそもソ連のコインなど日本の1円玉よりさらに小さくて貧弱な、とても硬貨とは思えない代物である。1ルーブル紙幣などは最初から偽札としか思えない、舐めたら当り、外れなどと出てきそうな5百円札の半分くらいのチャチな紙幣である。しかもこのひねくれて可愛げのない子供たち、誰が交換してやるものか。

 

さらに進むと丘の上に学校らしき建物がある。その横の建物にはスローガンが書かれている。スローガンには「ソ連人民に栄光あれ」と書かれていると佐藤さんが辞書を片手に解読してくれた。佐藤さんは翻訳関係の会社につとめ、フランス語をマスターするためにパリに留学の旅であるから、僕らの中では英語も一番話せるし、辞書を片手にロシヤ語の解読のみならず会話も出来てしまう頼りになる人である。

駅に戻るとまもなく汽車は北に向かって出発した。最初の風景は開拓村のような造りの農家が続く。川で魚釣りをする人がいる。家路を急ぐ人がいる。日暮れは9時を回ってからであったが、家の明かりが見える。この灯りの一つ一つに家庭があり、僕らと同じような生活があると思うと、こんな視線で他国の生活を見られる旅に出て良かったと実感が湧いてきた。闇の中、大きな建物はない、高い建物もない。それでもあたり一面に散らばった灯りはそこに確実に人が住んでいることを知らせている。僕は暗い窓からその温かみのある灯りをいつまでも見続けていた。

  
ハバロスクに向かう車窓からみる開拓村

4.どうせ僕らはBクラス

目を覚ますと一瞬寝ぼけながらここが何処だか考えた。シベリア平原を走り続ける汽車の中であった。大平原がどこまでも続く。あまり大きな雑草はない、そして森もまだ背の低い広葉樹林で、想像していたツンドラにひろがる針葉樹林ではないので思っていた風景とは少し違うが、やたらに広い。風景を見ていると汽車が止まっているのかと思うほど、見渡す限り風景が同じで変わらない。今走っているのはナホトカからハバロスクへの線路上、ソ連の極東の端っこをちょっと走っているに過ぎない。

 

まる一日走ってハバロフスクに着き、駅からバスに乗せられ、レストランに向かう。車窓から見る街並みはナホトカと違ってかなりヨーロッパ的な都会らしい町である。広い道路をガイドの案内で走る。ガイドもここからは英語オンリーであるらしい。日本語は隣の友達との間でだけ使われ、耳に入ってくる言葉の比率がいつの間にか英語の方が圧倒的に多くなっている。切り替えに慣れていないので、ぼんやりしていると英語のリズムで日本語を聞いていて自分でもおかしいと感じる。この同じ団体の中でも日本交通が取扱店である「LOOK」の団体には日本人の係員がついているが、我々の山下新日本の扱いの13名はどうせツーリストのBクラスであるから現地の英語を話す係員しか付いていない。この「どうせツーリストのBクラス」という半分やっかみの言葉がこのところ僕らの間での、はやり言葉である。でも実際は「LOOK」もインツーリストの分類ではツーリストのBクラスであり、少し料金が違うくらいで、ほとんど待遇に変わりはないのであるが、わずかな違いを強調して話題にし、面白がっているのである。

 

レストランで昼食を食べる。ソ連のパンは固くてまずい。黒パンは味を覚えたら癖になると聞いたが今のところ僕の舌に合うとは思えない。失礼ながらこの味が癖になると言ったのはよほど貧しい食生活を何年も強いられた戦争捕虜の方たちであろうか。そしてさらに不味いのが胡瓜で、生で出されたら苦く、漬け物で出されたら腐っているのかと思う酸味でなんとも現代の日本では捨てられるしかないであろう代物である。外国人である僕らはこれでもこの国の最高級の食材でもたなされているはずであるが、やはり極寒の地となる国では冬季は保存食しかなく、美食は育み難いのであろうか。

 

ソビエト連邦国営旅行公社インツーリストが取り扱う日本からヨーロッパへの片道ツアーはここハバロフスクからシベリア鉄道で陸路を1週間かけてモスクワに向かう人たちと、空路モスクワに飛ぶ人たちとの2手に分かれる。ほとんどの人が空路モスクワにむかう方を選んでいるようであるが、シベリア鉄道でモスクワに行き、ヘルシンキから自転車で3ヶ月間ヨーロッパを回るという2人の若者とはここで別れる。インツーリストのBクラスにはBクラスにしかない旅の面白さがあるように行き先は一緒でもさまざまな過程があり、そこにはまた違う旅があるのである。ヘルシンキからは全てを自分で選び、決めて、作る旅となる。その方が団体で動く旅行より遥かに面白く、有意義な旅が待っていると僕は思う。

  
ハバロスク市内にて

5.夕焼けのモスクワ

午後2時45分、僕らは飛行機でハバロフスクの空港をモスクワに向かって発った。僕の人生初めての飛行である。今の今まであんな鉄の塊が空に浮くわけが無いと言う鉄学(哲学)を持っていた。しかし現実に今、僕の乗ったアエロフロートの大型ぼろ飛行機は空中を飛んでいる。「空港で整備員がガムテープを持って行くのをみた。あれは落ちそうな機体の部品を貼り付けるために使われるに違いない」などという、まことしやかな話が伝わってくる。それでもあのバイカル号より静かなものである。機はだんだんと高度を上げ、雲を下に見下げると、雲の切れ目に地上の道路が糸のように平原を走るのが見える。時たま開墾された耕地が見える。これが例のコルホーズやらソホーズやらと呼ばれる集団農園であろう。時たま現れる大きな開拓地が10円禿げに見えるほどソ連の平原は広く森は深い。

飛行機の中で前の席のおばさんがスェーデンのケネディー家 (この家の主人はどこか故ケネディー大統領に似ているので僕らの間ではそう呼んでいた)の子供二人に折り紙を作ってあげている。最初に作ったのは蛙、器用なものである。ケネディさんは「太らせて食べたいね」と大阪訛りの日本語で皆を笑わせる。そういえば彼の子供に英語で一生懸命話しかけたのに通じないで日本語が返ってきた、子供達は日本生まれの日本育ちで英語は話せなかったと言う話をバイカル号の中で聞いたものである。僕も今後のために折紙で鶴、兜の作り方を教わった。

 

モスクワに近づくと雲が絨毯のように下で白く輝いている。時に綿飴のような雲、霞のような雲といろんな姿ではじめての飛行機の旅を楽しませてくれる。雲の上にはまぶしい太陽が輝いている。時折はるか下に曲がりくねった河や湖、森がみえる。約9時間の飛行でモスクワに着くと聞いている。この距離をハバロフスクで別れた若者は今、シベリア鉄道で1週間かけてモスクワへと進んでいるはずである。モスクワではさらにフィンランドのヘルシンキ行きと、オーストリアのウィーン行き、そしてロンドン行きにと分かれて行く。僕は基本的には一人旅であるが行く先々で友達を作れば良いと思っているし、今のところそのハンディーは感じない。会うは別れの初めとか、旅はまだまだこれからである。別れた友の倍の友達を作るべく頑張ろうと思う。

 

モスクワ空港は広く、緑に囲まれた美しい空港である。バスで市内に向かうとモスクワは広大な土地を惜しげもなく使ったヨーロッパ的な美しい都であることが分かる。湖で釣りをしている人がいる。ここはソ連の首都であるから、日本で言えば都内に自然の森林がかなり残され、湖があって、そこで魚釣りを楽しんでいるようなものである。皇居のお堀では錦鯉が釣れてしまうであろうが、そもそも釣りは許されているのであろうか?やはり庶民が都内で釣りを楽しむとしたら釣堀とか限られた場所になってしまう。ここモスクワは広大な自然の中に作られた都会という感じで、まったく違和感なく自然の中での生活を楽しむ人がいる。中心街に近づくと中世の石造りの建物がうまく現在の建物に調和している。

やがてバスは僕らのモスクワでの宿泊所となる「ロシアンホテル」に着いた。ガイド嬢の説明によると、この「ロシアンホテル」はヨーロッパで一番大きなホテルだと言う。なるほどこの建物の大きさは100メートル四方の16階くらいあり、真ん中に50メートル四方くらいの中庭を持つ、形としては大きな枡のような形をしている。明日はモスクワの市内観光が組まれているが、このホテル自体がモスクワの名所群の真只中に位置しておりクレムリン、赤の広場、レーニン廟など写真で何度も見た場所がこのホテルのすぐ周辺にある。じっとしていられず佐藤さんとホテルの周りを歩いてみる。今までは船から、飛行機から、バスから見るだけであったソ連が、いま僕の足の下にあった。時間はハバロフスクの時間からさらに7時間戻し夜の9時である。日本では東の空の明らむ6月23日午前5時、モスクワの街は今赤い夕日に輝いている。家路を急ぐ人、デートを楽しむ若者、明るくてとても夜9時とは思えないが、西の空が完全に暗くなったのはそれから、さらに2時間後であった。


ホテルの窓から見た風景                     佐藤さんと、後ろに見えるのがロシアンホテル

 

6.モスクワを見てやろう

モスクワの夏の朝は早い。3時半に外を見るとすでに夜は明けていた。スモッグのないモスクワの空は快晴である。ロシアンホテルの僕らの部屋のすぐ下には、ロシア帝政時代の古い建物がいくつかあって、そのうちの幾つかは修繕中であった。何百年もの歴史を感じさせるレンガの建造物は日本の木造とは違った良さがある。

朝のラッシュアワー時にも街は静かである。窓から見えるところでは数台の車と10人くらいの勤めに向かうらしい人しか見えず、この街には朝のあわただしさと言うもが感じられない。ずば抜けて高い建物もなく、たまに15階くらいの高層ビルが見える程度。うまく街に溶け込んだ近代ビルの間に中世の塔が顔を出している。

 

バスに乗って市内観光に出かけクレムリン、赤の広場等を見る。赤の広場は何万人も行進の出来るような大きな広場だと思っていたが建物に囲まれた、あまり広さを感じない場所にあり、実際かなり狭い場所であった。すぐそばにあるレーニンの墓は途切れない長い見物人の列が出来ていた。その長い列を見て、僕らは自由時内のレーニン廟の見学をあきらめた。このあたり一帯は石畳のたたずまいであり、石とレンガで造られた建物など、そこにいる人以外はすべて歴史を感じさせるものばかりである。

ちょうどレーニン廟の衛兵の交代が始まった。大きなモーションで歩いてきた3人の兵が、中に消えるとちょうど上の大時計が11時を指した。その鐘が鳴り止まないうちに中で交代した3人の兵が出てきた。まさにからくり時計の一部である、おもちゃの兵隊のような正確な動きに感心したのであった。

次に行ったクレムリンはかなり広かった。ここは日本のお城の内堀、外堀のように二重の城壁に囲まれている。外側の城壁は内壁と300メートルほど離れてその跡をわずかに残しているにすぎないが、その二つの城壁の間に僕らの滞在しているロシアンホテルは建っているのであった。そのホテルの西側には内城壁とクレムリンが見える。元々王宮であったクレムリンは、今は博物館と立法関係機関が使っている。その博物館には帝政時代の品物がたくさん展示してあった。金、銀、宝石の装飾品、皿、狩に使われた美しい銃、矢、剣、すべてが贅沢の限りをつくしている。この贅沢な皇帝、貴族の生活がやがて庶民の反発と革命を生むこととなるのである。現在、連邦政府が使っている建物は昔からある建物より低く、しかも一番目立たない位置にそれとなく、本当にそれとなく建てられているのには感心した。こうして歴史的風景を壊さないように保護しているのである。

コスイギンもブレジネフも誰もクレムリンには住んでおらず、彼らは市内のアパートメントに住んで通っているという。そして大抵、その家賃は日本円で月に5千円くらいのものだと言う。

 

広大な土地を贅沢に使って建てられたモスクワ大学、日本の北海道大学のキャンパスをさらに大きくした日本では見られない規模の教育機関である。レーニンの丘、ボリショイ劇場、チェホフの家、チャイコフスキー・コンサートホール、レニングラードホテル等、聞いたことのある名所が次々にバスの車窓に現れる。しかし、慣れない英語の説明をずっと聞いているのは疲れるのである。ロシア人のガイドさんは休みなく英語の説明を続けているが、分かりやすい英語であるだけに何とか聞き取ろうとするとかなり集中力を使うこととなる。その点、浜田と清水の二人のおばさんは英語はイエスとノーくらいしか知らないから、初めから英語を聞き取ろうとするつもりがないので楽であり、じつに堂々としたものである。30年来の親友と言う二人は50歳を超えていると思うが、コペンハーゲンに留学している清水さんの娘に会いに行く旅で、たいていは着物を着ていていつも元気一杯である。僕も日本から下駄を持ってきていたので、夜のボリショイサーカスの公演はお二人を真似て下駄で行くことにした。

下駄の音はホテルの玄関など絨毯の敷いてない場所では恥ずかしいくらい大きな音が響き渡る。屋内では少し音をころして歩いていたが、外に出るとその心地よい音にバスの運転手から「ハラショウ!」と言ってもらえた。

ボリショイ・サーカスの劇場の前でまたまた「チューインガムを持っていないか?」と聞かれた。ソ連でもてる方法を見つけた、チューインガムをたくさん持っていくことである。ソ連では作っていないか、あっても極端な品不足、庶民はチュウインガムに飢えている。ここはまだ「ギブミー ア チュインガム」の世界である。そういえばバイカル号の中でも売っていたのは日本製のガムだけであった。それでもモスクワっ子は「持っていない?」、と聞きながら財布を出す仕草をする。一方、ナホトカのガキは「ガム、くれ!」と手を出す態度の悪いこと。この辺で両者の違いは明白である。いまだに思い出すあの憎たらしい顔、ナホトカのガキは、ソ連への入り口という大切な場所に位置しながら、ソ連の評判をかなり落としているのである。ソ連邦議会はあのガキを日本海の藻屑とする決定をするべきである。

 

ボリショイ・サーカスは日本にも公演に来たことがあるが、本拠地とする劇場は小さい。直径20メートルくらいの円形ステージを囲み、見下ろすように客席が位置する。真っ暗の中でプラネタリュームのように天井に作られた星が輝き、その中で夜行塗料を塗った宇宙服のデザインの服装でする空中ブランコがすばらしかった。10時に終わって外に出るとまだ空が明るい。LOOK組は今夜はボリショイバレーに行ったはずであるが、まだ帰っていなかった。

今宵がモスクワ最後の夜である。インツーリストの手配による一流ホテルに泊まるのもこれが最後、これからの旅はこんなわけには行かない、自分で泊るところを見つけ、自分で食事を買って食べなければならない。

今日は土曜日、ホテルの外では夜中の12時になってもウオッカで酔った若者達が歌っている。騒がしいが、記憶に残るであろうモスクワ最後の夜であった。

 



リーニン廟 と衛兵                         モスクワ大学にて 

7. さらばモスクワ

翌日、ソ連科学経済博覧会なるものを見に行く。ソユーズ、ガガーリンなどと言う、聞き覚えのある言葉が盛んに出てくる。昨日までとは少し変わったソ連を見せてもらった。ソ連は人工衛星を飛ばす工業国でもあるのだった。

ホテルのチェックアウトが済んだ午後、荷物だけホテルに残して地下鉄に乗って市内を回ってみる。ここは共産国、空港や港は立ち入り禁止の場所があり、写真撮影は禁止といわれていたが、市内は意外と自由に行動できる。とはいえKGBに見張られていないという保障はない。

 

デパートに入ってみる。それぞれのコーナーに必要最小限の品物が並べてあり、もちろん日本製など皆無である。今夜から食事が付かないのでパンなどを買う。その買い方がわからなかったが、回りの人たちが親切に教えてくれた。どうやら最初にお金を払って、その領収書を持って売り場に戻ると品物と交換してくれると言う方法であった。

その帰りにバイカルで知り合ったクリスと出会った。クリスはこの後ヘルシンキからヨーロッパを回り、アメリカのルイジアナに帰ると言う。ヘルシンキ行きということは僕や須藤さんと同じコースなので再会を期して分かれる。

今夜は僕らや山下新日本のメンバーも3つのコースに分かれてもモスクワを発つ日である。ホテルに戻るとまもなく、僕らのグループからは一人だけロンドンへ向かう中田さんが午後6時半にホテルを発った。その後ウィーン経由、パリ行きの佐藤さん、鈴木君ら5人が9時にホテルを出ると、僕らヘルシンキ行きの7人だけが残された。

僕らは気を紛らわせるかのようにベルオスカ(外貨専門店)で買ったコニャックとワインを廻し飲みしながら時を過ごす。そして10時、出発のときは来た。わずかなモスクワ滞在であったが、人々の親切にも触れた。地下鉄の乗り方、乗り換え、僕らが迷っているとすぐに数人の人たちが来て丁寧に教えてくれた。

喉が渇いて水の販売機の前に立った僕の手に細かいお金をだまって握らせていった人。そしていつもやさしく迎えてくれたロシアンホテルのフロントのおじさん達。暖かい思い出を残してモスコーの街よ、さようなら、またいつか訪れる日まで。

 

レニングラード駅から夜汽車に乗る。やがてアメリカ人のグレイをコンパートメントに入れてワインを飲む。もはや外人をあまり意識しなくなっていた。言葉は不自由でも気持ちは通じることを知り、わずかな間で旅が僕をインターナショナルな人間にと変えつつあるのを感じる。
いざフィンランドへと夜汽車は進む。
  

8. ヘルシンキのユース

列車は森林の中を走り続け、2カ国目のフィンランドの国境手前で停車した。ソ連の係員に最後の検閲を受ける。最初の須藤さんが集中的にしつこい荷物の検査を受けている。そこで係員に日本のタバコ一本とマッチ一箱をプレゼントしたら他の人はまったく調べられることなく行ってしまった。汽車はゆっくりと動き出し、静かに国境を越える。とたんに目にも鮮やかな建物と美しい花の咲き乱れる花壇が線路の両側を飾る。上半身裸で、畑で働く人が見える。ソ連ではあまり原色を見ることがなかった。それがソ連を暗いイメージにしていたのかもしれない。フィンランドで見る空は同じ空と思えないほど明るく青く見える。

ヘルシンキの駅に着き、ここでこれまでずっと一緒のグループであった清水、浜田のおばさん、そしてストックホルムに向かう市川さんと別れる。須藤さんはしばらくフィンランドを回ってみたいというので、僕と一緒に行動することになっている。

須藤さんとは明日また駅で会うことにして、いったん別れ別行動をとってみることにする。僕は残った日本人数人と駅を出てユースホステルへと向かう。ヘルシンキのユースは1952年に開かれたオリンピックのメーンスタジアムの地下にある大きなユースで、回りはスポーツ公園になっている。幸い簡単にベッドが取れ、そこで会った日本人を入れて早速ディスコに向かう。途中で5人の若者に道を聞くと、一緒にいくことになった。彼らはスゥエーデンの中学生を卒業したばかりの15歳で、男3人と女2人、高校に行く前の夏休みをフィンランドで過ごしに来ているという。15歳とはいい、タバコの吸い方はさまになっているし、そのませ様には圧倒されてしまう。

彼らの案内でディスコに向かう道すがら「これから行く場所はよく喧嘩があるから」と彼らが言うと僕らの一人が僕らのうちの一人を指して「彼は空手家で、柔道家だから問題ない」という。僕も聞いたことのない話であるが、今ヨーロッパで空手といえば誰もが羨望の目で見るアジアの神秘であることが分かった。そして日本語では 気がとがめるような事も英語だとその意味を噛み締めることなく、かなり無責任にストレートに言い易い事も分かった。最初に案内されたディスコは休みであった。ヘルシンキは氷河で削られた土地なので到る所に小高い岩山がある。いくつか岩山を越え、湖の岸辺を歩き、駅の方面に行くとマンドンというディスコがあった。しかし、ここは18歳以上でないと入れないお酒を出すディスコであった。スゥエーデン人の彼らは入れないのでここでお別れである。1時間半ほど一緒であったが最初の印象と違って、なかなか良い奴らであった。お礼を言って分かれて、僕らは中にはいる。

 

門限ぎりぎりにユースに帰る。初めての海外のユースである。日本では何箇所かユースに泊まったことがあるが、ミーティングという交流会がほとんどのユースで毎晩開かれるが、ここはそんなものはなく、かなり自由である。日本人に会えば簡単な自己紹介と会話をするが、2年、3年、5年と海外を回っている人達がいるのには驚いた。とりわけ今日は日本人の多い日だそうで、僕らの部屋だけでも、ざっと見たところ15人はいる。トイレの落書きも日本語であり、とても外国のユースとは思えない。時間一杯までユースで過ごして、夜はすぐ外の公園で野宿というモサもいる。ここのユースは人気がありいつも満員なので続けて3泊は出来ない規則になっている。よって長期滞在者は3泊目は外の公園で寝て帰って来る人が大勢いるようである。食券を買うと安く簡単な朝食も取れるという。

夜が明けるように暮れ、夜が暮れるように明ける、いつの間にか朝が来ている、不思議なヘルシンキの第一夜であった。

9.少年よ大志を抱け

翌朝駅に向かって歩いていると、湖の岸で須藤さんと会った。今朝 駅で会うことにしていたのに結構狭い街なのであろうか。一緒に海パンを買い、駅に向かうと今度は先日汽車の中で宴会をしたグレイに出会った。彼は今夜ヘルシンキを出発するという。一リットル入りのコーラを買って飲むと久しぶりのせいか、実に美味い。これこそソ連にはなかった資本主義の味であろうか。コーラを飲んでいるとユースで一緒だった日本人に会う。本当に狭い街のようだが、要は皆まだ駅からユースの方に続く大通りを行き来しているだけなのである。彼はイギリス、アメリカなどを一年半旅しているという。さすがに旅慣れた感じで格好も様になっている。どこか安く食事の出来るところを知らないかと聞いたらヘルシンキ大学の学食に案内してくれた。外部の者でも問題ないようで、決して旨いものではないが、安くてたっぷりのマッシュトポテトとソーセージの、ボリュームのある食事であった。

 

ユースに戻って、隣にあるオリンピック・プールに泳ぎに行くことにする。美しい屋外プールである。3つの青いプールが並び、一方に観覧席が、一方は岩山がそのまま使われている。その他はすべて青い芝生である。岩山の上にはバレーボールのコートとウエイト・リフティングの設備があり、水着姿の市民が楽しんでいる。リーナとヤルモの双子の姉弟とティーナの3人組に会う。15歳だというが地元の子は昨日のスゥエーデンの子ほどはすれていない。フィンランドでは若者の3−4人に一人は英語を話すが、小学校から英語の勉強をしていると言う彼らの英語は僕らと同じくらいの英話力である。外国語としてスウェーデン語と英語を習っているというが、かなり会話に力を入れた教育を受けているようで、彼らの会話の方が僕らより慣れているようである。ヤルモの勘に助けられながらもいろんな話が出来た。よせば良いのに志村のやつが「我々は10年間英語を勉強している」と大きな顔をして言うものだから、僕は日本人の名誉のために慌てて英語と日本語がいかに異なる言語であるかを説明することになった。彼らと意気投合してプールサイドのカフェでアイスクリームをおごってやった。そしてプールを出て、岩山の上で夕日を見ながら歌を歌い、折鶴の折り方を教え、楽しい半日を過ごすことが出来た。

冬は日中が5時間しかないというこの街の人々は、その分、日の長い夏は精一杯太陽の恵みを受け、日の沈む10時くらいまで子供たちも外で遊び回っている。

明るいうちは夜遊びではないので親も咎めないそうである。午後10時ごろ彼らをバス停まで送っていく。別れ際、志村君がモロに日本語的発音で「ボーイズ ビィー アンビシャス」と彼らに言った。「少年よ大志をいだけ」、それは僕たち自身への言葉とも思えたが、彼らに通じたかどうかは分からなかった。彼らの乗ったバスが見えなくなるまで手を振り続けた。

2年くらい前、ヘルシンキの日本人が、麻薬がらみの犯罪で捕まり、一頃より評判を落としたらしいが、それでも僕らが街を歩いていると車優先のこの国でも、車は止まってくれるし、笑顔を投げかけてくれるし、声をかけてくれる人もいる。空手ブームの影響か14−15歳の女の子に「オス!」といわれるとやはり驚く。もちろん日本人以外の外国人の方が悪い奴は多いと思うが、彼らは口をつぐんだら大概の場合外国人とわからない。そんな中、髪の黒い東洋人は兎に角目立つ、そしてこの国ではその殆どが日本人なのである。ニュースの少ないなか、日本人が捕まったというニュースは大きなニュースとなり、いつまでも尾を引いているのであろう。今日の良い思い出が彼らの心の中にいつまでも残ってくれることを願う。

 

10. 初めてのヒッチハイク

いよいよヘルシンキを離れてみることにする。朝からそれぞれの計画にそって、同室の者がユースを出て行く。僕と須藤さん、そしてここで知り合った佐藤さんとでヘルシンキの北60キロにあるリッヒマキという小さな町を目的地に、出発することにした。この町を選んだ理由は、ヒッチハイクの初心者として手ごろな距離であることと、ユースのガイドブックによれば15くらいしかベッド数のない小さなユースがあったからである。僕たちの狙いはあわよくばそのユースの初めての日本人宿泊客になることである。ヘルシンキのユースには地方のユースで「君がここのユースに泊まった初めての日本人だ」といわれ、国旗を揚げてもらった人がいたという話を聞いていたのである。そしてこれは悲しい話かもしれないが日本人の行かない田舎ほど日本人は歓迎されるらしい。都会部には悪い日本人もいるのである。他の二人とはリッヒマキの駅で会うことにして、幹線道路に出て各自がヒッチハイクに入る。

初めてのヒッチで車はすぐに止まってくれたが、3キロくらいで行く方向が違って降ろされてしまった。しかし別れ際に親切にリッヒマキへの行き方を紙に書いてくれた。次はなかなか車が止まってくれず、道路脇でふて腐れていると、ヒッチの合図(右手の親指を行きたい方向に向けて立てる)もしていないのに、土建屋のお兄ちゃんが止まってくれた。そのお兄ちゃんが20分ほど走って、降ろされたところは車の通らないところであった。人に聞いてみると一本幹線道路から離れているというので1キロほど歩いて戻る。そしてそこでヒッチをはじめて約10分で止まってくれた車には先客の日本人が一人乗っていた。彼はこの先300キロくらいまで行くという。7ヶ月ほどヘルシンキでバイトをしていたそうで少しフィニッシュ(フィンランド語)を話すことが出来る。その車で30キロほど走り、共に降ろされたところで、ヒッチハイクを今朝から始めたばかりの僕に経験者である彼がそのテクニックやルールを教えてくれた。車が止まってくれ易い場所の選び方、ヒッチをしてはいけないところ、ヒッチに入る場所にすでにハイカーが居たら、かならずその人の下手に入ること、などである。彼と別れてしばらくして止まってくれたのは電気屋さんの夫婦であった。子供が5人いるそうで、持っていた紙切れで鶴を折って、幸福を呼ぶ鳥であるといったら喜んでくれた。ヒッチをするのに紙が一枚あれば御礼に折ってあげることが出来る折鶴はこれからも使えそうである。代わりに広告入りのボールペンを頂いた。

この夫婦はあまり飛ばさないがこの国の人の車の運転を見ているとかなりスピードを出している。先ほどのお兄さんはボロボロのダットサンで百何十キロも出していた。それで事故に会ったヒッチハイカーもいると聞く。この国では日本車が多いのには驚く。ソ連ではナホトカで日本人の乗り捨てたようなコロナを見て、その後、モスクワでニュースカイラインのハードトップが人垣に囲まれているのと、ブルーバードUを一台見ただけであったが、フィンランドに入ったら5台に1台くらいが日本車である。そしてこの国ではつい最近オートバイの国際レースがあったそうで、ホンダのオートバイは若者のあこがれの的であるらしい。車の絶対数が少ないので車優先の交通道徳で街中でもタイヤを鳴らして走っている。車はアクセルを目一杯踏みつけないと動かないとでも思っているかのような運転で、歩行者としては気を付けないと、ちょっと怖いのである。

 

その後も順調に親切な人たちに助けられながら午後3時頃、目的地であるリッヒマキの駅に着いた。予想通り、須藤さんの方が先について待っていた。ユースホステルのガイドブックを見ながらこの町のユースに向かう。中心街からかなり離れた所にあったが、歩いていく途中の風景が美しい。緑が一杯の中に童話の世界のようなかわいい家々が隠れるように建っている。

チェックイン後、ユースで待っていた佐藤さんを加えて散歩に出る。残念ながら僕らの前にすでに3名ほどこのユースに泊まった日本人がいたため最初の日本人には成れなかった。

ユースで聞いたところによるとこの町はすごく日本びいきの人が多いという。町を歩くと笑顔で手を振り、挨拶をしてくれる。フィンランドでは会釈をする時、日本とは逆にあごをクイッと前に出して顔を少し上げるようにして挨拶をする。その時「バイヴァー・こんにちは」「ナッ・ケ・ミィーン・さようなら」と言えば完璧である。この日本人に友好的な町はおそらくうわさに聞いた2年前のヘルシンキでの状態だと思う。その良き時代がまだ、この田舎リッヒマキにはまだ残っているようである。緑の美しさが目立つこの町が気に入ってしまった。

白夜の12時、外はまだ薄明るい、そしてもうすぐ、1時半ごろには夜が明けるのである。

1. リッヒマキの小さなユースで

ここのユースには僕ら3人の日本人の旅行者の他に2人のフィンランド人の若者が長期滞在をしていた。計5人、それが宿泊者の全員である。彼らトンモとビンダはタンペレという町からリッヒマキに1ヶ月間アルバイトに来ている学生であった。彼らは英語を話すので、今この国で大人気の空手や車、そして神秘の国であろう日本の話で昨夜は夜遅くまで盛りあがっていた。ここの管理人は高齢のおじいさんで毎日何度か顔を出すだけ。何時に帰ろうが、何時に起きようが、まったく僕らの自由である。こんな小規模の夏の間だけ開かれる小さなユースがこの国には結構あるという。

午前中にこの町の中心街に行ってみる。夏休みのせいか、若者の姿が目立つ。かなりビート掛かった者もいるが目が合えば必ずアゴをクッと上げる、あの挨拶が取り交わされる。これだけ外人、とりわけ外人と一目で分かる黒い髪の東洋人(この国の場合ほとんど全部が日本人の若い旅行者であるが)に対して興味を示し友好的な町はヨーロッパではフィンランド以外にはないと実感する毎日である。

 

夕方5時ごろにトンモ達がアルバイトを終えて帰ってくると、まだまだ日暮れまでにはたっぷりと時間がある。彼らにインスタントみそ汁を飲ませてみると「うまいスープだ、これは何から作ったスープだ?」と聞くので、「みそ汁は味噌から、味噌は大豆から造るのでタバコや酒の害を減らす」と自分でも分からない説明をすると、「分かった」という、この国の人はなかなか理解が早く頭が良いようである。さらに日本から持ってきていた梅干を食べさせてみると、これはさすがに驚いたらしいが「唾液が出るから体に良いのだ」というと全部食べてしまった。この国の人は「体に良い」という言葉に弱いようである。

外はパラパラと雨が落ちてきたが、プールに泳ぎに行く。温泉プールだというので日本のようなものを想像していたら、水温がちょっと暖かい程度でやっぱり寒い。トンモはタンペレで水泳教室に通っていたことがあるというだけあって上手い泳ぎをする。そして寒さにも強く出来ているようである。僕らはすぐに暖かいシャワーが恋しくなってしまう。

ヘルシンキのオリンピック公園同様、こんな田舎の小さな町にも陸上のトラックがあり、テニスコート、サッカー場、プールと運動施設はかなり立派なものが整っているのには感心する。もっともそれを維持するためか、タバコの値段は日本の23倍するし、税金はかなり取られているらしい。

 

プールを出るといつもの様に子供達が何人か自転車で僕らの後を付いてくる。白樺の林の中をユースに戻る。所々にみえる赤い屋根の家々、まったく絵になっている。街にビールを一杯飲みに出る。トンモがどう話を付けたのか隣り合った女の子から飲み代をもらったのには国民性の違いか驚いた。しかしそのすぐ後、隣のテーブルの男から「日本人か?」と声がかかり「そうだ」と答えるとまたビールをおごってくれた。ひょっとしてトンモも僕らをだしにして飲み代をせびったのかも?ビールをおごってくれた人はほとんど英語が出来ないのに知っている限りの単語を並べて話しかけてくる。そして家内がご馳走するから家に来いという。英語の通訳が入ったりして熱心に誘ってくれるので、断るのに大変であった。

 

1. フィンランドの優しさと悲しみ

5日後に、ここリッヒマキに戻ることにしてヒッチでこの「森と湖の国」、を見て廻ることにする。須藤さんとは毎日の行き先だけ決めて後はばらばらでヒッチをして、目的地のユースで落ち合うという計画を立てて、昼頃、遅い昼食をとってユースを後にする。マンタという町まで6台乗り継いだが、英語の出来ない人の車に拾って貰った時は折り鶴が役に立つ。言葉が通じなくてもなんとか心を通じさせる方法を少しずつ身に付けてきた感じである。ヒッチハイクはなかなか車が止まってくれなくて、長く待たなければならない時もある。そんな時、やっと止まってくれたり、時には一度通り過ぎた車が戻ってきてくれたりした時の気持ちは言葉に表せられない。

 

ハメエンリナと言う町で雨に降られてマーケットで傘を買うことにした。現金の持ち合わせのない僕はトラベラーズ・チェックを使おうとしたが、このお店では使えないという。それでも雨に降られて困っている旅行者を助けてあげようと、レジの女の子たちがいろいろ手を尽くして例外的に使わせてくれた。道路に戻ってヒッチハイクのサインを出すが、なかなか車が止まってくれない。

そのうち遥か200メートルほど離れたサロンから軍服姿の人が出て来てこちらに向かって歩いてくるのが見えた。何事かと訝る僕のところまで来ると、「この道路は高速道路だからここで車が止まることは許されていない、この道路に入る前の車を捕まえなさい」と親切にその場所を教えてくれた。おそらくサロンでずっと僕のことを見ていたのであろう。そしていつまでも車が捕まらない僕にわざわざ教えに来てくれた訳で、フィンランドの人たちの親切には感激させられる。旅行者の僕はお礼を言うくらいしか 出来ないのである。

教えられた車が高速道路に入る前の場所で車を待ったが、なかなか止まってもらえない。また雨がしとしと降ってきたので、日本で言ったらマンションのようなアパートの玄関の軒先を借り、荷物を置いてヒッチを続ける。そんな僕を2階のベランダから見守るおばあさんがいた。なかなか車が捕まらない状態にいやになってしまうが、そのおばあさんもずっと僕に付きあって見ていてくれている。励まされていると感じて僕も頑張った。約1時間後に車が止まってくれた。やっと車をチャッチ出来た時、彼女は手を叩いて自分の事のように喜んでくれた。おそらく彼女にとって平凡な毎日の中にあって遠い外国から来た東洋人を1時間も親身になって応援したのは大事件であったに違いない。

社会福祉の発達したこの国の老人の寂しさをこの老婆に見た気がした。僕はこの国に来て初めてしんみりとした気持ちになっていた。そして人の有難さを感じた。「おばあさん有難う、いつまでもお元気」で、再び会えるはずのない おばあさんに僕は手を振り、「キートス(有難う)」と心の中で繰り返しながら車に乗った。

 

タンペレとマンタの中ほどでマンタと書いた紙を持ってヒッチをしていると、タクシーが止まった。タクシーを止めたつもりはないし、ヒッチのサインに答えるタクシーも聞いたことがない。断ろうとする僕に窓越しに運転手が隣の乗客を指差して言う。「彼がスポンサーだから、どうせマンタまで行くから乗れ」という。半信半疑の僕を乗せ20分ほど走ってマンタに入った時、タクシーの料金メーターは78マルカを指していた。お金を支払わされては大変と折鶴や絵葉書をあげて様子を窺って来たが、そんな素振りはない。ためしにマンタのユースを知っているかと聞いてみると、人の良い運転手は「スポンサーを下ろした後、送ってあげるよ」とこともなげに言う。勿論下心があって聞いたのであるが、こうなったらこの国の人を少しだけ疑った罪滅ぼしに今回は徹底して甘えることにする。美しい湖に囲まれたマンタのユースにタクシーで乗り付けたのは夕方6時くらいであった。事情を知らず先に来て待っていた 須藤さんを初め、その場にいた人たちがタクシーでユースに乗り付けた人はいないと驚いていた。この国の人たちの優しさを改めて見せ付けられたような一日であった。

 

昼近く起きて、須藤さんと街に出てみようと歩き出した。すると途中でヒッチをしていないのに車が止まってくれて「乗れ」という。「すぐ近くだから、いいです」と一度は断ったが彼の熱意に負け車に乗るとそのままサロンに着けられた。50代後半くらいと思われる彼は黙ってビールを頼むと僕らの前に置き「飲みなさい」とジェスチャーで示す。ほとんど英語は出来ないらしく、話さない。場を持たせるため折り紙をしているうちに彼は紙に何か書き始めた。そして彼の目から涙がこぼれだした。それはフィンランド語で書かれたもので僕らには分からないが、一番初めにキートス(有難う)と書かれている一文字だけが分かった。やがて一生懸命に何かを語り始めた。彼のジェスチャーと紙に書かれた絵から世にも珍しい言語なしでの会話が続く。そしてだんだんと彼の話す物語が分かってきた。小国フィンランドの歴史とは大国スェーデンとロシアの間で翻弄される国土の奪い合いの場であり、巨大大国ロシア帝国とその後のソビエト連合からの独立を貫くための戦いの歴史である。彼は第二次世界大戦中の1939年から1944年まで兵士としてソ連と戦っていた。そして1943年のある日、全身に砲弾を受けて重傷を負った。激しさを増すソ連の攻撃に動けない彼は死を覚悟した。しかし、その時突然ソ連の攻撃が止み彼は九死に一生を得て助かった。それは日本と戦うソ連が兵力を極東に集結するためにフィンランドとの戦いを止めたからであった。それ以来、彼は見たことのない日本を命の恩人だと思いながら暮らして来たという。彼は2杯目のビールを奢ると何度も何度も力強い握手をして帰っていった。

そもそもフィンランドが独立出来たのは日露戦争でロシア帝国の力が落ち、1917年に民衆が決起しロシア革命が起きた。こうしてロシア帝国の目が国内に向かったその年にフィンランドは独立出来たのである。その意味で少なくとも日本は2度、憎きソ連を背後から叩き、フィンランドを助けてくれた国なのである。そんな思いをこの国の年配の人たちは皆、持っているようで、これがこの国に親日家が多い歴史的な背景である。これほど感謝されると嬉しくもあり、ナホトカでの憎らしいガキとのやり取り以外、ソ連と直接戦った覚えのない僕などは照れくさくもあるが、若者には更に近年の日本製品、空手、あるいは自分たちにはない黒い髪への憧れのような親日感情がある。現代の僕らはその恩恵に与る形で、旅をしている日本人とわかるとこの国の人々は精一杯親切に接してくれるのである。

 

1. 白夜の天使

“フィンランド”と言う国名は英語名であり、彼らは自分達の国を誇りを持って現地語で“スオミ“と言う。それは”森と湖の国“という意味だそうだ。実際この国に来て大きな地図をみて湖の多いことに驚いた。情報によればこの国には18万8千の湖があるという。そのほとんどはこの国の南半分にあり、氷河で削り取られた陸地と湖の関係が、例えれば虫に食われ向こう側が透けて見える葉っぱの様な地形をなしているのである。ここはそんな葉脈の上に出来た、湖に囲まれた町である。ユースに帰って宿泊客であるドイツ人の高校生3人と湖に泳ぎに行く。彼らは4日間ここに滞在しているという。パラフィンの塊を投げ合いながら湖に向かう。湖で泳ぐのははじめての経験であるが、水泳場となっている湖の水は美しく澄み、いかにもフィンランドらしい今までのプールにはない良さがあった。最初水が冷たいのだろうと思って入ったら、思いのほか湖は浅く水温は暖かかった。

湖畔の砂浜でドイツの高校生を相手に相撲を教える。彼は体は大きいが足の長さと重心の高さが災いし、面白いように技がかかる。彼らを投げ飛ばしているといつのまにか回りに15人くらいの見物人が集まっている。好奇心一杯の彼らも入れて10手くらいの投げ技を教えてあげ、質問にも答えてあげる。「他に何か出来ないか」というので、須藤さんが空手の型をみせる。高校の時、体操で国体に出ている僕は余興にバク転、宙返りをみせてやると、結構受けていた。3国入り乱れて、ドイツ人の彼らと「今度はイタ公抜きでやろうぜ」という話はなかったが楽しい ひと時であった。それにしても金髪の少女がビキニ姿で岩に座っているさまは実に決まっている。須藤さんはそんな彼女達を『白夜の天使たち』と呼んだ。

集まってくる子供達はほとんどが綺麗な金髪をしているが中にたまにここフィンランドでも珍しい薄く緑色がかった輝く金髪の子がいる。おそらく特別な呼び方があり、20歳前には普通の金髪になってしまうのかと思うが、染めているはずがなく、はじめて見た時はこんな金緑色の美しい髪があるのかと驚きであった。

 

7月になったこの日、午前中にヘルシンキから一緒だった佐藤さんが僕らと別れて出発した。僕はユースの前の芝生に寝転んで日記を書いたりして午前中を過ごす。今日は驚くほどの良い天気である。日本晴れという意味の言葉がこの国にもあるとすれば、まさに今日はフィンランド晴れである。裸になって体を焼くと北国にもかかわらず、その強烈な太陽光線と貫けるような目にしみる青空は気持ちが良い。草木も短い夏を謳歌するように生き生きとしている。

自分の気に入った所で十分な時間が取れるのは一人旅の特権であり、団体旅行にはない贅沢な時間である。そして今の僕にはそれが出来る。森の匂い、草の匂い、澄んだ空気の味、太陽のまぶしさと暖かさ、ユースの庭で寝転んで、五官の機能に自然を感じる。日本から一番近いヨーロッパ、フィンランド。すっかりこの国が好きになっているのが分かる。

 

夕方4時ごろから湖に泳ぎに行く。昨日より時間が早いせいか子供たちが多い。僕らが行くと水辺の子供たちがどっと集まってくる。そしてマジックペンを出して腕にサインをしてくれと言う。サインだけでは飽きたらず、どうせ読めないことを良いことにめちゃくちゃ日本語を書いてやる。男の子には『男一匹』『がき大将』女の子には『メス大将』などなど刺青感覚で漢字が受けるようである。そのうち漫画を描いたらさらに受けた。一番人気は僕の書く漫画の『ケッムンパス』。いいかげん手が痛くなるほどサインして、漫画を描いて、気が付けばその辺にいる子供たちはみんな両腕にマジックで落書き状態。列を作って腕を差し出すのだから、大変な人気で困ってしまう。この町には日本人が来たことがないのか?ともかく珍しがられ、取り囲まれ。街を歩けば自転車から、自動車から手を振って来るので、それに答えるのに一分に2回は手を振らなければならない。いつも車から手を振られる天皇陛下のご苦労も分かろうというものである。しかし最近はアゴで会釈するフィンランド式の挨拶を覚え、かなり楽になった。ここフィンランドの田舎では日本人はスター並みの扱いである。日フィン友好のため言葉の通じないガキを相手に今日も僕は頑張るのであった。女の子たちはおとなしいが、万国共通、男の子は元気一杯である。更衣室から女の子が出てくるとウインクをしたり、アゴをしゃくったりして僕に教える。タバコを吸う子もいるし、それなりにませているが、憎めない子供たちである。桟橋で落とし合いが始まった。女の子が服のまま落とされてそのまま泳いでいる。落とした男の子は中学生が、高校生で僕より10センチは背が高いが、僕が挑むと「ジュードー ノー」といって逃げてしまう。彼らが本気で掛かって来ても昨日の相撲で体の大きい彼らでも投げ飛ばす自信があった。当然 相撲と柔道の違いは彼らには分かっていないが、こういった投げ技に免疫のないうえに腰がもろく、どんな大技でも簡単に掛かってくれる。

 

日記を書きながらユースの窓から見る空は先ほどまで夕暮れであったが、今はそのまま朝を迎えようとしている。さすがに白夜の国には朝を告げる馬鹿な鳥はいない。

 

14.ヒッチハイクの楽しさ

2日間ユースで一緒だったドイツ人の高校生たちに別れを告げてヴァンカラに向かう。今回も須藤さんと行き先だけ決めて別々にヒッチに入る。今日は順調に車が捕まり快適なヒッチハイクである。フランス車シトロエンに乗ったスイス人のご主人とフィンランド人の奥さんの夫婦に日本人のハイカーである僕、いつの間にかこんなインターナショナルな状況が当たり前になっている。次に乗ったのはバケーションに向かう一家の車、二台の乗り継ぎで今日の目的地ヴァンカラの町に着いた。町の入り口で降ろしてもらうと、ドイツ人の二人の女の子がヒッチをしている。しばらく話し込んで情報交換。しかし女の子のヒッチは楽である。交通量のあるところなら大概5分くらいで車をゲットしていってしまう。男はその3倍くらい待つつもりで臨まなければならない。ヨーロッパの男性は女性に親切で甘いのは分かるがこうも歴然と男女差を見せ付けられるとこの国での日本人の威光も薄れるのである。

彼女たちが行ってしまったので、道路沿いにある売店でコーラを飲みながら、そこにいる若者達にユースへの道を聞く。その中のヤマハのオートバイに乗った一人がユースまでは2キロくらいあるから送ってやるという。リュックを背に、振り落とされないようにオートバイに乗せてもらってユースに着いた。前に一度なかなか車が止まってくれないので時間つぶしに二人乗りのオートバイにヒッチのサインを出したことがあったが、後ろの男が少し前に詰めてこれで乗れるかという仕草をしたことがあった。自転車の少年にサインを出したら、少し先までしか行かないという合図。パトカーにサインを出したらすぐそこでUターンをしてまたこの町に戻るからという合図で答えてくれた。この国の人たちはユーモアも心得たもので、車がなかなか止まってくれない時も時間を潰せるのである

ここのユースにはすでに一人の日本人がいて、彼も宿帳初めての日本人ねらいか日本人が自分だけでなかったことを互いに残念がったりしている。ユースの女性に聞いたら今年このユースに泊まった日本人は彼が4人目、僕が5人目だという。僕より遅れてきた須藤さんは6人目ということになるが、なかなか最初の日本人にはなれないようである。ここのユースも小学校を利用した夏の間だけのユースである。フィンランドはソビエト経由の日本からヨーロッパへの入り口であり、出口であるため、今やどんなに田舎に行っても日本人がいる。彼が明日行くヘルビスのユースはベッド数16、今度は期待できると張り切っていた。そして僕らは明日はフィンランドで最も美しいと言われるフィンランドの南東の湖水地方に向かうつもりである。

夜、ユースの受付をしている女の子にフィンランド語のレッスンをしてもらう。英語をフィンランド語のカタカナに書き直すことで僕専用の辞書を作ろうという訳である。フィニッシュの発音は日本語に似て母音が入るので、カタカナ書きをしたフィンランド語をそのまま読むと通じるようである。英語の通じない人の車に乗った時は、この即席会話教室の成果が発揮されることであろう。「シナ オッレテ カウニスツッタ」が「貴方は、美しい女性ですね」、「ミナ ラカスタン シヌア」が「僕は貴方を愛しています」。まー、この会話は使うことはないだろうが一応念のために書き留めておいたのであった。

 

1. キャンプ場のアクシデント

日本を出てから15日目、早くも大変なことをやってしまった。時は7月3日、午後6時半ごろ、その日は午後4時ごろプンカハーレヤと言うキャンプ場に着いてユースを探すが、今年はユースはオープンしていないとの事で、野宿をするつもりで宿探しをやめキャンプ場の湖で水泳を始めた。ここは岩肌の多いヘルシンキの周辺と景観が幾分違って針葉樹林の深い森の中に湖のある風光明媚なキャンプ場である。ひと泳ぎしてから例のごとく子供たちに囲まれて折り紙などをして、また泳ぐため、水面に突き出た桟橋に向かった。それは今までにも何度も見た幅1メートルくらいの岸辺から湖に向かって10メートルほど突き出した小さな桟橋である。体操の心得のある僕は飛込みにはちょっと自信があった。その時は高く踏み切り前方宙返りをして着水するはずであった。しかし、踏み切り台そのものがぷかぷかと水面に浮かんだタイプのもので、しかも飛び込む方向に対して横に10センチ幅くらいの板が打ち付けられ、板と板のあいだに1センチほどの隙間があった。それは後で分かったことであり、その時は今までの湖と同じように杭でしっかりと固定された台だと思っていた。踏み切った瞬間ふわりっと台が沈み込み足を取られた。強く踏み切れなかったので高く飛び上がることなく、そのまま水面に落ちるように着水した瞬間、足先に異常を感じた。岸に向かって泳ぐといよいよ右足の人差し指が突っ張っているのが分かる。上がって足先に触ってみてもそんなに痛みはないがしびれて感覚がない。突き指かなと最初は思ったが腫れがこない。曲げ伸ばしをしてみると触った骨の部分が少し凹んでいる、骨折しているのが分かった。「やっちゃった」と思った。踏み切った時、板と板の間の1センチほどの隙間に足の人差し指が引っかかってしまったようだ。子供たちが心配そうな顔をして寄って来る。家族連れのキャンパーが多く、親達が来てくれて、誰かがキャンプ場の管理人を呼んでくれた。管理人はかなり英語が出来たので心強かった。

マックと名乗ったこのキャンプ場の管理人は20代後半くらいか「近くには病院がないので、明日の朝イマトラという町までに行けば病院があるから今夜はここのバンガローに泊まりなさい」と言ってくれた。スリーピングバックで野宿のつもりがこのアクシデントで管理人のバンガローのベッドに泊めさせてもらえることになった。夕飯はキャンプ場の子供たちが持って来てくれた。リッヒマキに戻るまでは須藤さんともはぐれ、本当の一人旅であり、そこにこのアクシデントである。自己診断では単純骨折か少なくともヒビがはいっているだろう。この類の骨折は経験があった。3週間ほどでかなり普通に歩けるようになるであろうが、しばらくはビッコの生活となる。旅行の日程にも影響を与えるかもしれない。マッチ棒を添え木にして、絆創膏を貰って固定すると何とか歩けるようになった。マックを初め、子供たち、その両親たちの親切に囲まれ不思議に悲壮感はなかった。キャンプ場の皆が心配してくれる、こんな場所でのアクシデントであったことが幸いに思えたのである。

やがて丸太小屋の窓の外に美しい真夜中の夕焼けを見ながら眠りに付いていた。

 

朝、子供たちが見舞いに来てくれた。マックに言われたように、イマトラの病院を目指してキャンプ場を出ることにする。バスで行けと言うマックの勧めを断ってヒッチを続けることにする。実は手持ちの現金が9マルカしかなかったのであるが、イマトラまでのヒッチは今までになく苦労した。かんかん照りの中、マックが造ってくれたイマトラと書かれた板切れを持って車を待つが、なかなか止まってくれない。この辺を通る車のほとんどが家族連れのバカンスに行く車で家族のメンバーと荷物とですでに車は一杯である。2時間の長い待ち時間でやっと車を捕まえ、その後も待ち時間が長く、3台の車を乗り継ぎ、やっとイマトラに付いたのは午後4時であった。最後の車は小型トラックで土に汚れた服を着た人で、初めは山奥で穴掘りでもして生活している人かと思った。それにしては英語も話せるし、教養もあるちゃんとした人である。事情を説明すると、この車を置いた後、彼の車で銀行と病院に連れて行ってあげると言う。とても親切な人である。そして、彼の言っていた車置き場のある建物に着くと軍隊のようなバリっとした制服の人たちが出入りしている。察するところ森林パトロールの事務所であるらしい。昨日は公園管理官に泊めてもらい、今日も国家の車に乗せてもらいフィンランドの国家にも大いに感謝しなければならないようである。彼のダットサンに乗り換えて銀行に連れて行ってもらい、少し多めにトラベラーズチェックを現金に両替する。そして病院の前まで送ってくれた。「もうすぐ病院も閉まる時間だから急いで」と言う彼に厚くお礼をいって別れ、病院に駆け込む。旅行者保険を持っているのでそんなに診療代が掛かるとは思えなかったが、時間が4時を廻っていたのでエクストラ料金がかかると言う、幾らか聞いたら「30マルカ」だと言う。そんなに無駄金を使いたくなかったので「それでは、明日また戻って来ます」と言うと、「初診料だけで、見るだけ診てあげましょう」と言う。背の高い若い医者が来て、まずは、マッチ棒による僕の処置をほめた後、「このようなケースの場合、医者としてもレントゲンを撮って、このように固定する以外治療の仕方がないのです」と言うのでそれならば明日戻って来て、レントゲンを取った上、同じく固定してもらう必要もないと思えた。3週間もビッコを引いていれば治るだろうし、ヒビだけだったら2週間で治るだろう。彼の話でも「完全骨折の心配はないから、固定しておけば2−3週間で治るでしょう」との事で僕の見立てとまったく同じであった。時が治してくれるのを待つことにして病院を後にしてイマトラのユースに向かう。

 

1.. 万国共通語英語の力

イマトラの町は中心街のすぐ近くにダムがあり、そのダムでせき止められた湖を囲むように出来た町である。このダムは週末に放水するので観光地として有名だそうだ。ユースは街の中心街から少し歩いたそのダムを挟んで反対側にあった。古いレンガで出来た2階建ての一見普通の家で中年のおばさんがフロント裏の部屋に住み込んでいた。チェックインして荷物を降ろし、ユースのルールの説明をされた後、何人かの宿泊客を紹介される。ほとんどがヨーロッパの国々から夏の間北欧に旅行に来ている若者たちである。

 

街中の公園に行ってみようと歩き始めるとダムの橋の上で先ほどユースで見かけた男が話しかけてきた。彼はオランダ人でそうとう話し好きのようで、機関銃のように息をもつかず話てくる。

今までフィンランドで出会ったヨーロッパ人はドイツ人が一番多かった。そしてスゥエーデン人、スイス人の順か。参考までに世界中どこにでもいる旅行者は日本人とドイツ人で、何処にでも住み着いているのは中国人だそうだ。僕が今まで会ったヨーロッパ人は、ほぼ全員英語を話した。ヨーロッパでも最も語学力があるのは異なった言語圏に囲まれたスイス人というのが定説である。ほとんどのスイス人が最低ドイツ語、フランス語、イタリア語の3ヶ国語を幼い時から聞きながら育ち、ほぼ母国語として不自由なく話す。英語も僕の会ったスイス人は全員話したから、それで4ヶ国語である。ついで語学の達者な国民はオランダ人、デンマーク人の小国が続く、ヨ−ロッパの中心に位置するこれらの国々の人は、自国が狭く他国に行く機会が多い、その都度要求される言葉が違うので、他国語を話すのが必然的に必要な地形に暮らしていると言う事であろう。そんな中で世界中で一番使われる、現代最強の国際共通語が英語であることは、誰もが認めることである。僕がこれまでに感じたことは、現代では何ヶ国語も話せる人がいたとしても、英語を話せなければ語学の達人とは言ってもらえないということである。そしてその英語には大雑把に言えば英国英語、米国英語、オーストラリア英語、そして英語を母国語としない人たちの話す国際英語がある。それぞれに独特のアクセントがあるが英国英語以外はいうなればその地で勝手に話されてきた方言英語であるが、僕にとって一番分かり易いのはお互いが外国語としての英語を話す国際英語である。その点でオランダ人はこの国際語の達人と言える。彼が最初に僕に「英語を話せますか?」と言ったとき「はい」と答えてしまったのがいけなかった。いままでフィンランド人が相手であればそれで良かったのだが、ここは「少し話します」と言うべきだった。しかし彼がオランダ人だとは知らなかった。すでに遅し、かなり高度な話に入っていくのを止める術を知らない。彼はかってマラソンの選手で2時間20分台の記録を持っていて、予選の時体調を崩さなければ東京オリンピックに出場出来ていたはずだと言う話などを休みなく話してくる。最初は聞き取れなかった彼の言葉も耳を傾けているうちに、知っている単語はほとんど拾えるようになり、分からない単語が出てくると聞き返す。国を出てから半月で僕のヒヤリングもかなり上達したと自分でも感心する。彼の話の90%くらいは理解出来たと思うが、話す方はとても太刀打ちできない。「旅行者として、この国の政治をどう思うか」などとこちらに振られても僕は政治学者でないから大した意見を持っているわけでない、その上日本語で答えを用意出来たとしても英語で難しいことを言えないので、言いたい意見は置いといて「きれいな空気と自然があって良いと思うよ」くらいの事しか言えないのである。すると「日本は公害で空気、川、海が汚されていると言うが、国はどんなことをやっているのか」などと言われても、環境学者でないので気の利いた答えを持ち合わせている訳でない。あったとしてもそれを英語で伝えなければならないなど真に困るのである。しかしここは日本人の代表として何かを答えなければならないのであろう。「わが国でもルールを作って、だんだんと良くなりつつある」などと逃げるしかないのであった。

 

ダムの横にある公園に行くと何組か若者が芝生の上に車座になってビールを飲んでいた。近づくと夕方レストランで会った姉妹に呼び止められて彼女らの仲間に入る。座るとすぐに仲間のバッグから取り出されたビールが回ってくる。

そこにはもう一人日本人の若者がいた。鈴木と名乗る彼は僕と同じ新潟の出身だと言う。この国に入って5日目だと言うのでこの国で会った旅行者としては始めての後輩である。高校を出てアルバイトをして、自力でヨーロッパに来たと言う。良い奴なのだが、知っている限りの単語を並べた片言英語であることないことを話す。「我々は東京の学生で、ジャパニーズ文学 (この部分日本語)を勉強している、我々は子供のときからの友達である」と単語とジェスチャーで意思表示を立派にしている。「おいおい、今、会ったばかりだぞ、、、」、そして時たま話を合わせるために日本語で僕に話しかける。新潟県人らしからぬ彼をみていると、あまり言葉が出来なくても心を通じさせる才能を持った人はいるのだなと思わせられる。僕は笑いを堪えながら彼の話に合わせると、彼の話はちゃんとそれらしいストーリーになってしまうのだから面白い奴である。アルバイトをしながら2年間ヨーロッパを回ると言う彼、「久しぶりに新潟の人間に会えてよかったです」と喜んでくれた。彼ならどこに行っても立派にやっていけるであろう。繰り返すが新潟県人にはあまりこういうタイプの人はいないはずである。

 

翌朝ユースをチェックアウトして荷物を持って公園に行くと、鈴木が野宿している。水筒の水で顔を洗って一緒に朝食を済ませた後。彼は北に向かって出発した。僕の足の怪我は下駄を履くとほとんど普通に歩けるとこが分かった。下駄は底が固いのでギブスをしたのと同じような効果があり、足に直接ショックが来ない。しかも歩くために前に向かって地面を蹴るとき、下駄の高さだけ遊びがある上に、下駄で爪先立ちになっても指の骨折部分にはまったく力が掛からないのである。僕は足の様子を見るためにもう一日イマトラに留まることにした。

 

1. 天使がくれたバラ

 

僕は朝の教会の庭で芝生に横たわって空を見ていた。真っ青で透明な空の周りを木の枝の緑が囲っている。そして教会の鐘の音が小鳥のさえずりと争うように鳴り続けていた。今日は数人の乙女が洗礼を受ける日だという。

教会から出てきた洗礼を終えた乙女が走り寄ると、僕の手に一輪のバラの花を残していった。そのバラを手に、僕の心もやっと澄み始めていた。この3日間僕は自分の正体を見失っていた。そして荒れきった生活をしていた。僕はすべてを失い、もうこれ以上失う物はなかった。美しい自然もほとんど目に入らなかった。野良犬のように何かを求めてさまよい続けた。精神的に荒れ切った3日間の後、一輪のバラを手に今、新たな出発の時が来たと感じていた。この3日間ほど自分の弱さを知ったことはなかったし、自分の弱さを知った人間の危うさも知った。

 

鈴木と別れたその日、わずかの間に僕はすべてをなくした。鈴木がやっていったようにその日、野宿をするつもりで公園で若者の輪に入ってビールを飲んでいた。その後二人の少女に誘われ、公園から道路を横切ったところにある、ブルームーンというディスコに踊りに行く。公園では、いつものように一晩中若者たちが飲んでいて、顔見知りになった彼らが僕の荷物を見ていてくれると思っていた。しかし戻ってみると僕の荷物は跡形もなく消えていた。まさかこの国、この公園で盗難に会うとは思っても見なかった。気が付いた時、残された物は病院で使うつもりだった100マルカ(日本円で7千円位)の現金とサングラスとポケットの櫛、そしてタバコとマッチ、コンタクトレンズ、下着にジーパンとジャケット、時計と下駄。つまり身に付けていた物がすべてであった。パスポートすらなく、着の身着のままで突然、一人異国の地に投げ出されたというのが現実であった。

最初のころは表向きしか見ていなかったこの街中の公園には人生があった。福祉国家に生きがいをなくした若者が他にやることがなくて、毎晩ビールをバックに詰めて公園に集う。僕をなんの抵抗もなく仲間として受け入れてくれるが、夜な夜な酒に溺れエネルギーを発散するしかない、ここはそんな若者達の溜まり場であった。盗難に遭ったのは金曜日の夜で、月曜までなすすべがなかった。僕は自分からさらに深くその裏側に入っていた。3日間自暴自棄の状態で荒れた生活をしていた。

ふとしたきっかけで来た教会の庭で鐘の音と洗礼を終えた乙女のくれた一輪のバラの花が僕を現実に引き戻してくれた。

盗難に遭った夜、公園にいた若者が警察に連れて行ってくれて、簡単な調書をとられ、彼が家に泊めてくれた。そして火曜日の朝、ユースを通してパスポートと荷物の一部が見つかったと連絡が来た。一眼レンズのカメラ、日本円、羽毛の寝袋など、金目の物はほとんどなかったが、パスポートとリュックサックと着替えなど最低限、旅をつづけられる物だけでも出て来たのは幸いであった。さらに公園で和田さん、尾崎君の二人の日本人に会い、いろいろ助けてもらった。和田さんは英語がかなり出来るので、そばにいてくれると心強かった。尾崎君はこれからヘルシンキにいって、日本へ帰るところなのでと、持っていた寝袋を僕にくれた。こうして旅を続ける最低限の品物と勇気をもらったのであった。

 


18.再出発

イマトラからヘルシンキまでは315キロ、荷物の一部が見つかった翌日、トラベラーズチェックの再発行を受けるためヘルシンキに向かった。ヘルシンキの銀行でとりあえず250ドル分のトラベラーズチェックを受け取り、残りはコペンハーゲンで受け取れるように手配してもらった。これで旅を続ける目安が付き一安心、そのまま日本大使館に行って久しぶりの日本の新聞を読ませてもらう。1週間ほど前までの新聞があったが、僕の身にはこんなに大事件が頻発しているのに日本では大きなニュースはなかったようである。

 

ヘルシンキのユースは相変わらず日本人が圧倒的に多い。ソビエト経由でまもなく帰国する者と、2週間前の僕のように日本から着いたばかりでこれからヨーロッパを回ろうという者がほとんどなので方々に日本の匂いがする。そんな中に通称「落語家」と呼ばれている、扇子ならぬギターを抱えた一人の日本人がいた。彼は日本に帰国するためのソ連のビザを待っていて、僕が会った時すでにこのユースでは有名人であった。元々日本でも米軍キャンプで歌っていたという歌手崩れで、夜な夜な日本人とドイツ人を集めて2段ベッドの上でギターを弾きながら歌っていた。自分で作った曲から、日本の民謡、ロシア民謡、替え歌、外国の歌、その他リクエストはほとんどなんでもこなす。ギターの腕もかなりのものである上に話が面白い。大変なショーマンで、皆を笑わせながら次々に歌うのである。その中でもフィンランドで作った自作の「ブルー アイ」という青い瞳の乙女たちを歌った曲がすばらしく、僕も何度かリクエストさせてもらったのである。日本へ帰ったらレコードを出すそうで、その前にここヘルシンキで流行らせたいとのこと。彼の夢はどこまで実現されるのか分からないが、もし日本で彼のレコードを見つけたら5枚買うことを約束させられたのである。

 

リッヒマキに須藤さんが待っていると思いヘルシンキを出てリッヒマキに向かう。このコースはフィンランド到着後、僕の人生で始めてのヒッチハイクをしたコースである。今回は幸運にもヘルシンキから直接リッヒマを通過する車を捕まえてあっけなくも1時間で着いてしまった。懐かしいユースの前に行くと須藤さんがいた。10日くらい会わなかっただけなのに僕には積もる話が一杯あった。

ユースには他に宝田と中島という二人の日本人がいた。そしてここのユースの管理人は、以前のヨボヨボのおじいさんから陽気な30代の男性に替わっていた。彼もまた相当な日本びいきで会うたびに両手を高く上げて挨拶してくる。若いころ体操をやっており、この国のジュニアチャンピオンになったこともあるという。そう聞いては国体に出ている僕も黙ってはいられない。皆で何かをやってくれと頼むとバク宙(後方宙返り)をやってくれたので、僕も我慢できず、足にハンディーがあることを示してバク宙をやってみせたら、手が痛くなるほど拍手をしてくれた。足の回復は想像以上に早い。ヒビが入っても2週間で強度的には元の強さに戻ることを知っているが、精神的な痛さはすぐには克服できず、なかなか元のように体重をかけられず、庇ってしまうのであるが、マッチ棒で添え木をして怪我の直後から下駄で普通に近い状態で歩き続けたことが回復を早めていたのだと思う。怪我をしてから10日と少し、まだ添え木をしているし、無理をしたらまだ痛いのだろうなという思いがあったが、彼の飛び跳ねるのを見ていたら血が騒いでやらずにはいられなかった。バク転をやってみたら出来た、そしてつい、バク宙までやってしまった。そんな馬鹿なところがスポーツをやるものにはある。でもこれで明日から自信を持ってどんな所でも自分の足で歩いていけると思った。

ところで最近、海外に飛び出す若者は皆一癖、二癖持っていることに気づいた。だから日本人に会うとまずどんな旅をして来たか聞き、何をやる人か、何が出来る人かバックグラウンドを聞き出したうえで、良く観察するようにしている。

中島は法学部だけあって政治に関してなかなかしっかりとした意見を持っていて、時たま政治について日本を出て見てきた外国との違いを熱く語りだす。宝田は重量あげの選手で立派な体をしていた。体育会系のクラブにいただけあって、礼節を心得た好青年である。皆 海外に出てそれぞれが自分なりにいろいろ経験し、これからの人生を模索しているのだと思う。

 

マンタで涙を流しながら僕らにビールをご馳走してくれた人が須藤さんの辞書の裏にフィンランド語で書いてくれた文章を須藤さんが誰かに翻訳してもらっていた。それにはこう書かれていた。

 

君たちは新しい世代だ、

戦争を知らない世代だ

広く海外に飛び出し、外国を見て、

あの忌まわしい思いを消して欲しい

平和な世界を築いてほしい

戦争はもう、こりごりだ

 

僕は改めて彼の顔を思い出した。このメッセージを胸に今日からまた新しい旅への出発だ。須藤さんはトンモの故郷タンペレに行きしばらく滞在してそこにある英語学校に通うという。日本を発つ日にバイカル号で出会って以来ずっと一緒に旅をしてきた須藤さんとも、ここでお別れである。

須藤さんと別れ、骨折事故、盗難事件もひと段落付いた今、この町から再出発の心境で、まずは近くのラヒテという町に向け出発することにする。

 

リッヒマキにて

1. フィンランドの若者達

フィンランドに入って最初に気づくことはカラフルな色使いの国だということだ。街の至る所に美しい花壇が作られ花が咲き乱れている。家々の屋根、壁に原色系統がふんだんに使われ、草木は今が新緑とばかりに輝いている。実際春と夏が合わせて3ヶ月しかなく、8月になればもう秋というこの国には冬の暗い(日照時間約5時間、北に行けばさらに短い)イメージを明るい色によって弱めようという意図があるのだと思う。森と湖の多いこの国には日本とほぼ同じくらいの国土面積に日本の20分の1の人しか住んでいない。この国の子供たちは水泳が大好きである。水が冷たい5月から待ちきれずに泳ぎ始める。冬の太陽の恵みの少ないこの地では、短い夏の間に太陽の恵みを受けられる限り受けるため、裸で日光浴、水泳をし、帽子、サングラス姿もほとんど見ない。時には街中を裸足で平気で歩いている姿を何度もみた。一度東京で裸足で歩く男を見たことがある。その時は酔っ払いが靴を無くして来たのだろうと蔑みの目で見ていたが、今度この種の男を見たら、流行の先端を行く憎い男として尊敬してしまうだろう。

若者たちは現状に満足していない、しかし現状を打ち砕こうという気もないようで、ある者は酒に溺れ、単車に狂い、仲間同士が集まって長い夜を過ごす。夜中の2時、3時まで街で若者が何をするでもなく、たむろする姿はこの国に入ってから何処の町でも目にする光景である。

ボクシング、プロレスなどの類はこの国ではテレビ中継をしないそうであるが、それでも日本より頻繁に喧嘩を見るのはあまりにも自由な社会が招いた弊害であろうか。男の若者たちはほとんど例外なく長髪である。「僕の髪が、肩まで伸びて」などと歌っている日本の比ではない。なにしろショートカットの女の子はいても、ショートカットの男の子はほとんどいない。ハイティーンは皆、肩の下まで髪を伸ばしている。ごくまれにショートカットの若者をみるが、ほぼ例外なく一年間の兵役から帰ったばかりの人たちである。兵役は一日ビール一本分の2.5マルカの手当てがでるだけで、フィンランドの成人男性は全員がいかなければならない制度のようである。平和なこの国でも軍隊は必要であることを大国ソ連とスゥエーデンに囲まれたこの国の歴史は現代に教えている。軍隊に徴兵されて自由を奪われた青年たちはそれなりに社会のルールと厳しさを習い、やがて社会へと出ていく。この期間は決して無駄ではなく、むしろ人生で最も有意義な一年のように僕には思える。

フィンランドは福祉国家であり、生活は安定している。そのため日本人と比べると呑気に見えるほど彼らは皆人間的である。走っている姿を見たことがないし、夜遊びは悪いこととは思われていないようだ。多くの面で日本とは考え方が根本的に違うようで、育ちの良い年頃の娘でも朝方まで街にたむろしている。スピード制限を守って走っている車はほとんどいないし、酔っ払い運転も珍しいことではない。

よく言えば個人主義のきわめて徹底した国民である。ただすべてのことに自分なりに節度を持っているようで前夜どんなに遅くベッドに入ろうが、翌朝はちゃんと起きて仕事に行くし、酒を飲んでもまともに運転の出来る限度をある程度持っているようである。

この国では工場をほとんど見ない。経済の中心は林業と鉱業であるから、お店で見るものはほとんどが外国製である。物価は日本とさほど変わらないと感じる。ただ野菜と果実はかなり高い。北に位置する国土のため、あまり農業には適さない気候であるせいだろう。地理的なこともあろうがヨーロッパの他の国からはヨーロッパの田舎者と呼ばれたりするらしい。

彼らはメイド イン ジャパンに一種の憧れを持ち、日本を尊敬の念を持って見ているのがわかる。日本のメーカーの名を驚くほど知っている。車、電気製品、楽器、時計、カメラ、オートバイに於いて日本製は最高の品質と思われている。取り分け若者の関心はオートバイにあり、オートバイは日本製でなければいけない物のようだ。イマトラでまもなく7月28日,29日と国際的な二輪レースが催される。それを観戦しに大勢の若者が国中から集まるそうで、今まさに、このレースが若者の間では旬な話題らしく、僕は方々でその話を何度も聞かされていた。街を歩いていても「ヤマハ!」とか「ホンダ!」とかと声がかかる。そんな時は親指と人指し指を立てて「テルベ!」と返すものらしい。若者とは一言で通じ合うものがある。僕もかなりこの国に慣れてきたようだ。

 

20. 丘の上の野宿

ラヒテという町に入り、今夜はこの町で野宿することに決め、まずは腹ごしらえ。今日はヒッチで朝食も昼食も食べ損ない、まもなく午後3時になろうかというのにまだなにも胃袋に入れていなかった。お腹が減って歩くのもつらい。少し豪華に食べてやろうと思うが、そうは言ってもフィンランド入国以来、高価なレストランに入るわけでなし、原則マーケットで買って食べるか、街角のキオスキで出来合いの食べ物を買って食べるか位なので高が知れている。まずはマーケットで食事の買出しをする。すぐに食べられるものと言うと限られる。主食はパンで焼肉を薄く切ってもらった約2マルカの肉に魚の缶詰である。サラダ代わりの胡瓜と、飲み物は日本より安いミルクを半リッターである。公園で食事をする。程よく味付けされた久しぶりの肉が旨い。いわしの缶詰の魚もなかなか口に合う。

食後はいつものように湖に泳ぎに行く。今日は野宿をするつもりなので場所を探しながらの移動である。水泳場に着くとリュック姿の二人組みに出会う。同じ境遇であろうと察し「今夜の宿は決まったかい?」と、話しかけるとスイスから来ている高校生で「ユースが満員で追い出され、今夜の野宿をする場所を探しているところだ」と言う。「僕も野宿のつもりだ」と言うと旅行者の常で今夜は一緒に行動することになった。まだ時間が早いのでとりあえずは湖で泳ぐ。この国の連中は夜の9時くらいまで平気で泳いでいるが、僕らは7時になったら水泳を止め、宿探しにかからなければならない。ニックが野宿に適した場所を探しに行く。僕とラインドハードは荷物番と水泳の見学である。

 

1時間ほどでニックが戻ってきて、良い場所を見つけたと言うので移動することにする。其処は15分ほど歩いたところに建つテレビ塔のある丘の上。見晴らしも良く、街からも遠くない、しかも適当に人目を避ける草木が茂り、野宿の場所としては申し分ない場所であった。彼らはフランス人から10ドルで買ったというジョニ黒を持っていて、ジュースで割って飲ませてくれた。日本では学生には手が出ない高級ウイスキーであるが、彼らの故郷スイスはヨーロッパでは一番裕福な国のようである。スゥエーデンも裕福であるが、税金が高い。もちろん社会主義国家では税金は社会福祉に生かされているが、物価の高さは否めない。一方スイスは観光国である。福祉などは観光収入でまかなわれ、物価、税金はヨーロッパの他国より低いと言う。ヨーロッパアルプスを観光資源にしている国から来た彼らは高校生ながら自然の中でのマナーを良く心得ている。タバコの火にしても山火事を起こさないように徹底して消すし、ゴミは出たものから袋に詰めていく。「この国の酔っ払いは空きビンを何処にでも投げ捨てる。あれは良くない習慣だよ」と言う。他国を旅する旅行者は自分の国以上に他国ではそのようなマナーに気を付けるべきだという。さすがは国中が国立公園のスイス人、僕は彼らに教えられ、今までの自分の自然に対するマナーを反省した。

さて、ここラヒテという町はこの国のビールの産地である。そうと知ったら何をおいても飲みに行きたい僕である。寝る場所が決まって、早速、荷物を塔の下の草むらに隠してビールを飲みに街に降りていく。

この国では18歳以下にはアルコールを売らない。彼らもその事を知っているはずだが、17歳と言っていたのでその件を聞くと「外国人はパスポートを見せなくとも、大概オーケーだった」と言う。フィンランドも観光国なので外国人には甘いという。その事実を僕も知っている。大体ビールの国、ドイツに接しドイツ語も話す彼らにとってビールなんぞを飲むのに年齢制限があるのが変だと言う考えのようだ。

しかし今夜のフィンランド、このビールの町は少し様子が違った。最初に行った2軒はパスポートを求められ、僕だけ見せて、彼らは忘れたと言っても入れてくれなかった。他の店を探しながら歩いていると寝袋を持った二人組みに呼び止められた。僕に向かって「英語を話すかい?」と聞いてきたので、話せるというと、「ユースが満員で何処か良い所を知らないか?」という。ニックがいろいろ答え、「安い宿もないから僕らと一緒に野宿をしないか?」と提案する。しばらく小声で相談する二人にラインドハードが大声を出す。「ドイツ語を話すのかい?」以下は僕の解さないドイツ語、そして大笑い。ニックが説明してくれる前に僕にはすべてが分かっていた。彼らはドイツ人だったのだ。そしてドイツ語はスイス人にとって母国語の一つ。とりわけニックたちはスイスのドイツ語圏からの旅行者だったのである。それをわざわざお互いに英語が唯一の共通語と思って英語を話していた訳である。彼らは僕が一緒に居て荷物ももっていなかったので、ニック達をフィンランド人と思っていたそうである。

かくして3カ国の5名は一晩を共に野宿することなり、「トゥデー イズ ノー ビヤー」なる奇妙な即興の歌を全員で歌いながら今夜の我が家に引き返したのである。



目が覚めた野宿仲間たち

 

21. 三度目の、リッヒマキ

朝、ドイツ人の二人と別れ、スイス人の二人と水泳をした後、僕は再々度すっかりこの国での旅の拠点となったリヒマキに戻る。ユースには一人の日本人がいた。俗に言う針金師で、日本人の器用さを生かし、きれいなニッケルの針金を使っての針金細工で自転車の置物とかアクセサリーとかを作る技術をスイスで学び、それを売りながら旅を続けている人たちの一人である。

ここのユースの元体操選手の管理人は相変わらず元気に僕を迎えてくれた。ユースにチェックインした僕はまずは洗濯をする。国を出てから昼も夜も履き続けたジーパンを初めて洗う。このジーパンと時計だけがもし眼が付いていたなら、僕の旅を片時も離れず見続けていたはずである。僕と一緒にずいぶんいろんなことを経験したジーパンからは草色の汁が出た。この国に入って草の上に座り、寝転んだ時間のなんと多かったことか。一ヶ月の旅行で匂いと色をいっぱい吸い込んだジーパンを洗ってしまうのがなんとなく惜しかった。

 

リッヒマキは小さな町である。しかしそんな小さな町にもユースの前には健康的な陸上のトラック、サッカー場、プール、バレーボールのコート、キャンプ場と並び、その周りを白樺の木の間を縫うようにマラソンコースが走っている。 夕方になると、もう顔見知りになった数人の若者が集まって来てバレーボールを始める。バレーボールは僕の得意スポーツのひとつである。酔っ払いの若者を見慣れた僕にはこうしてスポーツを愛する若者がいることは嬉しく、この小さな町を旅の拠点にしている理由でもある。夕暮れの中、この国の若者達と泳いだり、バレーボールをしたりしていると改めてこの国の人々の余裕ある生き方を感じるのである。

夕刻、ユースの前の一メートルくらいの高さで幅のない柵の上に腰掛かけて足をぶらぶらとさせていた。前にいた中学生くらいの女の子が冗談で私を後ろに押した。何も捕まるところがなく、当然、僕は後ろに真っ逆さまに頭から落ちる。その間、時間にしたら1秒くらい、普通の人であればそのまま頭を地面に打って大変なことになっていたであろうが、体操の心得のある僕はそのわずかな間に身体をひねりつつ、後方宙返りの要領で頭を返してかろうじて足から着地した。もうすこし高さがあればもっと余裕を持って宙返りをしたり、手で頭を守るとか出来る自信があるが、この半端な高さでは柵を掴んでいた手で頭を守る間もなく、まさに間一髪であった。旅では何が起こるかわからない、それが旅の面白さかも知れないが時には大変な事故に繋がる事もあることを足の指の骨折で経験していたが、今回は培って来た運動能力に助けられた例であった。

夜、トンモと再開した。彼はアルバイトの土木工事中、手の骨にヒビが入り2週間故郷のタンパに帰っていたという。タンパに向かった須藤さんとはすれ違いになったようで消息を聞く事は出来なかったが、元気でやっている事だろう。

 

リヒマキに戻って3日目、森という農工大の学生が来た。自転車でこれからヨーロッパを回るそうで6万数千円したという15段変速のピカピカの自転車に乗っていて子供達に取り囲まれている。彼と久しぶりにお米を買って来て、ご飯を食べようというということになり、スーパーに買出しに行く。お米はあったがなかなかそれに会うおかずになりそうなものがない。SOYAと書かれたカナダ産の醤油らしいものを見つけた。ご飯があって、醤油らしいものがあれば半分夕飯は出来たようなものである。卵などを買って帰り、料理にかかる。卵にハムを入れてハムエッグをトライするが油がない。森君が飯盒の蓋を使って何とか味だけはハムエッグと思われるオムレツが崩れたような一品を作りあげた。魚の缶詰も醤油があれば、まったく違う一品に生き返るはずであったが、この醤油なんとも塩水に色をつけたような美味のない醤油であった。やはりキッコーマンが恋しい。ご飯にキッコーマンだけかけた空想の丼物、キッコーマン丼がここでは存在価値を認められたのである。今度何処のマーケットでキッコーマンを見つけたら、いくら高くとも買ってやろう。当然お米は少し細長い外米であったが美味かった。そして彼の持っていたインスタント味噌汁は、日本食から長く遠ざかっていた僕の舌には絶品であった。これに白菜の漬物でもあったらと話はすぐに懐かしい食べ物の方向にいってしまう。


22. 白夜のナイト フラワー 

この国を離れる時が来たようだ。アクシデントや雨で延び延びになっていたが、そろそろ次の国スウェーデンに行かなければならない。ツルクという港町からでるフェリーはバイキングラインといい、調べると夜10時と11時の出発である。

あまり早く着いても暇をもてあますかと、午後3時までは近所のガキを捕まえてチェスをする。チェスはバイカル号の中で始めてルールを教わったが今日の中学生は二人軽く負かすが、ユースに泊まって中学生に水泳の指導をしている先生には簡単に負けてしまった。

ロックコンサートに行くという5人乗りのワーゲンのバンでツルクのナーンタリという港に着いたのは午後8時であった。乗船は午後9時からだという。乗船を待つ間にフィンランド人のオートバイに乗った二人づれの旅行者と知り合い、コーヒー、たばこ、パンをおごって貰った。おそらくフィンランドで受ける最後の好意であろうと有り難く頂く。

フィンランドの最後の土を踏みしめて船に乗ると、船は結構きれいで、車を300台載せているフェリーである。約9時間の船旅で首都ストックホルムの北100キロの港に着くそうである。この9時間の航海と港からストックホルムまでのバス代が込みで20マルカ(千四百円)である。フェリーなのでこの船には客室が無い。それでも一等、二等があり、ファーストクラスにはきれいな椅子が付いている。そしてエコノミークラスは椅子も無く、あえて言えば床が椅子でありベッドである。デッキでアメリカ人のマルコと知り合った。彼は一年分の休暇を全てとって、3ヶ月のヨーロッパの旅をしているという。久しぶりのアメリカ英語である。簡単な会話から僕が理解したと見るとだんだんと会話の程度を上げていく。僕が理解できなくなると僕のレベルに合わせた会話をしてくれる。マルコにとり英語は母国語であるから如何様にも僕のレベルに合わせてくれるが、レベルを落とすと話は幾分回りくどくなる。それでも同い年くらいと思われる彼とは日本のことアメリカのこと、いろいろ話すことが出来た。いつか彼の住むアメリカにも行く事が有るかも知れない。

 

夜もふけた頃、寝袋に入ってデッキで横になる。

そして、僕は先ほど離れたフィンランドで過ごした日々を思い起こしていた。ソビエトでの公社に企画された団体旅行から、フィンランドに入って自分の意志で自分の行きたい所へ行く旅はさまざまな事態に遭遇し強烈な印象を残した。そして思いはあの骨折に続く盗難事件に。

安全だと思っていた街での盗難事件はこの旅を続けられるのかと自分に問いかけるほどの大事件であった。結果的には荷物の一部は戻ったが、一眼カメラ、日本円(4万円)、羽毛の寝袋 など高価なものをすべて無くした。後で聞けばジプシーと呼ばれる流れ者の一団がいたそうで、彼らの仕業かもしれないと周りの者は言ったが、定かではない。

 

警察に届け出て連絡先にしていたイマトラのユースには夜10時の門限があった。ユースには一人のフランス人の男が長期滞在していた。フランス人の旅行者は珍しい。一日に何度もユースに戻って服を着替えるおしゃれでちょっとキザな、僕が始めて知るフランス人であった。毎日が朝帰りの彼が言うには「門限はあるが、1マルカ払えば夜中でもドアを開けてくれる」と言う。僕は事件の後、数日間、いつもその朝帰りであった。朝4−5時くらいにユースに帰ると管理人の女性は「あなたもあのフランス人と同じ夜咲く花、ナイト フラワーね」と言いながら僕を入れてくれたが、僕の事情を知る彼女は毎日眠い目をこすりながらもフランス人に対するよりはるかに好意的にドアを開けてくれた。

 

毎晩街中の公園で若者達の中に入ってビールを飲んでいた。そして面白そうな話があれば付いていった。近くのディスコで20代後半と思える美しい女性と出会い、踊り、飲んだ。僕のポッケットにはフィンランドに入って以来書き続けた自作のフィンランド語辞典があった。英語を話さない彼女にもその紙切れに書かれたカタカナの言葉をそのまま読むと通じた。夜が明ける頃ディスコを出て、並んで朝日がさす白樺の林の中を歩いた。やがて丘の上から下を指差し、彼女は言った。言葉は通じないが僕には彼女が何を言ったか分かった。「あそこが私の家、主人がいるからここでお別れ」そういうと彼女は僕のほっぺにキスをして丘を下りていった。

 

ある夜、公園の若者達が何人か動き出した。顔見知りの少女が二人、僕に声をかけてくれた「今日はダンスパーティーがあるから行かない?」もちろん僕は行くことにした。その場所はだいぶ離れた森の中だと言う。僕は彼女達と真夜中の12時からヒッチハイクを始めた。やがて同じところに行く人の車を捕まえ、車は走り出すと町の外へと向かう。両側を背の高い針葉樹に囲まれた森の中、夜道を走る。つかの間の夜に月が出た。回りの深い森の上を満月が照らしているが月光は木に遮られ森の中は暗い。満月が濃紺の森の中を走る僕らの車の上を付いて来る。やがて車はそのまま丸木船のような渡し舟に乗り、対岸からワイヤで引っ張られ、月光が波にきらきらと反射して光る湖面を渡る。何処に向かっているのが皆目分からない僕には神秘的な眺めである。さらに森の中を走りやがてドーム型の建物の前で車は止まった。どうやら目的地に着いたようであるが、イマトラを出てから約30分、その間一台も車を見なかったから、ここは人里はなれた森の中。周りには濃紺色に霞む木々だけが見え、このドーム以外に他の建物はない。車も2台のバスと数台の車以外は止まっていない。

中に入ると音楽が鳴り響き,10代の男女が100人ほど踊っている。造りからしてどうやらここはスケートリンクを利用した臨時のディスコと思われる。中央にステージがあり其処でレコードをかけている。その周りをゆっくりと左に回りながら若者達が踊っている。圧倒的に10代の女性が多い。黒髪の異人種は僕だけである。興味があるのか次々に話かけてくる。休憩時間になると一時ボリュームが落とされ、建物の周りの森ではここで出会った男女が語らっている。森の中は夜明けの薄明かりの状態がいつまでも続いていた。

帰りはバスで送ってもらい、イマトラの公園に戻ったのは朝6時になろうかという時間であった。

2. スウェーデン上陸

スウェーデンに向かうフェリーの中、酔っ払いの男女の甲高い声に目が覚めた。この船の中は免税になっていて、ほとんどの乗客は航海中浴びるほど免税のお酒を飲んでいる。

やがて船はスウェーデンの港に着き、そこでバスに乗り換えてストックホルムへ向かう。途中で見る家並みは皆、大きな家に広々とした庭を持ち、羨ましい限りである。スウェーデンは小学校の頃から良く聞いた国名である。印象としては裕福な福祉国家。自然を愛し生活を楽しむ金髪の人たち。ある種の憧れを持って見る国であった。ストックホルムの街中へバスが入るとなんとなく外国にいるのだと感動が胸に押し寄せてきた。いままでなぜこんな気持ちにならかったのか不思議だが、船の窓、汽車の窓から見たはじめての外国ソビエトはテレビを見ているようであり、モスクワはツアーの一員の外国人、観光客として上から見た外国であまり現地の生活に触れることはなかった。その反動でフィンランドではいきなり遭遇した事件のせいか、どっぷりと現地の若者の中に入ってしまい、彼らを外国人として見る余裕が無かったともいえる。いまストックホルムで東京的な都会の冷たさが僕を目覚めさせ、日本を出て1ヶ月にして初めて外国を外国として冷静に見ている自分がいる。ひょっとして団体旅行で短期間ヨーロッパを旅行する人達は日本に帰っても写真やテレビで見た風景と同じところに行ったというだけで満足してしまっているのではないだろうか。名所めぐりもいいが、その点と点を結ぶ途中に本当の旅の面白さがある。旅行にさまざまな感動があるとしたら、いま僕はなかなか経験出来ない、まれな感動深い旅行をしているのだと思う。

ストックホルムの市内、名も知らぬ場所でバスから降ろされた。一緒にバスから降りた人に聞いても彼らもここが何処であるか知らない。もし手元に地図があって、その地図上で現在地が分かったら何処に向かって行ったらいいか分かると思うが、その出発点に当たる現在地が分からないと右も左も分からない。インフォメーション センターも朝早くてまだ開いていない。この状態で分かっているのはここがストックホルムの何処かである事と、僕が持つストックホルムの情報はヘルシンキのユースでスウェーデンから上がってきた旅人に聞いたストックホルムで一番安いという『グラスブランケット(草の毛布)ホテル』別名、『泥棒ホテル』と呼ばれるホテルへのスルッセンという駅からの手書きの地図だけである。しかしこの街にはもう一つ、いざと言うときの心強いコネクションがあった。日本からインツーリストの旅でずっと一緒だった市川さんがストックホルムに住んでいる。一ヶ月前にヘルシンキの駅で別れるとき「ストックホルムに来たら連絡して」といってくれた住所と電話番号を持っている。

何とか英語の出来るおばさんを捕まえてセントラル ステーションへの行き方を聞いたがさっぱり埒が明かない。地下鉄の入り口を聞いて、そこからセントラル ステーションへ向かう。ここでやっと自分が何処にいるのかが分かった。そして市川さんにSOSの電話をいれる。スルッセンの駅はここから二つ目であった。「宿を取ったら午後2時にコンサートホールで会いましょう」ということになった。スルッセンへの地下鉄に乗るためにエスカレーターで下りていく。さてホームの右側の車両に乗るのか左側の車両に乗るのかと思っていると反対側のエスカレーターで日本人が上がってくる。「スルッセン行きはどっち?」とすれ違いざまに聞く「右!」「有難う」。こんな地球の片隅ですれ違いざま成立した短い会話であった。ストックホルムには夏は日本人が千人くらいいると聞いていたが、それからホテルに行くまでにさらに数人の日本人と出会った。しかしフィンランドのつもりで東洋人=日本人と思っていた僕はホテルに入ってさっそく失敗することになる。

 

2. 泥棒ホテルにて

時間外であったが朝9時ごろホテルに着くとチェックインさせてくれた。ホテルのおやじは愛想の良い人で歓迎してくれ「ここには何人か日本人がいるよ。皆、良いやつらだ」と言う。二人ほど日本人に会って挨拶をして髭を剃りに洗面所にいくと、そこにも日本人が、と思って「ここは長いのですか?」と話しかけると様子がおかしい。もしやと思って英語で話かけると彼は中国系のマレーシア人であった。彼を「日本人かと思ったよ」と言うと「チャイニーズだよ」と改めて言われた。フィンランドで僕の会った東洋人はすべて日本人であったが、さすがストックホルムは黒人、アラブ人、中国人といろんな人種が入っているそうで、東洋人でも日本人はマイナーな人種になる。これからは気をつけなければならない。

 

明日は日曜でほとんどのお店が休みと聞いて、買出しに出かける。さすが都会、フィンランド以来の念願であったキッコーマンのお醤油が手に入った。物価は高く、少し買っただけで1200円ほどの出費となる。しかしチェックインしたグラスブランケット ホテルは一泊わずか4.75マルク約300円である。これはストックホルムではめちゃくちゃ安い宿である。思うに外国からの出稼ぎ者等、この国の福祉を受ける資格のない人たちのために支援を受けて運営されているホテルだと思う。大部屋であるが今までのユースより立派なベッドである。そして個人の所有物を入れるためのロッカーを貸してくれる。別名「泥棒ホテル」盗難には気をつけるようにと言われた。とりあえずここに3日間滞在ことにする。

 

午後1時半、宿で知り合った日本人と市川さんに会うためにコンサートホールに向かって歩き始める。彼は今までアメリカ、南米を旅して周り、ヨ−ロッパはまだ一ヵ月半で、今は仕事を探しているそうだ。近頃は職探しも難しくてなかなか大変だと言う。「日本を出てどのくらいですか?」「まだたいしたこと無いね」「でも1年以上は経っているんでしょう?」「うん、日本を出て2年半くらいかな」といった調子でヨーロッパの都会には働きながら長く旅を続けている人が沢山いる。

街中に川が流れている。橋の上から水面を覗くと魚がうじゃうじゃいる。ここは都会のど真ん中である。20センチくらいの魚が一メートル四方に15匹くらい見えた。「東京の川には同じ範囲にゴミが15個は浮いているであろうから、良い勝負だな」とわが国を慰めながら納得する。

コンサートホールは思ったより小さな、どうと言うことのない建物であった。ここはノーベル賞を授与された受賞者がこの建物の前の石造りの階段で記念撮影をする有名な場所である。しばらくすると雨が降ってきた。この10段ほどの石階段に座って雨が上がるのを待つ。一時期ここは流行者の溜まり場であったが今はその溜まり場は図書館前の階段に移ったという。(これは以前、市川さんに聞いていた)。2時半ごろ市川さんがやってきた。相変わらずカラリとした性格の元気なお姉さんである。フェリーの中で買ったタバコ、ダンヒルを一箱プレゼントする。僕は免税で一箱150円ほどで買ったが、この国では税金が高いので600円もするタバコらしい。ユースで日本人に一本勧めたら、「あんた何処から来たの?」と言われた。この国でダンヒルなどを吸っている人は大金持ちか悪いことをやって儲けた奴だと言うのである。市川さんにコーヒーとサンドイッチをご馳走になる。

 

スウェーデンは福祉制度を維持するために、収入の半分以上を税金に取られるそうであるが、医療、教育、居住費など平均して誰もがその恩恵を受けられるため、基本的生活をするための出費は驚くほど少なくて済むため、生活水準は全体に極めて高い。景気の波が大きくぶれないようにビルの建設も2年前に始まった建設が未だにほとんど変わらず続いていると目の前の工事現場を指差し彼女が言う。その工事が続く限りそこで働く人が失業することは無いわけで、すべてが福祉社会の利益優先で計画され、いまスウェーデンは社会のために働けば自分にその利益が給料という形以外で帰ってくるという、福祉が働く意欲を逆に高めるという仕組みを作ろうとしている。こういった生活はやはり人間の絶対数が少ないから出来るのであろうか。日本がこのような姿になるには今と同じGNPを維持して人口を半分に減らさなければ不可能なことのように思える。

 

ストックホルムのいわゆる旧市街地と言われる中心地は数区画からなる狭い地域である。古い佇まいが歴史を感じさせる。旧市街を一通り案内された頃ばったりとイマトラのユースで一緒だったオーストリア人のヴェラと会った。彼は昨日ストックに着いて、ユースに泊まっているという。ここのユースは有名な船上のユースで、街中の運河に浮かぶ白い帆船である。宿泊費は僕の泊まる宿の10倍くらいである。コペンハーゲンに行かないと盗難にあったトラベラーズチェックの再発行を受けられない僕は切り詰められるところは切り詰めて行かなければならないのである。市川さんはアルバイトをしているそうで、今日も5時から仕事があるそうで別れ、ヴェラとしばらく街を歩いた後、ホテルに帰った。

夜11時、窓の外には4車線の道路があり、平行して地下鉄の路線が通り、その向こうは帆船、クルーザーなどが停泊された波止場である。港の対岸にはネオンの輝くストックホルムの夜景があり、その派手さのない上品な夜景が水面に映っている。そしてまだ明るさの残る空には三日月が輝いている、空気が澄んでいるせいか、北欧の月はいつも美しい。


コンサートホールにて


2. 雨のストックホルム

ヨーロッパの日曜は静かである。ほとんどの店が閉まっている。昨日買ったキッコーマンのお醤油を缶詰にかけて食べる。これが今の僕の環境で手に入る唯一の日本の味であるが、ここには自炊の設備が無いのが残念である。午前中は日本に手紙を書いたり、洗濯をしたりして、午後街に出る。昨日の市川さんの「ここでは今の季節毎日、午後2時ごろになると雨が降るわよ、でもすぐに止むけど」という忠告に従い、傘を持って出る。ローヤル パレスまで来たら丁度午後2時ごろ時間通り雨が降り出した。強い雨で傘を持っていても濡れるので、しばらく雨宿りをすることにする。王宮のある、この辺一体はスターデン・メラン・プロナードと言うオールドタウンで古い建物が並び、中世そのままのストックホルムを見ることが出来る。雷が鳴り響き、ローヤルパレス前の波止場を雨が叩く。波止場の対岸が雨で隠れるほどの激しい大粒の雨の中で立ち尽くすのはパレスの前の銅像だけである。人々は心得たものでこの雨が15分もたてば止むことを知っているので、傘を持って歩かないようである。20分ほど雨宿りをしていたら、やがて雨はぴたりと止んだ、いかにもスコックホルムという、ロマンチックな雨を見せてもらった。

中心街の近くに小さな運河が通っている、長さ100メートル、幅10メートルくらいのこの運河には水門が付いていて、ここで川と海の水面差を調節している。この運河に途切れ無く豪華なクルーザーが入ってくる。家族づれでボートを引張り、犬をつれ、貧困の差の少ないと思ったこの国にもやはり大金持ちと呼ばれる人種はいるようである。まだ若い夫婦が大型のクルーザーで休日を楽しむ、何者なのかと思うが、ここはバイキングの国、地図をみればストックホルムは海に浮かぶ都である。船を持つことは我々日本人には考えられないほど当たり前の人生の目的の一つなのかもしれない。限られた自然を大切にして、人間を大切にして、有るもの、与えられたものを大切に使う。そんな国民であるから今日の豊かなこの国があるのだと思う。この国のこれからの進み方はどうあれ、ここまでの道はこれからの日本も進まなければならない。「日本がこれまで歩んできた道は間違っていた」「もっと良い進み方があったはずだ」という言葉は長く旅をして外国を見てきた人達から良く聞く言葉である。車の排気ガス規制、企業公害対策等、最近やっと自然環境を守るための対策が練られているが、いずれも問題が起きてから何とかしなければと作られたものである。問題が起こる前に先回りしてこの対策を立てていたら北欧のような生活環境造りが出来ていたかもしれない。そんな余裕のある政治が出来ないで現実に振り回されているのが現在の日本の政治である。

 

朝、郵便局に行こうとホテルを出る時、「グッドラック(幸運を祈る)」と声をかける男がいた。実際ここにはそういう人が多いのであるが、僕が職探しに出かけると思ったらしい。それほど、この街で働き、職を探している日本人が多いのである。食料を買っていったん宿に帰る。食品は高いばかりで口に合いそうなものはない。食べたいと思うものはかなり高く、その点ではフィンランドよりひどい。頭にくるがスウェーデンを出るまでは缶詰にこの国で手に入った食料で一番美味い物、天下の宝刀キッコーマンをかけて食べるしか、なさそうである。

 

最近の旅行者の溜まり場になっているという図書館に行く。セントラル・ステーションの向かいの図書館とその入り口の階段には日本人の旅行者が何人かいた。 図書館の入り口を入ると正面にカウンターがあり、忙しく係員がレコードを廻している。近くの日本人に聞くと自分の好きな曲を選んで言えば無料でその曲をかけてくれるのだと言う。指定された椅子に座ってヘッドホンで聞くわけであるが、その椅子も座れば眠くなりそうなフッカリとした椅子である。

どの本を勝手に持ってきても良いし、子供の遊ぶ場、軽食堂、を備え、インテリアも立派である。こんなに恵まれた図書館なのに椅子を探せば常に空きがあるという。これはこのような公共施設がここだけでない事を意味している。

階段に戻って数人の日本人の中に座って話してみると、ほとんどが長く旅している人や、この街で働いている人達であり、一般的な意味の観光客はいない。カナダの酔っ払いがタバコをもらいに来ると旅なれた彼らはこの酔っ払いをからかいにかかる。「カナダ?それは合衆国のなかの州か?」彼がろれつの回らない声で説明すると「それじゃあ日本の東隣か?」などとあくまでとぼける。一般的に長く旅をしていると、そんな会話もからりとやってくれるが、中には人種的な問題が絡む事をきわどく冗談に入れてしまう人もいる。日本人以外のアジア人を、たとえば中国人を馬鹿にしたような会話、仕草であるが、他国の人にとっては日本人と中国人の違いが分からない人が多い。そんな中で中国人を見下した言い方はいつか自分の身に返ってくるようで感心しないのである。

フィンランドから南の国では、長い間外国にいる人達の間では日本人同士冷たく、あまり挨拶をしないと言うが、冷たいと言うのはおそらく間違っている。見てくれで初対面の挨拶をしても日本人以外の東洋人である確立が高く、そんな時、気まずい感じになるので、あえて挨拶を避ける傾向があるのであろう。それを気にしないで僕のようにこちらから話しかけ、日本人だと分かれば,たいがいすぐに友達になれる。

 

街中に『王様の公園』と呼ばれる公園がある。外にテーブルを出した喫茶店がある。午後のひと時、この公園でチェスをする人、エレクト−ンを持って来て自分の曲を歌う人、橋の上から釣りをする人などを見て、一人旅の良さをじっくりと味わう。空模様が怪しくなってきた。まもなくまた雨が降る時間である。

 

雨のローヤルパレス前広場

2. 日本食をご馳走になる

翌日、コンサート・ホールで市川さんと待ち合わせをする。彼女はおにぎりを作って持って来てくれた。今日は東京で言えば上野公園の様なところで、この国のおのぼりさんが必ず行くというスカンセンという所に案内してくれると言う。

2年前に2年間ストックホルムに暮らしたことのある彼女はスェーデン語を話し地理にも明るい。

そこはちょうど僕のいるホテルの向かい側になる位置にあり、船で行くと船代が80円ほどであるが、船から見る古い佇まいのストックホルムの街並はまたすばらしい眺めである。スカンセンには動物園、遊園地、ゲームセンター、そして日本で言う明治村みたいな昔の古い町並みを再現したところがある。其処にある郵便局では実際に昔ながらのスタイルで郵便業務が行われ、銀行ではお金の出し入れ両替が出来る。タイムスリップしたようなその町並みにある印刷屋、ガラス屋、パン屋、織物屋でも実際に製品が作られ販売されているのである。その他実際の生活に必要な学校、協会、水車小屋、農家もすべて再現されている。ここの郵便局では、フィンランドにもあるが、世界各国の子供達からスェーデン・サンタクロース様宛の手紙が集められ国費で返事が子供に送られていると言う。この国の人間愛は世界にも及んでいて、4年ほど前ベトナムからかなりの数の戦争孤児が引き取られたと言う話を聞いた。実際街を歩いていても、ここスカンセンでもアジア系の子供が白人の夫婦に甘えている姿を目にしたのである。ここの動物園には犬、猫、ウサギ、豚の類までいる。あまりにも身近で珍しくない犬、猫を動物園に置かない日本の動物園、心情は理解できるが、ここの動物園ではもっとも身近な動物を置かないで何が動物園だ、と言う考えのようだ。これもまた、筋の通った理論だと思う。所変われば、いろんな考え方があって当然であると改めて感じる。

 

椅子に座っておにぎりをご馳走になる。お米、のり、梅干しとすべて日本から送ってもらったもので作ったという貴重なおにぎりである。久しぶりの本格的な日本の味はたまらなく美味かった。中国製の漬物も付いて、日本を出てから一番のご馳走であった。僕があまり美味しそうにたべるので、市川さんは自分の分まで僕にくれたのであった。遠慮しつつも頂いてしまったが、彼女にとっても貴重な食べ物であったはずと彼女の好意に感謝するのみである。

明日はストックホルムを発つ予定である。スカンセンで楽しく半日を過ごし別れ際、「明日ストックホルムをたつ前に日本食を食べさせてあげるから滞在している藤田さんの家にいらっしゃい」という招待までしていただいた。

 

市川さんと別れて図書館前の階段に座っていると一人の日本人に「コーヒーハウスに行こう」と誘われた。彼に付いていくとそう遠くない所の目立たない古い建物の地下に下りてゆく。そこは看板もない蝋燭の光りだけの薄暗いお店でメニューは何でも0.5マルク(30円)という、この街では信じられない安さ。コーヒーとサンドイッチを注文する。中を見渡すと約3分の一は日本人である。その他はほとんどが他のヨーロッパからの旅行者であろうか。フィンランドで何度か嗅いだマリファナの匂いも漂っている。黒人がギターを弾き歌っている。床にはマットが敷かれ、思い思いに座っている者、寝転がっている者がいる。壁にはいろんな言語で落書きがされている。ここはインターナショナルな旅行者の溜まり場であった。この部屋には隅に小さなカウンターがあり、大きな古いテーブルが5つ、床にはマットは敷かれ方々にローソクが置かれている。その奥がキッチンでオーダーをこなすスタッフがいる。隣の部屋では前衛的な自作映画の試写会が行われ、その映画についてデスカッションをしている。鉄製の廻り階段を上がった一階には卓球の設備がある。改めて壁の落書きに目をやれば、コンクリートにペンキを塗っただけの壁にはより良い世界を求める若者のメッセージが書かれている。そんな中に日本語で「この街には長くいるな。ここに居ると馬鹿になる」という何度かすでに耳にした言葉があった。自由で何の束縛も無く、ここに長く居ると自分を見失い、日本に帰る時を忘れてしまうと言う。そんな不思議な魔力を持った街に引かれてやってきて、長期滞在している旅行者が大勢いる。このコーヒーハウスも今年オープンしたばかりなのに今月一杯で閉店しなければならないそうで、その反対署名運動が行われていた。その事情がなんとなく分かる。「出る杭は打たれる」の例え道理の現実である。目立つ存在は社会では悪にありうる。

 

翌日、午前中にホテルをチャックアウトして、市川さんのご招待でストックホルム郊外にある、彼女の現在の滞在先である藤田さんのアパートに向かう。バスで20分くらいの所に日本で言ったら高層高級マンションといった、近代的な15階建ての美しいビル群が10棟くらい並んでいる。それらの建物をつなぐ部分がマーケットや郵便局、コインランドリーなどで、生活に必要なものは最低限そろっていて、寒い冬には一歩も外に出なくても暮らしていけるようになっているという。10階に有る藤田さんの家に挨拶をして快く招き入れていただくと、中は4LDKくらいだがそれぞれの部屋が12畳以上あると思われる、ゆったりとした造りである。そしてご飯、みそ汁、鳥の丸焼きなどをご馳走していただき、いつの間にか時間は夕方5時ごろになっていた。いくら夜の遅いこの国でも夕方、それも今にも雨が降りそうな空の下でのヒッチハイクでの出発は最初から今夜の宿を探すようなものである。藤田さんが一泊していくように勧めてくれるがもうこれ以上甘えてはいられない「寝袋がありますから、いける所まで行きます」と低調に辞退し、ご馳走のお礼を言って出発する。
  
スカンセンに向かう船からオールドタウンを望む         図書館の入り口

 

27. トゥシャンとの出会い

地下鉄で1時間ほど郊外に出たところからヒッチハイクを始める。最初の車はあっけないほど簡単に捕まったが、行き先がわずか5キロほど先のセデルテルィエというところですぐに降ろされてしまった。そこにはすでに一人のハイカーがいて、ヒッチハイカーのルールに従って、当然僕は彼の下手に付く。彼が車を捕まえなければ僕が車を捕まえられることはない。彼と話すと「ここはまったく良くないね。車はスピードも緩めてくれないよ」と言う。1時間半ほど待ったが先客の彼に車が捕まらないから僕は座っているだけである。車が止まる気配も無いのでいやになっていると、近くの駐車場で模型のレーシングカーを走らせる音がした。野宿の場所を探すつもりでそちらに移動すると無線でコントロールする模型の50cmほどのレーシングカーが2台すごいスピードで走っている。見た目では60kmくらいスピードが出ている。すっかりヒッチハイクを諦めて腰をすえて見ていると近くのホテルに泊まる5歳と3歳くらいの兄弟が話しかけてきたので相手をしてあげて1時間ほど時間をつぶす。ハイウエーのハイカーを見れば、いまだに同じ場所で頑張っている。時間はすでに9時である。やがて子供がホテルに戻り、ハイカーもあきらめて宿を探しにそこを離れた。レースを楽しんでいた6人ほどの若者も帰り、僕だけ残されてしまった。あたりも薄暗くなってきたので、野宿の場所を探すためにまたハイウエーに戻る。今夜はおそらく雨が来る。何処か雨を防げる場所を探さなければならないとハイウエーの横で考えていると、一度通り越した赤い車がかなり先方に止まり、そのままバックして戻ってくる。信じられなかったが、これがスゥエーデンの友人トゥシャンとの出会いであった。

 

「僕もここでヒッチハイクをしたことがあるんだけど、なかなか車が止まってくれない所でしょう?」そんな会話から始まり、互いに自己紹介をすると彼はセデルテルィエの母親を訪ねて、隣町のニューヒェピングに帰るところだという。ワインを2本持っていて車のハンドルを握りながら栓を抜いてしまった。郷に入りては郷に従え、スゥエーデンでは良いのかなと思ったが、そんなはずはないのである。後で聞いたらやはりスゥエーデンでもワインをラッパ飲みしながら運転することが許されるはずはなく警察に見つかったら厳重注意を受けると言う。注意だけと言うのが信じられないが、彼のペースに任せ交互にワインのラッパ飲みをしながら進むこととなった。

ヒッチをしている時から今夜は雨がくるなと思っていた通り、やがて雨が降り出してきた。降り出す前に彼に拾われたことを感謝しながら、今夜の宿の心配を始める。彼が地元にユースを知っていると言うので一安心。雨はますます激しくなり、白夜なのに空はかなり暗く、雨のため時たま対向車のライトで道が見えなくなるほどである。「道がどっちだか見えるかい?」「アイ・ドント・ノー、おそらくこっちだろう」などと頼りないことを言いながら、スピードを落として進むと、ワイパーが吹っ飛んでしまった。これがないと見えない道がいよいよ見えなくなってしまう。急いで止まって、トウシャンが雨の中に飛び出してワイパーを拾って「ぼろ車め!」と言いながらワイパーを差し込む。

途中で雨の中ヒッチハイクをしていた軍人をもう一人拾って、ニューヒェピングの一つ先の町まで送ってあげて引き返し、車はユースの前に着いた。雨が激しく車の窓を打つ。しばらく雨が小降りになるのを待つことにして話をしていると、彼は今夜はこの後、友達の家に行って飲むと言う。すでにすっかり打ち解けていた僕らは「僕も飲みたいな」と言う僕の言葉を待っていたように、トウシャンは「レッツ・ゴー」と答えてくれ、車を発進させる。ここからまたもや、僕の旅の予定は成るがままにモードに突入することとなった。

 

彼の友人の家に着いて雨の中1,2,3.で飛び出してドアをノックするが返事がない。「彼の居場所は大体分かっている」といってトゥシャンが連れてってくれたのはすぐ近くのバー、そこに彼の予想通りに友人ネルソンはいた。3人でネルソンの部屋に戻る。彼は写真家である。部屋には彼自身が撮った写真が飾られている。トゥシャンとネルソンは地元の高校からの友人である。そして彼らには全部で6人の同窓生の仲の良い友達がいる。ネルソンは今から3年前の高校の卒業の時、自分を含めた6人の顔写真を撮り50センチくらいに引き伸ばして部屋の壁に飾っている。彼らの青春と友情の証である。そしてこの後、街中でこれらの実物の顔に次々と出会っていくことになる。

蝋燭の光りの中でクラシックのレコードを聴きながらワインを飲み、折鶴を折ってあげる「ファンタステック」と彼らが叫ぶ。蝋燭にてらされた白い折鶴はその夜一際美しかった。

2. スゥエーデンの友情

翌日遅く、トゥシャンの家で目を覚ます。すでに昼過ぎである。昨夜は午前3時過ぎまでネルソンのところで飲んでいた、寝たのは5時近かったと思う。トゥシャンの家は5部屋くらいあって一人で暮らしている。とても日本では考えられない贅沢な一人用の住居区であるが彼の仲間もそんなに変わらない所に住んでいる。今日も雨が降りそうである。「ヒッチをするなら月曜の朝出るのが一番良いだろうけど、好きなだけ居てくれて良いよ」と言うトゥシャンの言葉に甘えて、この週末をここで過ごすことにした。かくして今日は彼の友達の家を回って歩く。途中、古びた納屋のようなところの軒先の草薮で二人で小便をしていたら僕が土の中になにやら光る物を見つけた。掘り出してみると3センチくらいの大きさの銀貨が10枚くらい出てきた。さらにひと回り小さいコインが8枚くらい。まさに小判がザックザク、刻まれた年代を見ればすべてが約100年くらい前の硬貨で価値のほどは分からないが、見てくれは銀貨のようだからそれなりに価値があるのかもしれないと宝の山を掘り当てたつもりで持って帰る。

 

図書館に行って「オリガミ」なる本を見つけて借りて来てウサギ、鳥、ペンギン、家、などを造り上げた。トゥシャンは今まで折り紙を教えた外人の中では一番器用である。折鶴は2回で覚えたし折り紙をする時の外人特有の手先のおぼつか無さがない。正確にすばやく折っていく。僕はどのくらい小さな鶴が折れるか挑戦してみた。先の尖った小さなナイフを使ってタバコの銀紙を折っていく。これは不可能かと思ったがついに完成させて「おそらく、世界最小の折鶴でしょう」と言ったらトゥシャンは大喜び。彼は自分で作ったウサギが一番気に入ったらしく、ポケットに入れて持ち歩き、人に会うごとに吹いて膨らまして見せている。ここは彼の育った町なので友達があちこちにいて、トゥシャンは人気者である。彼の両親は彼が小さい時に離婚したそうで父親とは離婚後5回しか会った事がないという。そんなことを感じさせない明るく礼儀正しい男で、曲がりなりにも客人である僕には何時も気を使ってくれる紳士である。

 

トーマスが訪ねて来てフットボールを観に行って3人で夕食をとった後、今夜も飲みに出る。その後さらにネルソンの所に行ってさらに顔写真の友人二人を交えてワインを飲み続ける。今夜もネルソンの部屋には音楽が鳴り響き友達の溜まり場である。スゥエーデン語は英語から枝分かれして出来た言語の一つだという。スゥエーデン後を話していても彼らの会話の10パーセントはその名詞と動作から想像がつく。今夜は僕のために彼らも英語で話してくれる。藤田さんがおしゃって居たが、この国では小学校に入ると英会話を習い始め、小学校を出る頃にはかなり話せるようになっていると言う。日本みたいに読み書きから入る英語教育は効率が悪いと思う。話せるようになれば大概、次は書いたり読んだりする事に興味を持つ。母国語だって話言葉から入るのが言語をマスターする順番である。生活に直結した会話は興味の度合いが違うので学ぶ意欲が生まれる。せっかく英語で話してくれても僕の分からない単語が出てくる。彼ら位、ある程度の英語力がついたら音楽、映画などでさらに英語力はアップしていくようである。日本人の語学力の無さはその教育方法に原因があるのだと思う。

 

トゥシャンに別れを告げる時が来た。いよいよスカンジナビア半島を離れてヨーロッパ本土に向かうこととなる。早起きをしたトゥシャンが朝飯にトーストと玉子焼きを作ってくれた。コーヒーを飲みながらゆっくり食事をした後、9時ごろに、この町で一番ヒッチで車が止まってくれるという場所に連れて行ってくれた。「ここからデンマークに渡る港町ヘルシングボリまでは、たいていのハイカーが一日で行くから今日の夕方には着けると思うよ」とのことである。わずか2泊3日であったが、この国の若者の仲間に入れてもらって楽しい時間を過ごせた。この町を忘れることの出来ない楽しい出会いであった。トゥシャンと別れを惜しんで堅い握手をかわす。あの雨の日、初めて僕を拾ってくれた彼の小さな赤い車はもと来た道を戻っていった。
「グッド・バイ・トゥシャン!」

 

それにしてもあの銀貨、記念に一つ貰っておくのであったと思ったのは、しばらく後のことであった。

 

中編・『ヨーロッパ、ターニングポイント』

 

2. 夕暮れのコペンハーゲン

ヒッチに入り予定通りに行けば今日でスカンジナビア半島ともお別れだなと思っていると、まもなく一台の車が止まってくれた。ドイツで高校の先生をしている人で8日間の北欧の旅を終わってドイツに帰るところだと言う。ラッキーなことに、一気にコペンハーゲンまで連れて行って貰える事になった。彼は一年間アメリカに暮らしたことがあるそうで英語を話し、いろんな事を知っていた。そしてまさに日本の教師と同じ雰囲気があった。途中、僕が理解できるまで何度も言い方を変えたりしながら、日曜日がどうして出来たか、ヨーロッパの言語、ドイツ語の歴史、宗教、政治、教育、その他、後で思えば僕がこれからヨーロッパを旅するに当たり教養として知っておいた方が良いことをいろいろ教えてもらっていた。まさに先生であった。

 

フェリーでデンマークのヘルシングボリに着いたのは午後6時半頃であった。ここからコペンハーゲンへは後1時間ほどの距離だと言う。そしてここには有名なハムレットの舞台となったヘルシンゴ城がある。先生はフェリーの着いた港からそんなに遠くないそのお城に僕のために寄ってくれた。すでに観光で城の中に入れる時間帯は過ぎており、僕ら二人だけであった。それでも中庭に入り外側から300年前に建てられた古いレンガ造りの城を見る事が出来た。誰も居ない寂しい中庭を風がヒューヒュー音を立てて通り過ぎていく。レンガや石畳の一つ一つに歴史を感じさせる城は、まさにハムレットの舞台として相応しく、この城があったからこそ生まれたハムレットの物語であると思う。『なすべきか、なさざるべきか』乾いた風の唸りの中にそんな声が聞こえてくるようであった。


ハムレットの舞台、夕暮れのヘルシンゴ城にて

 

車は真っ赤な夕日に向かって走り、コペンハーゲンに入っていった。今夜は車の中で寝ると言う先生と駅前で別れて、食料を買いにマーケットに入る。食料が手に入ると宿の心配が始まる。日本人を捕まえて聞いたらおそらくユースは何処も満員だろうという。デンマーク人の中学生が「シティーキャンプなら泊まれるよ」と教えてくれた。セントラル ステーションから一つ目の駅で降りて5分ほど歩いた所にそのキャンプはあった。ここは夏の間、旅行者のために市が経営している安い宿泊施設で、朝食が付いて10デンマーク マルクで泊まれる。料金的にはユースの半額である。レンガの塀に囲まれて、手続きを終え中に入ると何棟か大型テントが張られベッドが並んでいる。強烈な音楽が聞こえてくる。食堂が夜はバーみたいなものになり、ビール、コーラ、軽食を売っている。荷物部屋と呼ばれる1時間に10分だけ開く部屋に荷物を預けて、早速ビールを買う。マーケットで買うより安い、おそらく市の経営なので税金が掛かっていないのだと思うが僕には嬉しいサービスである。ここには大勢のアラビア人がいる。彼らの一人が「空手は出来るか?」と聞いてくる。ここコペンハーゲンでも空手の知名度は抜群である。少し前アラビア人10人と日本人5人が仕事の事で乱闘となりその中に空手の出来る日本人が一人居てその人が一人で片っ端からアラビア人を10人倒しその武勇伝がいまだにコペンハーゲンの方々で語り継がれている。兎に角、彼らは日本人は皆、武道をやっていると思っているようで。「真似事程度は、出来る」と言うと「カイロでも空手はブームで俺は2段だ」と言う。こいつは本当にやるのかなと思ったら「俺の兄弟は7段だ」と聞くに及んでアラブの張ったりだと分かった。空手7段は日本にもほとんど居ない。「俺とトレーニングをするか?」と言うと簡単に降りた。空手などやる必要もない僕には僕に出来ることがある。勿体をつけて宙返りなど曲芸師の真似事をしばらくやる。そしてどうしてもと言うので須藤さんに教わった空手の型を少し、それで十分であった。彼らは新入りの僕のためにベッドを開けてくれたり大変なもてなしようである。こうして30人ほどのこのテントで顔をあわせれば挨拶をしてくる忙しいキャンプ生活が始まった。

 

盗難にあったトラベラーズ チェックの全額再発行を受けたり、同じテントのアラブア人と海水浴に行ったりして3日間をこのキャンプで過ごした。いまヨーロッパではアラビア人の評判は悪い。しかし彼らと一緒にいれば一人一人はとても気の良い奴らである。彼らのほとんどは学生である。その特権で、国からも援助をもらっているそうであるが、見聞を広げるため夏休みにはこうしてヨーロッパを旅している。エジプト人が一番多いが、彼らが何を学び何を得て国に帰るか分からないが、国がこうして若者に期待し、教育と見聞の機会を与えているのはすごい事だと思う。


エジプトからの学生達と海水浴



30. スリープインの日本人

このキャンプに入って3日間が経つが、日本人にはまだ会っていない。ここには日本人はいないのかと思っていた三日目、おそらく僕の今まであった人とまったく違うタイプの人に会った。インドで半年間ピッピーのコミュニティーで暮らしていたというその人は西山さんといった。ヒッピー文化の最盛期は3年ほど前に過ぎているが、まだ方々にヒッピーはいる。自分でヒッピーの生き方に憧れ実践できたらその人はヒッピーである。彼は日本に居た時はアクセサリーを売ったり、ハプニング屋などという人を驚かせる事をやっていたと言うが、おそらく彼はピッピーというに相応しく精神的なものを求め続けている。とは言い、インドでもお金が無ければ暮らしていけない、しばらくヨーロッパで出稼ぎをしてまたインドのゴアの海岸に帰るのだと言う。彼の目は驚くほど穏やかで優しい。なぜか僕のことを気に入ってくれてキャンプ場で毎夜遅くまで話し相手になってくれていた。今まで会った人々とはまったく異質の価値観を持った人で、物欲がなく、彼のこの人生での唯一の望みは精神的な神様に成りたいのだと言う。そして誰でも神様になり得るというのが彼の持論である。そんな彼の考え方、生き方には引かれるものがあった。彼はその言葉通り何の力みもなく穏やかにその場所で生きていた。彼は日本で身に付けた技術で、ビーズを編んでネックレスやブレスレットを作って売っていた。ここコペンハーゲンは観光地であり結構売れるのだという。彼は人の倍、手を掛けたものを人の半額で売っていた。僕もコペンハーゲンにいる間、彼を手伝う事になり、夜の数時間、作り方を教えてもらいながら共にビーズでネックレスを作った。僕の作品は明日売れるであろうか?

 

駅前の通りは観光客で一杯である。そこで彼と一日1時間半ほどアクセサリーを売る。日本円で指輪が300円、ブレスレットが500円、ネックレスが1000円位である。1時間半で7000円ほどの売り上げになるともう店仕舞いである。一日食べられて寝られたら良いのだという。そして彼は僕に売り上げの4割をくれるのである。時には子供に日本円で300円で売っている指輪をあげたりする。それを気に入ってくれる人にはいくらで売っても良いのだと言う。有る時には与え、無いときには貰う、これが人生だと言う。彼の友人はインドで無数にいる乞食に自分の持っている物をすべて彼らの望むままに与えたと言う。「そこまで行くには、まだまだ欲を捨てきれない」と彼は笑う。繁華街の通りにはいろんな国の人がさまざまな露天を出して観光客を相手に商売をしている。ライセンスを持たないで物を売るのは違法であるらしく、1時間に一度くらい警察が回ってくる。そのため、各露店から剰余人員を出して交替で道の両方向に見張りを立てていて、警官が来ると見張り役が合図を送る。するとあっという間に商品を布に包んで人込みに紛れる。警官が行ってしまうとまた元に戻り商品を地面に並べる。僕にも見張り役が回って来て無事に役目をはたしたが、警官も心得たもので決して僕らを捕まえようとせず、二人組でゆっくりと目立つように歩いて来て逃げる時間を与えてくれのであった。

西山さんはまだ等分日本には帰らないで10月ごろインドに戻って、来年の夏はまたヨーロッパに来てアクセサリーを作って売り、アフリカに行きたいと言う。インドで近況を連絡するため先にニューデリーに行ったらJALのオフィスに手紙を残す事を約束した。

 

この街にはアムンゼンの童話に出てくる有名な人魚の像がある。前から僕の知っていた数少ないコペンハーゲンの観光スポットである。それは中央駅から30分ほど歩いた海辺にある小さな像であった。海を挟んだ対岸には造船所があり、そこから出る煙、騒音が童話の舞台には相応しくない演出をしていた。童話の世界から来た小さな人魚の像がかわいそうであった。

 

ところでここには西山さんの他にもう3人印象に残る日本人がずっと一緒であった。まずは梅さん、松さんの大阪人漫才コンビ。大阪人の乗りを初めて見せてもらった思いである。タバコが高いヨーロッパで彼らは安いパイプタバコを愛飲しているが、パイプが一本しかない。二人で一本のパイプを愛用していて、一服の度に「ほなら松ちゃん、お先に一服行かせてもらいますわ」「どうぞ、お先に」と言う挨拶が必ず入る。特に梅さんは顔を見ているだけでこちらの頬の筋肉が緩んでしまう、いわゆる面白い顔をしている。おかげで僕などよく「アホ!人の顔を見て笑うんやない」と怒られたものである。そしてもう一人、ミスター池田がいた。彼は最初会った時はまだ仕事を探していたが、幸い持ち金が尽きる前に仕事が見つかり、張り切ってレストランでの仕事に行き始めた。最初の日は「今日はね、まだマスターを知らなかったのでマスターに仕事を頼まれて、いま忙しいから駄目と、断ってしまった」とか、二日目は「今日はトイレに入って中側から鍵をかけたら、その開け方が分からなくて30分、中側からドアを叩き続けてマスターに助けられた」などと毎日面白い土産話を持って帰ってくれる。「明日はいよいよ首だろうな?」と言いながらも毎日夕方まで勤めて帰ってくる。

ある日仕事に出かけて直ぐに帰ってきた。いよいよ首になったかとミスターのところに駆けつけると「今日は俺、休みだったよ」とのこと。1メートル50センチくらいしかない小さな人だが、一緒に働いているスゥエーデン人の男は190センチの大男だという。ミスターはその大男を戸棚から物を取る時に使っていたが、今は雑用でもなんにでも大男をアゴでこき使っているという。ここで会った4人の日本人が4人ともすごく魅力的で良い人たちであったので明日はこの街を出ようと思いながら12日間もコペンハーゲンに留まってしまった。楽しくすばらしい日々であったが、もう先に進まなければならない。

 

街を歩いて気がついたのは車椅子が多い事、足の不自由な人でも出かけたい時に出かけられるように道路、駅、建物が整備されている。そして旅行者のための安宿、これが日本にはないやさしい街を作っている。日本の都会にもこんなやさしい設備があればと思った。そこに暮らす警官も、旅行者も人情ある街であった。 

 

31. ミルクを飲めず、ビールをご馳走になる

コペンハーゲンで2ヶ月間有効な鉄道のユーレールパスを手に入れたが、ここはヒッチハイクの本場である。ハンブルクまではまだパスを使わずにヒッチで行く事にした。郊外に出た所でヒッチに入るとアメリカ人とイタリア人の学生の先客がいた。彼らもハンブルクへ行くと言う。ヒッチの規則にしたがって彼らの下手に陣取り、彼らと話をしながら彼らが車を拾うのを待った。やがて彼らが拾った車は3人乗れる車であった、彼らが話してくれて「カモン、ジャパニーズ!」かくしてハンブルクまで3人でヒッチをする事となった。彼らの名前はトムとエトレ、二人はいとこ同士でトムはアメリカのワシントン州、エトレはイタリアのローマの学生である。血のつながりがあってもアメリカとイタリアに離れて暮らすいとこ同士が頻繁に会えるとは思えない。そんな二人が現実に、ひと夏をヒッチハイクをしながら一緒に過ごす事はとっても幸せで貴重な青春の経験だと思う。彼ら同士は普段はイタリア語を話しているがトムはもちろん、エトレも僕には英語で話してくれる。

約1時間のフェリーに乗って西ドイツに入ったところで車を拾えないまま日が暮れてしまい、今日はここで野宿をする事になった。冷たい風が吹いている。僕らは風を避けられる場所を探し、ガソリンスタンドの横の風が遮られた芝生の上で寝る事にした。

  
トムとエトレ、日が暮れて車が捕まらず道路に3人の名前を書き残す

 

寒さで何度か目が覚めた夜であったが、朝方にはぐっすり寝ていた。6時ごろトムが起きて朝のミルクを探しに行こうと言う。そういえば辺りは麦畑で向こうに農家が見える。農家を数件訪ね、絞りたてのミルクを所望するが農家の人は僕ら以上に早起きで、すでに今朝絞ったミルクは出荷した後で、ついに手に入れる事は出来なかった。
先に出発した二人と別れ、ハンブルクに着いた時は午後になっていた。ここからユーレールパスを使うため、アムステルダム行きの夜行列車を調べたら出発は午前3時55分であった。荷物を駅に預けてブラブラと街を歩いているとビヤホールが目に入った。ドイツに来たらビールを飲まなければ始まらない。1マルクの入場料を払って中に入る。後で聞いたらここは古くからあるこの街では有名なビヤホールであった。古い重厚な椅子とテーブル、300人ほどの人達が飲んでいる。中央のステージでは半ズボンの民族服を着た10人ほどの楽団が演奏して客を盛り上げている。指揮者が帽子を持ってテーブルを回る、この帽子をかぶった客が次の指揮者である。もちろんいくら酔っ払っていても演奏の方はベテランの楽団メンバー達がびしっと決めてくれる。そして、演奏家にビールをご馳走して臨時指揮者はステージを下りるのが決まりのようだ。
客達もやがて椅子の上や、テーブルの上に立ち上がり歌い、踊る。肩車をするもの、大声を張り上げる者、それぞれが思い切り楽しんで喜びを体で表す、本場の圧倒的なビールの飲み方であった。

ビールはいろんなサイズがあり一杯3.5マルクか4マルクのが一番売れ筋のようであるが、3.5マルクのビールを飲んでいると近くに座っていた世界青年交流会とかいう所の日本人が一杯おごってくれた。それからカメラのミノルタの駐在員、彼らはこれから2年間は日本に帰れないそうで、えらい所に島流しになったとこぼしていた。会社のテレックスでその日のニュースが入ってくるそうで、最新のニュースをいくつか教えてくださった。ノルウェーのお金持ち風の紳士、そして日本に行った事があるというスイス人の船員さん、皆さんが一人旅の僕に次々とビールを買ってくれる。ノルウェーの人など椅子に座るなり僕に7マルクもする長靴の形をした大きなジョッキに入ったビールをおごってくれた。重くて片手で持てないほどの本物の長靴くらいある大きさである。

そんな訳でビールをまさに浴びるほど飲んでこのビヤホールを出たのは午前1時半ごろであった。その後の記憶はさすがにあまり定かではない。駅までは歩いて30分ほどの直線道路であったはずだがだいぶ歩いた所で昨夜の野宿での寝不足もあり、眠くなってきた。たまらず傍らの芝生の上に横になったら最高に気持ち良い。そこで目が覚めたのは3時45分、汽車の出発まであと10分、「これはしまった、寝過ごした」であるが、幸い寝ていた所が駅のそば、間に合わないかと駆けつけたら日本の国鉄のように時間通り発車しなかったので列車はまだホームにいた。そしてほとんど飛び乗ると同時に汽車は動き出したのであった。

 

32.公園の旅行者たち

午前10時ごろ汽車はアムステルダムに着いた。駅のインフォメーションで街の地図をもらおうとしたら、ちょうど切らしていると言う。近くに居た日本人を捕まえて聞いたら日航のオフィスで貰ったら良いと教えてくれた。

大体の場所を聞いて日航のオフィスに向かうが駅から30分も離れた所であり、重いリュックを駅に預けてこなかった事を後悔しながら歩く。通行人に聞き、日本人に聞き、警官に聞いたが、大体の方向しか分からない。警官も「よく分からないが、あの辺だと思う」といった答えしか返ってこない。何しろ日本では世界に羽ばたく日本航空でも、ヨーロッパにあってはまだ知名度の低い航空会社の一つでしかないようである。こんな時どうするか?2ヶ月も旅をしていると知恵がつく。最も知っている確率の高いところ、それは同じ業界の競争相手に聞く事である。目に入ったカナダ航空のオフィスに入って「申し訳ありませんが、日本航空のオフィスを教えていただけませんか?」と聞いたらニコッと笑って正確な場所と住所を教えてくれた。

 

作戦成功で日航のオフィスに行くと、立派な市内地図をくれた。地図でコッペンハーゲンに居た時、西永さんに聞いていた野宿の許されている公園を探すと、駅から歩いてきた僕の現在位置からさらに駅とは反対方向に歩いて15分ほどの所であった。トータルでは駅から歩いて45分の位置となり、重いリュックをここまで持って来たのは正解であったようだ。残り15分の歩き、途中は古いレンガ造りの家々が並ぶ美しい街並みである。所々に運河が流れ、美しく咲いた色とりどりの花が方々に飾られている。やがて疲れで周りの風景も目に入らないほど足取りが重くなり、公園に入った時にはフラフラであった。何しろ二日酔いで夕べから何も食べていなかった上、汽車の中で4時間ほど眠っただけであった。芝生の上でドイツで買っていた食事をする。食べ終えた所で寝袋を持った3人の日本人に会った。「ここにはロッカールームがあるはずだが」と聞いたら「何時も満室で荷物をここで預けるのは無理。皆、荷物は駅に預けて必要なものだけ持って来ているよ」と言う。彼らもこれから駅に行くから一緒に行こうと誘ってくれたが、ここまでやっとの思いで重いリュックを運んできた僕の努力はなんだったのか、これから駅に行って荷物を預けてまたここまで戻ってこなければならないのである。合計で今日はなんと2時間15分の強行軍となる。しかしこのままでは落ち着けない、食べるものを食べて幾らか元気になり駅に行く力くらいは残っていようと重い腰を上げて彼らと駅に向かう。途中荷物を運ぶのを助けもらいながら駅に戻り、荷物を預ける。

その後、彼らとビールを一杯飲みに行くが、昨夜 吐くほど飲んだ僕はそう飲めるものではない。一杯80円ほどのビールを2杯飲んで再び公園に向かう。途中でスウェーデン人の二人の少女に会い、彼女達も今夜の寝る所を探しているというので公園を紹介して、連れて行ってあげる事になった。

 

世界で最初にマリファナを合法化したと言うオランダのアムステルダムはピッピーの溜まり場である。バックパッカーの多くの貧乏旅行者もピッピーと呼んで良いようで、この公園はおそらく今、世界で一番ヒッピーが多い所である。300人以上の人が寝袋に入って芝生の上に転がっている。公園の何処を見ても色とりどりの寝袋で芝生が埋まっている。この街にはここの他に3箇所、数百人が泊まれるスリープ インがあると言う。若い旅行者のためにこれだけの場所を提供した市長は尊敬に値する。

 

朝遅く起きると硬い所に寝ていたので背骨が痛い、今日は絶対にエアマットを買うぞと思う。疲労が溜まっているのか体調もまだ良くない。

昨日から一緒のスゥエーデン人の少女二人は拳法なるものを習っていて、片言の日本語を知っている。「分かった?」「分かっている!」といった調子で、何処まで理解しているのか分からないが「分かっている」と言う言葉の使い方はマスターしていようである。来年の夏には日本に来るそうで、日本でどんな活躍をするか楽しみな二人であった。昼頃彼女達と、二人の日本人が出発した。

 

残った一人は京都の学生で一年間休学してニューヨークでユダヤ人の経営するインテリア関係の仕事のアルバイトをしていたと言う。そのニューヨークである日、他の臨時のアルバイトが入り事務所の引越しと説明され、某ビルにある事務所に連れていかれコンピューターなどを運び出す仕事の一員となったが、後で思えば見張り役がいて、金目の物を優先的に扱っていたし、引越しではなく債権代わりの品物の強制収用か窃盗団に組み込まれていたのかもしれないと言う。ユダヤ人の商売のやり方とかニューヨークでのエキサイティングな生活の話をしてくれた。

こうして旅人として出会うと、一緒に行動しながら大概まずはお互いの今までの旅の話しで盛り上がるのである。今夜は二人で公園ではなくスリープ インに宿を取る事が出来た。ダム広場でしばらく時間を潰して、アンネの日記で有名なアンネ フランクリンの家に行くが、すでに見物の時間は終わっていて訪ねあてたこの有名な家には入れなかった。

 

翌日、昨日の失敗を繰り返さないよう朝10時から行動し始める。10時では早いとは言えないが、それでも日暮れが遅いと朝が遅くなるのはしょうがない。10時でもここの所の僕の生活を思えば早起きの方で3文の得になるかもしれないのである。まずは昨日入れなかったアンネの家に行く。折角来たのだから観光も大切な日課である。ここは観光客を呼ぶ名所になっているので相当 国が力を入れているようで小さな部屋には大勢の観光客が列を成していた。部屋に入る前の、昔は事務所であったと言う所には戦争の写真や説明が一杯貼ってあって、この戦争中の出来事の背景を知る事が出来る。戦争反対というテーマが全面に出ていて、その人々の強い想いが一人の少女アンネをかくも有名にしたのであろう。たまたま彼女はこうして歴史の証言者として名前が残ったが、その時代には名も知れず亡くなった沢山のアンネが居た事を忘れてはならない。隠し階段から上がった屋根裏の部屋からはウエストチェストの時計台と、ダイニングルームからは建物の裏手にわずかな緑が見える。アンネが張ったと言う寝室の壁の雑誌の切り抜き、古いストーブ、そしてトイレ以外はその時代の物を後で集めたものだと言うが、アンネの意思はこの先何年も立派に行き続けていくであろう。

夕方、三日間一緒だった彼はフランスに向かって発った。


アンネの部屋から見える教会               ダム広場にて

33.コーヒーで迎えたロンドンの朝

オランダを出発する日であるが、日本を出発前にヨーロッパではオランダから郵便物を出すのが一番安いと聞いていた情報にしたがい午前中にここから増えてきた荷物を送ることにする。これが一苦労である。まずテープと紐を買って、手ごろな大きさのダンボール箱を求めて裏通りを徘徊する。ゴミ箱の中に手ごろなダンボールをみつけ、やっと梱包材料がそろった。荷物と一緒に入れる手紙を書いて郵便局に行って荷物を出すのは半日仕事であった。

 

午後5時半、予定通りロンドンに向かって出発する。ロンドン行きの列車に乗ってベルギーからフェリーで真夜中のドーバー海峡を渡る。

朝6時半ついにロンドンのビクトリア駅に着いた。イギリスではユーレールパスが使えない、ドーバーから僕の乗った車両は一番安いクラスかと思ったら3段階あるセカンドクラス、シングルと言う二番目の所で意外と高かったのは無駄な出費であった。

朝早く着いたので駅前のパブで軽い朝食を取る。ここは英語の国のはずであるが客の話している言葉がほとんど拾えない。本場の英語でその上、下町の強い方言のようなものが入っているようだ。やはり僕の英語が何とか成っていたのは外国人向けの分かり易い英語が使われていたのだと、改めて実感させられた。

 

バッキンガム宮殿に向い、宮殿近くの公園で時間つぶしの朝寝をする。ロンドン市内には地図で見ても沢山の公園がある。美しく整備された芝生には寝椅子が幾つか置いてある。その寝椅子で寝ていると夢の中に音楽が聞こえてくる、寝ぼけているのか、その音楽が有名なバッキンガム宮殿の衛兵交代のそれである事に気づくまでしばらくかかった。起きてみるといつの間にか宮殿の前は黒山の人だかり。モスクワ、ストックホルム、そしてコペンハーゲンでも衛兵の交代を見たが、やはりバッキンガムの衛兵が世界で一番有名で由緒正しいものであるようだ。全員身長約180センチ。かって世界に君臨したユニオンジャックの栄光を留めるのはもはやこの衛兵と古いロンドンの町並みだけであろうか。それ以外はロンドンも東京と同じ大都会に過ぎない。


バッキンガム宮殿の衛兵

 

夕方、コッペンハーゲンで知り会った友人のアパートを訪ねたが夜遅くなっても彼がなかなか帰ってこない。早急に寝場所を探さなければならなくなり、憧れのロンドンで最初の一夜は空き家のような家の庭で明かす事となった。

 

朝、寝袋で寝ていると隣の家の5歳くらいの坊やがコーヒーを持って起こしに来てくれた「グッドモーニング、お母さんがコーヒーを持っていってあげなさいって」「有難う!」もう8時である、こうして英国の朝は温かい一杯のコーヒーで始まったのである。

 

大英博物館はルーブル博物館と並んで世界でも最も有名な博物館の一つである。ここは入場料がいくらであろうが見ておかなければと思っていた所であるが、入場無料であることにまず驚かされた。その展示物はさすがである。有名な作曲家の自筆楽譜、エリザベス一世、ジョージワシントン、キャプテンクック、ニュートン、ダウィーン、レオナルドダビンチ、さあー、あと貴方の知っている人物は?と言わんばかりの歴史上の人物の自筆著書、手紙、がこれでもかと置かれている。そしてエジプト象形文字解明のキーとなったロゼッタストーン、エジプトから運んだ沢山のミーラ、ギリシャはパルチノン神殿の一部の現物など外国の文化遺産、日本の国宝級の物も沢山ある。日本の展示物は昔わずかなお金のために手放したのであろうが、その頃は自国の文化的価値に気づかずに手放した物もあろう。しかし今この博物館に大切に保管、展示されている事は良かったとも思う。日本のように国の財産をお金を払わないと見られないのは考えればおかしな事である。

ここでは写真も取り放題である。

これが大英帝国の力であったか?さすがに、いまだあなどり難しである

 

34.ロンドンのお巡りさんとドンキホーテ

夜、野宿をしようとジェームスパークへ行くとブリュセエルからの二人組に会った。その後ドイツ人の女の子が二人加わり、皆で今夜はこの公園で寝る事になった。とりあえず留守番をしてくれると言う女の子に荷物の番を頼んで男3人で飲みに行く。彼らが奢ってくれた。ヨーロッパにもダッチカウントという割り勘払いがあったはずだが、お金を受け取ってくれないのでその好意に甘えてしまった。

公園に戻ると彼女達から「お巡りさんが廻ってきて、ロンドンでは公園で野宿をしてはいけないといって、3回も注意されたのよ!何処かに動かなければいけないよ」と報告を受ける。「20分ごとに来るのよ」でも、、、、と報告は続く「でも、ロンドンのお巡りさんは優しいの。ハイデンパークに行けば見廻りも少なく、ブッシュもあるから眠れると思うよ、とお巡りさんが入れ知恵をしてくれたのよ」と言う。ロンドンのお巡りさんの親切は以前から聴いたことがあるが、こんな形で接しられたら女の子でなくてもファンになってしまう。

途中さらにドイツ人二人を拾って巡回中のお巡りさんにハイデンパークへの道を聞く。寝袋を持って総勢7名、公園では寝ていけないという法があり、この時間帯に寝床を探していますという格好にも係わらず、ロンドンの長身でちょっと長髪の口髭を生やした、かなりかっこいいお巡りさんはハイデンパークへの道を親切に教えてくれたのであった。

 

翌朝からはウエストミニスター、トラファルガースクエア、ピカデリーと、しばらくは花の都ロンドンの観光だ。ウエストミニスター寺院には今の英国を築き上げた聞き覚えのある多くの歴史上の人が眠っている。そして戴冠式、王室の結婚式など英国の国家的行事に必ず出て来る寺院である。

タワーブリッジ                        トラファルガー広場

そこで見学していると身長190cmもある痩せた変な日本人に話しかけられた。とぼけた奴だが一緒に見学しているうちに気が合って今夜は彼のアパートに泊めてもらう事になった。この男、沢田は名古屋出身、ヨーロッパに来て3ヶ月、今はロンドンにアパートを借りているが、まもなくロンドンを出て、パリ、ローマを廻って日本に帰るという。話が面白く、厭味の無いホラが入る。良く話す男で「ヨーロッパに行くと言ったら誰も信用してくれなくてね。出発の日まで嘘と思われていたから苦労しましたよ」「フランス大使が、、、、、、で、坊ちゃん育ちの僕は、、、、」と来るが、現実はパンと蒸かしたポテトで飢えをしのぐ苦労人であった。190cmの長身はヨーロッパ人の中でも身長ではかなり勝っているが、如何せん体重が60キロ、ほとんど見てくれは枯れ枝である。そしてとぼけた顔にとぼけた話、この世にかくも幸せな男が居たのかとドンキホーテを思わせる男である。彼の所に2泊させて貰ってロンドンを歩き回り、一緒にパリに向かう事になった。

 

沢田とバスでドーバー海峡の港カリーに向かう。ドーバー海峡を渡るフェリーの料金と同じ値段でバスでロンドンからパリまでいけるという沢田の話は今回はホラではなかった。

彼は通しのパリまでの切符を買ったが、僕はユーレールパスを持っているがイギリスではこのパスは使えない、よってドーバー海峡のフランス側の港カリーまでの切符を3.4ポンドで買ってバスに乗ったが、向こうの手違いかドーバーでパリまでの切符を手渡され、これ幸いとそのまま沢田と、パリ行きのバスに乗る。

 

パリに着いたのは夜7時半であった。パリは物価が高いと聞いていたがセルフサービスのレストランで軽い食事をしたら700円ほどしたので、物価を実感して二人で今夜の野宿の場所を探す。僕は決してお金が無いわけではないが節約できる所はしたい。そして今までの経験からも野宿の旅はそれはそれで面白いのである。

なかなか適当な場所がない。沢田はおしゃべりだが英語が苦手で英語のときはいやに大人しい。英語で道を聞くときは僕、日本人に聞く時は沢田が「はい、俺に任せて」と、がぜん張り切って出てくるのである。どうやら私にウエストミニスターで話しかけてきたのも兎に角、日本語が話したかったせいであると今分かった。日本語だと話す話す、、、、、あることない事まくし立てていろんな情報を聞き出してくる。彼にはペテン師の才能もあるのかなと3日も見ていると思うのである。もちろんホラは吹くが悪い意味で人を騙した訳ではないが、そんな才能を感じさせる。

 

野宿の場所を探して暗いルーブル美術館周辺の植え込みのあたりを歩き回るとどうも様子がおかしい。野宿の出来そうな人目を避けられる植え込みとかに行くとかかならず男達がいるのである。改めて周りを見てその異様な雰囲気に僕らは気が付き、あわてた。手を繋いだ男同士のカップルが何組も怪しく歩き回っている。ここはどうも男同士の同性愛者が逢引をする場所のようだ。僕らが探す野宿に適した人目を避けた茂みの中=同性愛者が探す逢引現場、と言う図式が出来て場所が一致してしまう様である。よってあそこが良さそうだと近づくと、必ず先客のカップルがいることとなる。ええええ、、、! と言うことは、それって僕と沢田もホモカップルと思われているってこと?実情が判った時にはヒェーと互いに悲鳴を上げてしまった僕達偽カップルであった。そこで少し場所を変えて、もっと交通量のある通りに近い場所を探しているとやはりリュックを背負ったいかにも同性愛者には見えない旅行者が僕らと同じ思いをして困っている。声をかけてそのドイツ人を仲間に引き入れ、3人で道路の横の植え込みに野宿の場所を確保したのである。

翌朝は車の騒音と排気ガスの臭いで起される事と成る。

35.ルーブルの宝、人類の宝

ルーブル博物館前の道路中央分離帯の植え込みで目覚めたパリの2日目、日本からモスクワまで一緒だった鈴木君のアパートを訪ねる。彼は谷野さんと言う人と一緒にアパートをシェアして芸術の都パリで絵の勉強をしている。沢田も一緒で突然訪ねたにもかかわらず歓迎してくれて、2ヶ月ぶりの再会を祝しフランスワインで乾杯。その夜は遅くまで4人で語り合い楽しいひと時を過ごし、そのまま泊めてもらった。

 

翌日からは待望のパリの街を歩いて回る。ルイ16世とマリーアントワネットがギロチンに架けられたというコンコルド広場からエトワール広場へのシャンゼリゼ通りを行く。パリはロンドン以上に歴史を感じさせるものが多い。中心街ではほとんど建物の一つ一つが歴史であり、何処から見たら良いのか迷ってしまう。夕方ユースに行く沢田を送る。いったん別れるが、鈴木君も明日からオランダへスケッチ旅行に行くと言うので、僕は今夜もう一晩泊めてもらって明日は彼の家を出てユースで沢田に合流する事にしている。今日は僕がワインを買ってエッフェル塔の下を通って鈴木君のアパートへと向かう。

  
エッフェル塔と沢田の背比べ

 

翌日午後ついに宝の山、ルーブル宮殿にあるルーブル美術館に行く。国際学生証でただで入れてくれた。普通は学割で半額の 1.5ルーブルらしいが午後だったせいか、なぜか無料で入れてくれた。午後の入場では全部の展示物を見るのは不可能だからと言う事らしいが、僕は一人だから身軽である、駆け足で回って、観たい物の前で、しばらくの時間を過ごす。

 

人間の造り得た最高の美の象徴と言われる『ミロのビーナス』は日本にも来た事があるが、その時は顔にお化粧をしていたと言う。ビーナスは紀元前120年くらいに造られたとされ、ミロ島で発見されてから150年という歳月を経た現在いくぶん手垢に汚れたような素顔を見せてくれた。その汚れに関係なく気高い姿は何百年後もこの場所で同じポーズを取って人々に愛され続けるべく、時の静寂の中を突き進んでいた。

 

もう一人のルーブル美術館の看板娘は天才レオナルド ダ ビンチの絵画『モナリザの微笑み』である。この絵といくつかの絵以外はその筆の動きが見られる手の届く距離から鑑賞できる。フランスの王族、貴族がその戦利品として、あるいはその財力で世界中から集めた芸術品の数々、規模的にも勿論、この美術館の持つ作品の価値は天文学的なものであろう。昔、国王、皇帝が使った王冠、装飾品に付けられた直径3センチはあろうかというダイヤモンドの数々等、まさに世界一と呼ぶに相応しいこの美術館には普通に歩いて4時間かかるという館内の方々に一つで何億、何十億円という価値の美術品が無数に展示されているのである。もう少し美術の知識を付けて、いつかまた戻って来たいと思った。

  
凱旋門                           エッフェル塔

 

夕方、電車でパリの第四ユースに向かう。沢田が僕の到着を待っているはずである。パリのユースは建物も立派であるが、一泊2食付で21フランであるから、今までの僕の泊まってきたユースと比べ値段も立派である。このはじめてのユースで彼を探すのはパリでエッフェル塔を探すくらい簡単であった。「身長190センチのほら吹きは?」と聞けば昨日着いたばかりの沢田をその辺に居た日本人は全員知っていた。

「大将、待ってたよ!」と僕を迎えてくれた沢田の話は今日も冴えている、しかしホラをホラと分かるように話す所が彼の良い所である。

 

食後サロンで数人の日本人が集まって情報交換をする。いつものユースの有様でこれから行く国、町の情報をもらい、行ってきた国、町の情報をあげるのである。

36.英雄ナポレオン、凡人沢田

楽しく数日を一緒に過ごした沢田と別れる日が来た。沢田は夕方4時のフライトでローマに発つ。そして僕は夜11時出発の夜汽車でスペインに向かう。彼と午前中ノートルダム寺院などを見てアンバリッド教会へ行く。ここはフランスの英雄ナポレオンの眠る記念館のようなところである。ナポレオンはその軍事的偉業と悲劇的最後が広く知られているが、実は彼が作ったいろんな社会制度が現在に多く残され、今も実際にヨーロッパを動かしていると言われる。

 

その時代的背景もあるが、ナポレオンはその決断力、実行力において秀でた逸材であり、ある意味では天才でありその才能が不可能をも可能にするほどの強い自信を彼に与えたのであろう。コルシカの小地主の息子として生まれたナポレオンはパリに出て今のエッフェル塔の隣にある陸軍士官学校に学び、ある戦いで中央突破と言うその頃の戦術に無かった作戦を成功させ、軍事関係者に称賛されたという。一見無謀に思えるこの作戦を考え、その作戦がこの場面で通用するかを判断し、しかもこの作戦に命を掛ける部下に絶大な信頼を得ていなければならなかったであろう。ナポレオンはその条件をすべて満たした司令官であり、皇帝になるまでその作戦はことごとく成功したのであろうと思いたい。

一般人の考える以上に最善の作戦を考える能力に秀でそれが天才の天才たる所以であり、後世に名を残す結果を生んだのだと思う。軍人として皇帝まで上り詰めたナポレオンであるが、時代の流れがそうさせたのであり、彼の決断力、判断力を持ってすれば他の分野でも後世に名を残すほどの才能を持っていた人物であったと思う。

 

アンバッリットでナポレオンは今腹心の将軍達と彼の部下達が使っていた数々の武器、軍服、そして輝かしくNと刺繍された軍旗に囲まれて眠っている。

   
ノートルダム寺院,せむし男は?         セーヌ河、日中で恋人達はあまりいなかった

 

いよいよ沢田との別れの時間が近づいてきた。ローマではよく旅行者が騙されるという。たとえば言葉巧みに店に誘い込まれ一杯何万円という請求を受ける。「写真を撮ってあげましょう」と言われカメラを渡し、振り向くとカメラもその人もいなくなっている。などと言う話である。そのローマに沢田はローマ人を騙してやると乗り込んでゆく。彼ならもし相手が日本語を話せたら騙されるのはローマ人の方だと思う。残念ながらローマ人が日本語が話せたらの話であるが、悪を懲らしめるため正義の味方、沢田のお坊ちゃんはローマへと発つ。

 

彼は日本への航空券は持っているが手持ちの現金はすでに100ドルを切っているはずである。マフィアの本拠地イタリヤで騙されようにも騙されるお金はないが、持ち金わずか、無事に日本に帰りつく事を祈るのである。

名残惜しそうに振り返りながら、パリのエッフェル塔のように上に飛び出た沢田の頭が空港に向かうバスの中へと消えていった。

37.マドリッドの騒音合戦

オーストリッツの駅を昨夜10時55分に出て、今3人の日本人と共にマドリッドのペンションにチェックインしている。

今回ユーレール パスで乗れた一等車は、さすがにソファー付きでゆったりとし、久しぶりの贅沢で申し分なかった。パリを発って、ふかふかのシートで足を伸ばして眠り、朝方スペインに入った。国境の町イルソという所で列車を乗り換えて、午後2時40分、スペインの誇る超特急『タルゴ号』はラテンの国らしくなく、わずか5分遅れと言う正確さでマドリッドに着いたのである。パリのユースから一緒に来た日本人一人とその後列車の中で出会った日本人二人と共に、旅は道連れと一緒に安いペンションを探し回り、マドリッドのど真ん中で一人75ペセタ(約375円)という宿を見つけたのである。スペインは物価が安いとは聞いていたが宿代、食事代は他のヨーロッパ諸国と比べると格段に安いようだ。だが言葉が通じない。ここでは旅行者を相手にしているペンションのフロントでも英語が通じない。僕らの中にスペイン語を話す人がいないので僕が絵を描いての宿泊交渉をする。言葉が通じなくてもなんとかなるのも旅の面白さか?さてこのペンションはこの値段でも僕としてはモスクワのホテル以来のバス タブが付いているホテルであった。久しぶりに湯船にお湯を張ってお風呂に入った後、食事に出る。ここはヨーロッパでもっとも食べ物の安い国であるしかもスペイン料理はかなり美味いらしい。マドリッド第一日目は長い汽車旅の疲れを癒すため、食事は少し贅沢をしようと言う事になり、入った所は約400円でフルコースを食べられるレストランであった。ワインも一杯付いて、2品のデッシュとパン、最後にはデザートが出てこの値段は驚きである。すっかり満足して、チップを払ってレストランを出た所にいた乞食の親子に25円の施しを与え、気分は貴族である。

 

部屋には清潔で良いベッドが置いてある。しかし明け方の寒さはなんだったのか?昼間はすごく暑いくせに、明け方の寒さは予想していない気温であった。しかもスペインの風習か、昨夜は夜遅くまで煩くて良く眠れなかったのである。ここは昼間は物価は安く食事も美味い旅行者天国、夜は気候も人間も違う顔を見せる街であった。マドリッドでは開店しているレストラン、カフェ、飲み屋などを省き、すべての建物の一階の入り口は午後11時を以って鍵を掛けられる。そのくせいやに夜が遅い街で、人々は家に帰ると締められたドアの前でポンポンと手を打つ。すると通りごとに鍵を一杯ぶら下げた制服制帽の門番がいて、彼が来てドアを開けてくれるのである。ドアを開けてもらった人はこの門番に20円ほどのチップをあげて、一件落着と成る訳である。ラテン系の人は夜になると血の騒ぐ人種であるらしく、僕らの宿はその中でも最悪の、東京の新宿も敵わない夜の遅い街のど真ん中に位置しているようである。よって僕らのペンションの前の通りなど一晩中ポンポンと手を打つ音とジャラジャラと鍵を鳴らして門番が歩き回る音とが途絶えることなく続くのであった。ポンポン、ジャラジャラだけでなく、その間に車は真夜中に平気で警笛を鳴らしまくるし、酔っ払いの大声は石造りの通りに響き渡るはで、外は明け方までドンちゃん騒ぎの状態であった。まるでこの街はお互いに眠らせないように、一晩中競い合っているような、それは大変は街だったのである。

 

いくぶん寝不足のまま、ドンキホーテの銅像があるスペイン広場や、ゴヤの絵などで有名なプラド美術館などを観て廻り、明日の闘牛のチケットを買ってペンションに帰ってきた。チェックインからそうであったが、この国はどこに行っても英語が通じないので苦労する。ここに来るまで僕の知っていたスペイン語などセニヨール、セニヨリータに、闘牛の掛け声である「オーレ!」くらいである。セニヨリータはともかくオーレなどは知っていても何の役にも立たないのである。それでもこの頃はだいぶコツを覚え慣れてきて、固有名詞とジェスチャー、そして数字の筆談と絵で、かなりのコミュニケーションを取れる様に成ってきた。いつまでも慣れそうにないのは、昨夜と同様今夜も繰り返される夜間の騒音合戦である。今、午前1時40分、外は興奮した闘牛の観客だってこんなもんだろう、というくらいの最高の大音響を作っているのであった。まだまだ静まる気配はない。


王宮にて                  ドンキホーテの銅像の前で
 

38.悲しき闘牛

蚤の市に行ってきた。パリでのそれより大規模であった。マドリッドでは3人の日本人と一緒に安いペンションを借りて行動しているので、お土産を買うにも4人で計算の弱い店番を取り囲み、がばっと品物を掴み「これ全部でいくらだ」と迫り、そこから少しずつ減らしていくと言う、かなり高度なテクニックを使う。結果的にはなかなか良い買い物をしていると思うのであるが、この駆け引きが今までの国には無かったことで面白い。モロッコや中近東に行った人は向こうはもっとすごいというが、たいてい値切られるのを見越して最初の値段を言ってくるので、正直いって時間の無駄、狸の騙しあいである事は間違いない。しかしこの儀式を経ないと買い物も出来ないのである。

 

昨日チケットを買っておいた闘牛に行く。闘牛場の石階段の席に座ると、円形のグラウンドの地面が赤くみえる。このマドリッドのトロスは無数の牛と、時には闘牛士の血をしみ込ませて赤く変色した土で出来ていた。

日陰の席と日向の席では値段も大きく違い、さらに席が前か後ろかで値段が変ってくる。僕らの席は前から5段目くらいであるが、日向の席であった。値段は昨日買ったので、65ぺセタ(約325円)であったが当日券だと、さらに高くなっているそうである。席に着くとやはり日差しが暑い。闘牛は午後5時半から始まり、7時半までに6頭の牛が殺される。華やかな衣装に身を包んだ闘牛士の行進で始まり、いよいよ1週間暗闇の中で暮らさせ気の荒くなった牛の登場となる。グラウンドは高い塀に囲まれているが、その塀の中側にさらに二重になる3メートルくらいの幅の避難所のような塀がある。その間から脇役の闘牛士助手がピンクの布カボテを振ると、牛は砂煙を上げて突っ込んでいく。あわやと言う所で彼は塀の影に隠れる。段々と客席が盛り上がってきた所で、メインの闘牛士が登場して有名な、あのシーンの展開となる。闘牛士が振る赤い布切れムレタをめがけて牛が突っ込む、闘牛士はその角をすれすれに避けるほど巧いとされる。

その後、馬に乗った槍方が牛を槍で刺し傷めつける。初めて闘牛を見る僕にとってこの場面が一番解せない所である。闘牛士と牛との一対一の戦いではなかったのである。馬に乗った男達が10cmくらいの深さで止まるように止めが入った槍で牛を突く。闘牛士が有利に戦えるように牛を弱らせるのである。それでもこの牛は、のどかにモウモウと鳴いている牛とは訳が違う。5cmもの厚さの板を角の一撃で突き破る、、気の荒い殺人牛である。男達の乗ったプロテクターに守られた馬を押し倒す。ある意味、闘牛の一番の功労者はこの槍方達が乗った馬かもしれない、まさに体を張って牛の攻撃を受けるのである。そしていよいよ闘牛士が右手に剣を持って牛に向かう。背中から剣を刺し心臓近くの動脈と静脈を一気に切るとどめの剣を刺すのだが、なかなか一本の一刺しでは命中しない。普通の闘牛士はこの剣をとどめを刺すために3本くらい使うが、最後に登場した一番人気のある闘牛士だけが1本の剣を一発で深々と急所に刺し、牛の動きをピタリと止める。そして闘牛士は素手の右手を牛の頭上にかざし、じりじりと牛に近づく。やがて大きな牛は崩れるように地面に倒れたのである。静まっていた会場から割れんばかりの拍手と歓声が沸く。
  

ここに入った牛はおそらく絶対に生きて帰れない。今までに数例その戦いぶりに感動したフランコ大統領からの電話で命を助けられた牛がいたそうである。牛は後半になるほどすごいのが出てくるが、闘牛士も後になるほど場数を踏んだ腕の良い闘牛士が出てくる。

 

牛にとっては初めてで最後の戦いであるが、相手は場数を踏んだ闘牛士だけではない、牛は槍方に痛めつけられ、だんだんと勝敗は見えてくるがまさに命の限り戦って倒れるだけである。傷口から血を噴出しながら何度も赤い布をめがけて突っ込んでいく姿は痛々しくも感動的ですらある。力尽きてぼんやりと立った牛はさらに闘牛士に挑発を受け、最後の力を振り絞って赤い布に突っ込んで行く。そしてそれがこの世で見る最後の光景となり、やがて観客の拍手の中を馬に引かれて退場するのである。

この華やかな舞台の裏では殺されるために生まれ、育てられた牛。その後牛は直ぐに解体され、良い肉の部分はマーケットに廻されるが、残りの内蔵や硬い肉を求めて闘牛場の裏に群がる貧民達がいる。この国は考えさせられる事も多い国である。スペインはフランコ大統領にすべての権力が集まる独裁政権である。街には秘密警察や、独特のヘルメットをかぶった殺しのライセンスを持った親衛隊がいる。たとえ旅人でも、この国では政治的な発言は控えるようにと聞いている。ヨーロッパで一番革命が必要な国であり、一番革命の起きにくい国家体制を敷いている国スペイン。陽気な国民性の裏側には、闘牛の牛のように、自分の意志ではどうにもならない現実がある。牛と違うのは、ひたすら服従していれば人生をまっとう出来る事であろうか。こうして政治的には無気力な国民をつくっていくのであろう。

  

39.折り返し点、東へ

荷物が重くなってきたので日本へ4キロほど送る。リュックで何時も背負って歩かなければならない荷物なので、4キロでかくも変るものかと思われるほど軽くなった。マドリッドは物価が安いので長期滞在の旅行者が多い、その中には、これからポルトガルに行く、アフリカに渡るという人もいた。一番多いのはこれから北アフリカのモロッコに行く、あるいは行って来たという人達であった。モロッコはスペインからジブラルタル海峡を挟んで、20キロくらいのものである。行ってきた人の感想は埃っぽくなにもなく、貧しい人が多く、バクシーシーの世界だという事であった。バクシーシーとは、物をねだる時のアラビア語である。エジプト以外、僕はあまりアフリカに惹かれるものは無い、しかしこれからアフリカのコンゴに行って、コンゴ川上流からゴムボートで川下りをするという人の冒険話には、惹かれるものがあった。

 

マドリッドの西にはポルトガルがあり、さらに西にはヨーロッパ人として始めてコロンブスが渡ったアメリカ合衆国がある。その南には南アメリカがあり、その先にはオセアニア州がある。これがこの地球のほとんど全てであり、いま僕は自分が決めれば世界中どこにでも足を伸ばせる状態である。そして地球の大きさを実感出来る場所にいる。

今までにいろんな人から、中近東経由で陸路日本に向かう話を聞いていた。ローマで日本行きの直通航空券を買う金額で、一月半かけて陸路でインドまで行って、日本に帰れるという。マドリッドで過ごした数日で、僕はすでに中近東経由で日本に向かう事を決めていた。そしてここがこの旅の最西端であり、折り返し点であると思い始めていた。今まで西へ西へと来たが、いよいよ進路を東にとり、日本へ向かう旅が始まる。

 

その夜マドリッドを発ってスイスに向かった。マドリッドを発った列車の中では、スペイン人の夫婦と一緒のコンパートメントで、言葉は通じないが例によって一通りの意志伝達はでき、列車の食堂でフルコースの夕食をご馳走していただいた。バルセロナでの乗り換えの間に、同じ列車に乗る日本人たちが自然に集まり、男3人女4人の「日本人団体様、7名ご案内」の状態でアビニヨンまで一緒に楽しい列車の旅となった。南フランスの地中海沿いの風景は美しかった。真っ青な海に白い小さな家々が集まった漁村。海水を上げた塩田、そして白い塩、青空の下にシュールな風景が続く。アビニョンでイタリアに向かう女性群と別れ、僕を入れて男3人はジュネーブに向かう。

アビニヨンからは風景がだんだんとヨーロッパアルプス風になってくる。ずっと列車に乗ったままで、バルセロナからはほとんど何も食べることが出来ないでいる。ジュネーブに着いたのはかなり遅い時間で、やっと駅前で見つけたレストランは小さいながらスイスらしい古い歴史を感じさせる店構え。すでに閉店の準備をしていたが、頼むと入れてくれた。スイスの物価を知っている僕らは読めないメニューから、ともかくお腹がペコペコなので安くて量のあるスパゲティーを持って来てと頼む。ウェイトレスはすでに帰ったようで、やがてお店の料理長が自ら、僕らが頼んだ覚えもないほどの多量のスパゲティーを、大ざるに山盛りにして、サイドにミートソースを添えてテーブルに運んできてくれた。遅い時間に着いた、3人のお腹を空かせた日本人のために、おそらくはかなり多めに採算を度外視して、スパゲティーを茹でてくれたのであろう。それぞれが2−3杯のスパゲティーをお腹一杯食べて、シェフに厚くお礼を言ってお店を出たのであった。

今一緒に行動しているのは柴田さんと山内君。柴田さんは元々自衛隊にいて、今は学生と言う変った経歴をもった人である。山内君は学生で前川清に似ている。

明日からは3人でマッターホルンの麓、ツェルマットに行って夏スキーを楽しむことにする。

 

 

レマン湖の噴水                ツェルマットにて、この街には車がない

40.童話の世界、アルプス

ツェルマットは有名なマッターホルンの麓にある美しい町である。夕方ツエルマットに着いたが、街の上方にマッターホルンが見えるはずであるが、雲が掛かっていて見えない。ユースに行くと、ここのスキー場はクレパスのため、つい数日前に閉鎖されてしまったという。スキー場はここから1時間ほど山岳列車で登った所であるが、スキーが出来ないのでは高い料金を払う価値が無いように思えた。汽車でここから3時間ほど行ったインターラーケンから入ったところなら、スキーが出来るというので、アルプス観光がてら、そちらに移動することにする。一万円ほどの出費になるが、物価の高いスイスでは思いで作りには必要な出費であろう。ツェルマットを出る5分前くらいに、朝から隠れていたマッターホルンが姿を現してくれた。雲の切れ間の青空をバックに、まさにヨーロッパの富士山といいたい存在感ある美しい山である。柴田さん、山内君に加え、ここで榊原さんが仲間に加わる。榊原さんは本職は高校の先生で、その他、雑誌のルポライター、漫画家の弟さんの手伝いで、少年サンディーに漫画を描いていると言う多才な人である。

馬車の街          榊原さん柴田さんと      ついに姿を現したマッター
                              ホルン

夕方グリンデルワールドのユースに着いたが、満員ですぐ近くのペンションに廻された。丸太つくりのスイスらしい宿で、夕食に間に合わなかったのでユースを追われた二人を入れて、ペンションの台所を借り夕食を自炊する事になった。日本人が6人もいれば器用な人がいるもので、マーケットに買い物に行く班、料理にかかる班と自炊の用意を手際よく進め、すごい料理が出来てしまった。次々に出来上がってテーブルに運ばれる料理に、周りの宿泊客も驚いていた。スープ、シチュウ、野菜炒め、サラダ、それにビールをつけて一人400円ほどであった。その他、梅干とか、インスタントみそ汁とか、海苔とか各自取って置きの、日本の味がリュックの中から出てくるのであった。

前日からの雨が上がらない。スキー場はここから登山列車にのって、さらに上に行かなければならない。新聞の天気図を見て検討の結果、今日は天候は良くないが、明日は晴れるだろうと、一日天候待ちをすることになった。グリンデルワールドは緑の世界という地名である。その名の通り、美しい緑の牧草地の中に作られた村である。村は大きな谷にあり、谷底の部分に駅がある。宿には20分ほど牧草地の中の曲がりくねった小道を登っていかなければならない。もし晴れたら村の周りを高いアルプスが取り囲んでいるはずであるが、今は霧が懸かっていて山の山麓しか見えない。気持ちよい小雨の中を歩いてみる。雨に濡れた草花が美しい。霧で他の世界から切り離されたこの谷だけの世界が広がる。名も知らぬ小さな花が路傍に咲いている。谷の一番底を小さな川が流れている。氷河に削られた岩石の粉のためか、川はいくぶん白くくすんだ水を運んでいる。白い霧と緑の牧草地の間に綺麗な造りの家々がある。そのうちの一軒の庭に変った物を見つけた。20センチほどに伸びた草花の間に、白雪姫と7人の小人達がいた。瀬戸物で造られた彼女達は、すごくその場所にマッチしていた。ここは彼らの世界であり、僕がそこに居る方が場所違いと思えるほど、不思議な世界がそこにはあった。

  

41.アルプスで滑る

翌朝、僕らの予測通り雨が上がっていた。僕らの願いが届いたのか、さっそく窓を開けると目の前に壮大なアルプスの山が村を見下ろすようにそびえていた。その一番近い所で、垂直に村に覆いかぶさる巨大な屏風の様な一枚岩が,有名なアイガー北壁である。スキーをするのはその山頂である。昨日は山頂は雪であったという。今日は雨でも雪でも決行と意気込んでいただけに,青空は嬉しいアルプスの山々からの贈り物である。

8時55分発の登山列車に乗って標高3454メートルのユングラフヨッホを目指す。列車は森の中を登り、アイガー北壁の真下に出る。日本人がこの北壁を初登頂したのは1967年であったと言う。この岩場は下から見ると1700メートルの絶壁である。この途中の駅、アイガーの岩肌の直ぐ側、クレインシェイデックからは双眼鏡で岩場に挑む登山家が見られると言う。やがて登山列車はトンネルとなりアイガーの岩山の中に入ってゆく。途中で会った日本の団体さんから日本のタバコ、「チェリー」を一本戴いた。久しぶりに吸った日本で吸いなれていたタバコは最高にうまかった。

アイガーの中腹 北壁のど真ん中、岩山の中に彫り抜かれた駅があった。そこからの景観は圧巻であった。小さな窓から覗くとガラス一枚隔て絶壁の岩肌が見られる、そこからは北壁を登る登山家と同じ風景が見られるのであった。



登山列車の終着点に着き、岩の中に彫り抜かれた駅からトンネルを抜け外に出ると、眩しく太陽に照らされた白い雪渓が広がっていた。昨日まで雪が降っていたと言う山は、今日は快晴でどんな絵葉書もかなわない美しい風景を見せている。

夏の新雪を踏みしめてゲレンデの小屋でスキーを借りる。9フランでスキーに必要なすべてを貸してくれ、一基しか動いていないがリフト代も込みである。ここで滑っているのは観光客だけであろう、コースも初心者コースのみであるが、新潟の生まれと言う事で仲間に注目を浴びていた僕は、面目を施す事が出来た。ずいぶん無理をして来たスキーであったが、スイスで滑る事は憧れであったので、半日のスキーでスイスでの大きな思い出を作ることが出来たのは、来てよかったと改めて思った。いつか冬の季節に来て見たいものである。


今夜中にチューリッヒに行く予定であったが、ついスキーが長引き、チューリヒまで行って真夜中に宿探しをするのは厳しい状況と判断し、今夜はインターラーケンのユースに泊まる事になった。

朝ユースを出て、昨夜薄明かりのなかを歩いた道を駅に向かう。この駅までの朝日の中の徒歩による移動は、すがすがしい朝の空気と風景がとてつもなく贅沢なものであった。昨夜暗い中を歩きながら感じたとおり、ここはすばらしく美しい所だった。綺麗な森に囲まれて、湖に馬が入って水浴びをしている。風光明媚という言葉はこの風景のためにある言葉かと思った。絵画のような風景であった。もう少しゆっくりしたい場所であるが予定通り先へと進むことにする。

ここの駅で、この5日間ほど一緒に過ごした仲間と別れて、また一人旅がはじまる。

 

42.ホームシック?

チューリッヒの駅に2時ごろ着いて、駅で日記を書いているとスイスの青年が話しかけて来た。彼は今、駅のすぐ向かいにある博物館に行ってきた所で、「とても興味深かいから、行ってみたら良いよ」と言う。急ぐ旅でもない、僕は出来る限りこういう話には乗るようにしている。早速行ってみると入場無料で、そこはスイスの歴史博物館のようなところであった。平和なこの国にも戦いの歴史があったことを知る。ウイリアムテルを思わせる時代から、何度も領土の取り合い、侵略があった。戦いの歴史があったからこそ、この国は同じ過ちを繰り返さないために、永世中立国という世界にも例のない政策を決定し、宣言出来たのだと思う。

 

博物館を出て街を歩いてみる。ここはスイスでは都会であるが、東京との違いは都会の中に樹木があるのではなく、まさにここでは森の中に家があるのである。この違いは狭い国土と言う言い訳だけでは説明できない。人間らしい生活空間を計画立てて作る政治力があるかなしかの問題であり、日本でも可能な事である。いや、今からでは大変であろうから、可能なことであったと過去形にしなければならないところが、悲しいわが国の現実であろうか。せめて、これからの街造りは、もっと自然を大切に身近に取り入れていくべきかと思う。街づくりイコール自然を壊して整地から始まる日本のやり方はおかしいと、この街を見ると思う。スイスは聞いていた通り、国中が国立公園であり、町造りも自然が最優先されていると思う。
しかし、日本の雑然とした街並みと人ごみが懐かしいと思っている自分に、旅に出て初めて気づく。

 

チューリッヒ湖畔に行くと遊覧船が出る所であった。ユーレールパスで国営の船なら乗れることを思い出し、乗車券売り場で確認してみるとユーレールパスで乗れるという。急いで出発寸前の船に飛び乗る。行き先は気の向くままであるが、湖であるからまたここに戻ってくるはずである。それから1時間半、美しいチューリヒを湖上からみると、ここは都会でありありながら、美しい森でもあった。船の中でスイス人のおばさんと知り合い、折り鶴をあげたらすごく喜ばれた。一人旅だと言ったらすごく驚かれた。寝袋で寝ると言ったらすごく心配させた。そして別れ際に500円ほど強引に握らされてしまった。僕がたまに野宿をするのはお金が無いためではなく、そこに違う旅の発見があるからであり、最初から宿を探す手間を省くためだったりする。しかしそのスイスフランはおばさんの温かい心を感じて、ありがたく受け取る事にした。今夜は最初の予定通りに野宿になったが、風来旅行も2ヵ月半となれば、星を見ながらの野宿も楽しいものである。ロンドンで日本製のエアマットを買ってからは背中の痛みも無く、外でもゆったりと寝られるようになった。しかしその夜、暗闇のなかで芝生の上の大きな赤いナメクジを踏みつけたときは驚いた。

 

朝、住宅の傍らの芝生の上で起きると、近くの工事現場のおじさんが挨拶をしてくる。目を覚まして郵便局に行く、チューリッヒの中央郵便局止めで日本から久しぶりに手紙が来ていた。だいぶご心配の様子、さっそく速達で手紙を出す。心配を掛けまいと思って、北欧での盗難事件等の事態をぼかして書いた手紙が、かえって心配の種になっているよう。事態が落ち着いた段階で安心してもらえる手紙を書いておくのであったと反省し、我が家を懐かしく思う。かといって俗に言うホームシックでもない、目に浮かぶのは僕のいない家族で囲んだと言う、お盆の食卓の料理である。しかし、そこに居たかったと思う事はやはりホームシックというのだろう。いずれにせよ日本で心配してくれている人々がいると言う事は、この上なく有り難く、心が温かくなる。

 

43.ミュンヘンからウイーンへ

昼近く発つ列車でミュンヘンへ向かう。オーストリアでもっとも美しい風景というインスブルックで乗り換えのため3時間あったので辺りを散策する。8時半にミュンヘンについてイタリア人の学生二人とユースに行くと予想通り満員で泊まれず、代わりにキャンプを教えてくれた。反対方向への電車に乗ってしまったりしながら、3人で何とかキャンプに着く。一泊1マルク、大きなテントが野原にひとつ、そしてトイレ、水道、事務所があるだけの簡単なものであるが、夏の間ヨーロッパの都会には、このような臨時の宿泊施設がつくられ、大勢の旅行者が利用している。僕もすでにコペンハーゲンなどで何泊か利用させてもらった。

ミュンヘンは都会であるがこれと言ってみるところもない街である。オールドシティーを歩いてみるが東京と変わりない。オリンピック公園が数少ない観光地のようであるが、あまり興味が湧かない。興味の沸くものがあった。ビールといえば、やはり札幌、ミュンヘン、ミルウオーキーである。結局ドイツ最後の夜はヒトラーがナチス党の旗揚げをしたというドイツでもっとも古く有名なビヤホールのホフルラウハウスに行くことに。ここのビヤホールは大きなビヤ樽から陶器のジョッキにビールを注いで出してくれる。そしてホールの周りには屋台のようにお店が並び、フランクフルトや焼き肉屋、タバコ屋、などビールを飲むのに必要なものはすべてホール内のこれらのお店で買えるようになっている。値段も普通の店で買うのと同じくらいの安さ。僕もビヤガーデンでアルバイトの経験があるが、ドイツではビールは庶民のたのしみ、ビールも2.4マルクと安い。ウエートレスが一人で5つくらいのテーブルを担当していて、空になったジョッキを倒しておくと、お変わりのビールを運んできてくれる。ハンブルクの例があるので早々に引き上げ、11時26分の夜行列車でウィーンに向かう。

夜行列車が止まると不気味なほどの静寂に包まれ、遠くの物音が聞こえてくる。たまに動く乗客の足音にほっとして、やがてまた静寂の世界に戻る。その静けさに慣れた頃、機関車はまた力強い音を立てて動きはじめる。

見知らぬ街へ、見知らぬ友を求めて、今日も夜の列車に飛び乗る。やっと見慣れた街を離れ、親しくなった友と別れ、列車は闇の中を走り続ける。夜が明けた時、列車は見知らぬ街に着く。そこで僕はまた見知らぬ新しい世界に飛び込む。どんな街が、どんな出会いが僕を待っているのだろう。それがたまらなく面白く、不思議な旅の世界にいざなう。旅人は今日も当てのない異国の地を行く。

 

44.ウイーンの宿探し

ウイーンに着いたのは朝6時を回った頃であった。駅のベンチで朝食を取りながら両替所の開くのを待つ。昨夜は列車の中で寒くてよく眠れなかったので、公園のベンチで一眠り。疲れを取るには所かまわず寝る事にしている。これが旅の体力を保つ方法である。日本で生活している以上に、寝る事の体力回復効果を旅は実感させてくれる。

 

午後から街を少し歩いて、例のごとく宿の心配にかかる。聞く所によると、ウイーンはユースが多い割りに、どこも混んでいてなかなか泊まれないという。早めに行けば何とかなるかと甘い考えで、街中の一番良い場所にあるユースに行ってみると、何人かがすでに待っている。しばらく待って4時半のチェックインとなったが、結局チェックイン出来たのは3人だけで、残りの人たちは追い出された。僕より遅く来た二人のスウェーデン人と共に、この街で一番大きいユースに向かう。市電を乗り継いで、ユースに向かって歩き出すと、もう少しで着くというところで、反対方向から来た車に乗ったドイツ人に「ユースはすでに満員だよ」と教えられた。かくなる上は、またしても最後の手段、野宿である。

ということで、3人で近くの公園に入り、腰を据えること約15分、管理人が来て、手振り身振りで「この公園は7時に閉めるので泊まってはいけない。夜間は大きな犬を放すので噛み付かれるだろう」といった意味のことを言われ、そこまで言われたら退散するしかない。その公園の直ぐ外の小さな森の中、ここなら良いだろうと思った頃、雷が鳴り雲行きが怪しくなってきた。「これは雨が来るよ。街に出て屋根のあるところを探そうよ!」 急いでまた街に戻る。歩いていると中年の人に呼び止められ、「ユースはそちじゃないよ」 有難いことだが、我々はそのユースを追い出されてきたのである。説明しているうちに雨が降り出した。とりあえず、その人に建物の中に入れてもらうと、そこは教会であった。「床でもいいから、ここに停めてもらえたらいいね」などと言っているうちに、彼がスチューデントホテルを電話で探してくれた。しかたなく雨の中にまた3人で飛び出す。教えて貰ったとおりに市電ナンバー41番に乗り、駅の数を3人で数えながら10番目の駅で降りて、道路に出て左方向に向かって6軒目、少し小降りになった雨のなかで見つけたスチューデントホテルは、またしても満員であった。今夜はゆくゆく宿のツキが無いようである。

しかしそこで再び教えてもらったもう一軒のスチューデントホテルで、やっとチェックインする事が出来た。疲れ果てて3人部屋をもらい荷物を降ろす。彼らも朝から食事をしていないと言う。レストランに行って食事をしてシャワーをあびようとしたらお湯が出ない。お腹だけは何とか満足させて、宿探しに翻弄されたウイーンの第一日目は終わった。

 

トミーとマツという日本にもありそうな名前のスウェーデン人の二人組とは昨夜の奮闘以来すっかり仲良くなり、今日も一日市内観光を共にすることになった。彼ら同士は勿論スウェーデン語を話すがその後、必ず僕に説明してくれる「このプランをどう思うか?」とか「他に行きたい所は無いか?」と実に紳士的に僕に聞いてくれる。スウェーデンで出会ったトウシャン達同様、好感の持てる青年達である。

丸一日歩き廻り、かってヨーロッパ全域にかけて全盛を誇ったハックスブルク家の別荘や博物館など、市内の名所は一日でほとんど見てしまった。夜は映画「第3の男」の舞台となったフォルクスプラタという遊園地に行く。映画に出た大観覧車に乗って夜景を見る。ここは広大な土地に、いろんなゲームや催し物がある。音楽を聴きながら夕食を摂り、楽しい時間を過ごし、気がつけば夜の11時15分、終電近くの市電に乗り、ホテルの門限である12時の1分前にホテルに駆け込み、危うくセーフ。昨夜やっと見つけた宿である、そんなに厳格でないとは思うが、ここで門限で締め出されたのでは、笑うに笑えない笑い話になるところであった。


マツと                        これが別荘だって、庭が凄い


45.コレラのイタリアへ

彼ら二人を駅まで送り、市民公園に行くと偶然インターラーケンで会ったことのあった鈴木君と出会い、彼をそそのかして一緒にベニス経由、ローマへ行くことになった。また成り行きで旅の原点『旅は道連れ』である。と言うか、元々パリに行こうとしていた彼を僕とイタリアに行くように心変えさせた幾分強引な『道連れ』である。イタリアでは最近コレラが流行っていて、多くの日本人旅行者がイタリアを避けて予定を変更しているそうであるが、鈴木君はそのイタリアへの予定変更である。彼もヨーロッパを廻った後、インド経由で帰国を考えているそうで、二人とも「コレラが怖くてインドに行けるか!」の乗りで、いざイタリアへと向かう。

翌朝、列車のなかで目覚めると、もうイタリアに入っているようである。終着駅ベニスには10時11分に着くはずである。ところが9時30分ごろ列車が停まり、周りの乗客が皆ぞろぞろと降り始めた。「まだベニスにつく時間ではないが?」と訝りながら聞いてみるとここがベニスだと言う。降りると確かにローマ字でベネチェアと書いてある。ふと、駅の時計を見ると11時になろうとしている。周りの人に確認すると、これがイタリアの夏時間という奴であった。早く着いたと思った列車は、実際には30分も遅れていたのである。夏の間イタリアではすべての時計を1時間進める、これが時刻表と、夏時間を知らない僕の時計が合わなかった真相であった。駅ではレールの上に白い消毒液を撒いた跡がある。これをみて、コレラの流行っている所に来てしまったのだと、いう緊張感に包まれる。駅で荷物を預け、改めて鈴木君と生水を飲まない事を互いに言い聞かせ街に出ると、早速に水道の蛇口から直接旨そうに水を飲むイタリア人を発見。一般の人はコレラと言うものをほとんど心配していないようだ。

やはりここはケセラセラ(なるようになるさ)のラテン系の国民性であった。

 

マルコ広場からゴンドラに乗る。駅の直ぐ前がもう運河であり、ゴンドラの乗り場である。ここはまったく車のない街である。水の都ベニス、しかしこの都の水は濁っており、しかもすごく臭う。これではコレラ菌のたまり場に見えてきて、いくぶん幻滅してしまう。ともあれイタリアに来たらイタリア料理である。これが安くてうまい。レストランに入って現地の人のように何でも食べた。4皿ほど食べて満足したら気分はもうイタリア人、思うにコレラなどこの国では珍しい事ではないようで、「健康な人はそんなに簡単にコレラに罹るものではない、コレラに罹るのは抵抗力のない、すでに健康を害している人」という話も聞く。コレラのために食べ物や飲み物の制限をする、などいうことはイタリア人には受け入れられないようである。もう少し流行ったら考えようと言った調子である。僕ら旅人も、生ものを食べなければ普通に生活していて良いようである。

この街の名物ベネチェアグラスのお店を覘く。美しく光り輝く赤い一輪差しをお土産に買った。2千円くらいで永遠に輝き続ける一品は、安い買い物であろう。

 

夕方、駅に向かって歩き始める。駅で手に入れた地図を頼りに、まったく知らない道を進むが、ここではメインの交通手段が運河であるから、時たまその道路は運河に阻まれ行き止まりになる。おそらく観光客が来るとは思えない細い道が、運河と建物の間を縫うように走っている。やがて日が暮れて月が出る。まもなく満月である。ゴンドラを器用に操りながら船頭が頭をかがめて橋の下を行く。ベニスの主役はこの運河であった。昼間見た汚さは何処へやら。今は月を反射して美しく輝く水面はゴンドラの上から聞こえるアコーディオンの音色と共に、水の都ベニスの雰囲気を最高に盛り上げている。橋の上から「チャオ!」と挨拶すれば「チャオ!」と陽気な声が返ってくる。ゴンドラの上で奏でるアコーディオンの音が一つ遠ざかると、追いかけるように次のゴンドラからアコーディオンが、あるいはギターが、歌声が近づいてくる。街角に飾られたベネチェアグラスの輝きと水面に輝く月光は、まさに水の都に相応しい夜であった、いやここは『夜の水の都』であった。



ゴンドラ乗り場にて

46.哀愁のローマ

いよいよ世界第一の観光地ローマに入る。終着駅「テルミニ駅」に着いた。ローマは街自体が遺跡でありすべてが名所である。このテルミニ駅だけが近代的な建物であったが、街中はいたるところに中世、古代ローマの遺跡が見られる。一泊900リラ(450円)、6階建て、エレベーターなし、という一見トレーニング施設のようなペンションを見つけ2晩続きの夜行列車で疲れた体を横たえる。そういえばベネチェアグラスが加わり荷物が重くなってきた。中近東に入る前にもう一度、旅に必要ない荷物を日本に送ってしまわなければならない。

少し休んでから市内を歩いてみる。ローマほど僕にとって観光し易い街はないだろう。歩いていると次々に名所が現れる。スペイン広場、トレビの泉、等々おなじみの場所が目の前にあるが、映画で見たものを想像して本物を見るとがっかりする。映画は小さな物、狭い所を大きく見せ、汚いものまで美しく見せる。若き日のオードリー ヘップバーンとグレゴリー ペックによる名作「ローマの休日」に出て来て二人が腰掛けてアイスクリームを食べたスペイン階段は思っていたより遥かに小さく狭かったのである。

 

ローマの発祥の地であり、昔この街すべての中心であったフォロロマーノの遺跡群。当時の町並みが残っておりその石畳の道路と建物はシャッターアングルとしては最高。ローマ滞在中2度、足を運んだ。

    
スペイン広場、              トレビの泉、               パルチノン

天才ミケランジェロをして、『これは人間のなせる業ではない、天使が造った物に違いない』と言わしめたという、パルチノンの建築物、そしてバチカン。社交場であり憩いの場であったカラカラ浴場。人と人、人とライオンとが殺しあったコロッセオで海外ガイドブック、ローマ編を読んでいると、一人の日本人が声をかけてきた。「それ、あんまり役に立たないでしょう?」「いいえ、ガイドブックとしては、いろんな方面にわたり書いてあり、見落とし無く興味のある場所を観光でき、なかなか良いですよ」と答えると、「そうですか、それ、実は私が書いたんですよ。役に立って良かった」。いろんな人がいるもので、本当のこととは言い、ガイドブックを誉めておいて良かった。その人からガイドブックに載っていない、いろんな話を伺い、教えてもらったアイスクリーム屋さんでアイスクリームを買って食べながら帰った。

 

ほとんどの名所に歩いていけるのでローマでの日々はよく歩いた。3日目の夕方、ウィーンから一緒だった鈴木君がパリに向かうので彼のローマでの最後の一日ということで3日目は特に歩き回った。バチカンなどを見て鈴木君を駅に送り、疲れ果ててペンションに帰ると代わりの日本人がチェックインしていて、彼とまた街に出た。夜のローマもすばらしく、街角のカフェテリアでカンツオーネを聞く。一度行っているフォロオマーノとコロッセオをまた観光して廻った。ローマの遺跡は今、猫の捨て場と化し、何を食べているのか知らないが、どこに行っても遺跡では野良猫を見た。それも数匹ではない、かなり沢山の猫が群れている様は、日本の三味線屋が見たら喜びそうな光景を呈している。ローマ滅びて、猫栄えるである。


    
フォロロマーノ,                                    バチカンの前の広場にて 


翌日は日本に荷物を送るため忙しく奔走する。例によって、ゴミ箱で手ごろな大きさの段ボール箱を見つけ事から始まり、荷造り用の紐と包装用紙をみつけ、郵便局へ持っていって出す。これでほぼ一日仕事である。午後遅く荷物を出し終えて、カラカラ浴場の方へ歩いていくと、時折りしも満月、美しい月が黒い遺跡の上に浮かぶ。昔、ここはトレーニング施設でもあったという。ここで汗を流して体力をつけ鋭気を養ったのであろう。僕のローマ最後の夜はカラカラ浴場の裏手の土手で満月を見ながら、しばし古代のローマ人に思いを馳せたり、日本を思ったり哀愁のひと時を過ごした。

 

今日、ローマでは学生達のデモがあったため、帰り道はかなり混雑していた。昼間荷物を送るとき、腹の立つほど要領の悪い係員もいたが、イタリア人は

一般的には人が良く、無邪気な所があるという。時には自分のものと他人のものとが区別のつかない無邪気なイタリア人も多いので気をつけるように、とガイドブックにはある。

デモに参加している学生と歩きながら話すと、若者らしい率直な意見で聞いていて気持ちが良い。何処の国でも30年後には国を動かす中心にいるであろう人たちの、20代の姿と意見であるが、頼もしさと、社会をこれから良い方向に向けていこうという若い力を感じた。

 

ローマの車による道路の混雑具合は東京以上である。しかしその割には渋滞がない、渋滞は無いが混乱がある。その理由は常識を逸した運転マナーにある。ローマには信号が少ない。そしてドライバーは誰もが道路で誰よりも先に出るようにタイムトライヤルをしているような走りである。止まる時は常に急ブレーキ、発進はアクセル全開、カーブではタイヤの鳴る音が絶えない。歩行者が信号の少ない道路を横断するのは命がけである。東京で鍛えているはずの僕でもなかなか渡れない。ローマ子は猛スピードで走ってくる車の前に自らの身を投げ出して、車に急ブレーキを掛けさせ、その間に渡るのである。これはまさに命がけだ、しかしこれをしないといつまでも渡れない。日本のように道路の横で待っていれば車が止まって渡らせてくれる、と思ったらここでの道路の横断は一日掛かりであろう。歩行者より車優先、他人の車より自分の車優先、これがローマにおける交通道徳である。そしてこの暗黙の規則がローマの車の流れを早くして沈滞を防いでいるとも言える。

ローマではコレラより怖かったのがこの交通事情であった。しかしコレラを恐れてか、ヨーロッパでローマに一番多いと聞いていた日本の団体さんに、バチカンで一組しか会わなかったのは不思議であった。

 

47. エーゲ海の赤い真珠

ローマを夜行列車で後にしてギリシャへのフェリーが出ているブリテッシュという港へ向かう。昨日、一緒になったカナダ人の女性二人とブリテシュを1時間も乗り過ごしてしまった事に気がついて引き返し、往復で3時間ほどの遠回りをしてしまった。公園で寝たり、書き物をしたりしてフェリーの出発時間を待つ。田舎の町とは言い、話しかけてきたイタリア人に「イギリス人か?」と聞かれたのには驚いた。英語を話せばイギリス人と思う人がここにはいる。しかし、イギリスにはすでにいろんな人種が住んでいて、田舎者と思った彼の方が国際人の考え方なのかもしれない。ヨーロッパでは勿論日本人か?と言われたのが一番多いが、マレーシア人かといわれたのが4回、アメリカ人2回、そして今日はイギリス人であった。しかし国籍は人種ではない事をヨーロッパの人達は早くから承知しているともいえる。最初は笑い飛ばしていたがこの原因はもっと深いところにあると後で思うのであった。

 

夜中の10時半に予定を1時間ほど遅れてフェリーはイタリアを離れた。

一夜明けると船はアドリア海をギリシャへと向かって走っていた。島に近づくと海の色がエメラルドグリーンに変化する。白い船に白いカモメが並走する。白い岩肌を見せる島々、いつしかコバルトブルーに変ってきた海、甘い海の匂い。快晴の地中海を今、船はアテネへと向かっている。

 

やがて真っ赤な大きな太陽が船を照らし、太陽が海に沈むと船はアテネに近かいパトラスという港に錨を降ろした。バスに乗り換えて薄暗くなった道をアテネへと急ぐ。荒れ果てた土地であるが、かってこの地は地中海そしてヨーロッパ文明の中心であった偉大なギリシャ文明を育んだ土地である。マラトンの勇士はこの海を見ながらこの荒れた風景のなかをひたすらアテネへと走ったのであろう。スパルタの戦士もまたこの地で汗を流し、血を流しギリシャの歴史を築いた。どんな勇士にも運命は動かせない。運命に翻弄され、挫折して、それでも努力を厭わず挑戦しつづけ歴史の片隅に埋もれて行った幾人もの人間の生活がこの地にもあったことであろう。偉大なる文明をもつギリシャの歴史は意外にも、ちょっと嗄れた閑散としたこの風景から始まったのである。



 

アテネにも日本の旅行者は少ないようである。しかしローマと比べて車は少ないし、コレラの心配もない。街の中には方々に丘があり、この街の風景を引き締めている。その中で一番有名なのは勿論パルチノン神殿のあるアクロポリスの丘であるが、まだここからはそれらしき丘はみえない。

この街でチェックインしたユースには日本人がいなかった。ここからはいよいよアジアへの入り口イスタンブールへ向かう。同行者を求めて日本人に会いたい時に日本人がいない。ともかく、しばらくはこの街で中近東へ向かう日本人の旅人を探してみようと思う。

 

ここのユースにはチェックアウトの時間が決められていないのか、昼過ぎまでぐっすり寝ていても追い出されることはなかった。昼過ぎにアクロポリスに向かう。かなり高い丘にあるはずなのだが、街全体が無数の丘から成っているため、なかなかアクロポリスが見えてこない。目の前にパルテノン神殿を抱いたアクロポリスの丘が突然現われた時は感動してしまった。この神殿には太陽が似合う。この丘で夕日を見るのが夢であった。夕日が沈む時間まで静かに時の経つのを待つ。そしてそれは期待を裏切らない眺めであった。夕日を背景に、神に捧げられたというパルテノン神殿は美しいシルエットを作って赤く輝いていた。やがてエーゲ海へ沈む真っ赤な太陽が神殿に最後の光りを送り、辺りは薄暗くなっていく。

永遠なれ、エーゲ海の赤い真珠よ!という気持ちである。

 

アクロポリスのパルテノン神殿

48.求む!中近東へ同行者

このところカレンダーを見ることがなく、曜日の感覚が薄くなっている。昨日はずいぶん早くお店が閉まるものだと思い、今日はやけに長い昼休みだなと思って聞けば今日は日曜日だそうだ。

久しぶりに街で出会った日本人と話すと、「今トルコで病気が流行っていて、旅行者の入国が止められていて、イスタンブールには入れない様だ」という情報をくれた。コレラではなさそうだが明日、日本大使館にいってこの噂を確かめなければならない。場合によっては大幅に予定の変更を強いられる事になるかもしれない。とりあえず旅は道ずれ、彼らと再びアクロポリスへ登る。そして何をしたかといえば3人でひたすら日の沈む時間を3時間待ったのであった。こんな贅沢な時間の使い方を出来る旅行者はいないであろう。これは放浪の旅人だけが出来る特権である。そうしている間にも日航マークのはいったジャルパックの鞄を提げた一行が走るように辺りを一巡して写真を撮って30分ほどで丘を下りて行く。石に座ってその様子をみていた僕らは誰からと無く笑い出していた。「なに、あれ?」ジャルッパックと言えば僕にとってもモスクワで僕らより待遇が良いと妬んだ団体であった。しかし今見るジャルパックとは、高いお金をはらって短期間カメラで物を見て帰っていく、日本的なおのぼりさんの旅行者と哀れみを持ってみてしまう。

今日も夕陽の美しさは腹を減らして待った甲斐のある風景であった。暗くなった坂道を下り、丘の下にあるレストランで夕食を取って帰路につく。

 

日本大使館に行くと長旅風の若者が6人ほど集まっていた。早速情報の交換をする。実際にその地を通って来た旅人からの情報は大使館のそれより確かで、こと細かい。またこれから行こうとしている旅人の情報力も日本大使館よりも凄く、すでにトルコ大使館に行って情報を取ってきた人もいた。どうやらトルコで流行っていたのは動物の炭疽病で、イスタンブールへの入国許可は今日辺りから発行され出したようである。しかしトルコから他の国へ出る時、他国が受け入れてくれるかどうかの確認が取れていない。トルコに入っても出られないのでは自ら牢獄に入るようなものでいやである。トルコに入るのはその確認が取れるまで、もう少し待った方が良いだろうというのが大方の意見であった。事態は良くなりつつあるようである。

 

大使館で会った旅人の中で、同い年の慶応ボーイ、梅谷という男と話すうち互いに気が合い、インドまで一緒に行くことになった。ロンドンでの留学を終え陸路中近東経由での帰国の旅であり、僕とだいたいスケジュルも一緒である。彼はこれからコレラの予防注射を受けなければならないし、イランの大使館にトルコからの旅行者を受け入れるかどうかの確認をしなければならない。そのためまだ3日間ほどここを離れられないという。そこで僕は3日ほどエーゲ海の旅に出て、時間調整をする事にした。その間に梅谷が情報を集めておくと言う。彼はすでに中近東の情報をかなり持っていて、頼りになる良い相棒が見つかった。僕がいない間に彼も僕が今泊まるユースNo.3に移ってくるというので、このユースで3日後に会うことにして、僕はエーゲ海に浮かぶミコノス島に向かうことになった。

 

49.ミコノス島へ

朝7時起きして船に乗り、地中海を行く。このところアテネは雲ひとつない快晴が続いてるが、約6時間の船旅も快適な旅になりそうである。アメリカ人の女性ジャクリーンと会い、船旅の時間を潰す。彼女は航空会社に勤めているため、凄く安くヨーロッパに来れ、しかも4ヶ月もまとめて休暇が取れるのだと言うから羨ましい限りである。3目並べの後、ジャンケンと網田を教えてやると、アメリカにはコイン投げくらいしかないらしく興味を持たれた。エーゲ海に浮かぶ島は今 僕の向かうミコノス島の他にクレタ島、ミロのビーナスが発見されたミロ島など、いずれもここから遠くない。

 

3時半ごろミコノス島に着いた。沖合いから見る島は茶色の土地に真っ白い家が連なり、青い空に白い家が映える。小船に乗り換えて上陸した港のマーケットで2日分の食料を買う事にする。小さな港町であるが結構お店がある。古びたパン屋で大きなパンを二つ買い、バスに乗って島の反対側に行く。島の周りは海底まで見える静かな美しい海である。この島の裏側のビーチには30人ほどのヒッピーが住み付いている。砂浜には観光客を相手にした食堂が数件軒立っていて、時計のない生活をするヒッピーはいろんな工夫をしている。彼らが住むのは拾い集めた石で作った家である。中には屋根まである立派な物もある。そんな中の一つ、砂浜を見下ろす場所にある屋根のない空き家に、荷物を降ろして浜に出る。古代から建設、彫刻に使われて来た地中海の大理石が砕けて出来た、目の粗い白い砂が浜辺を覆っている。

 

日が落ちた頃、浜のレストランの子供、アメリカ人の二人とでカンテラの明かりで蟹採りをする。星の綺麗な夜でミコノス島の海は波音もしない静けさである。今夜の我が家に戻り寝袋に入って目を開ければ満天の星が瞬いていた。それは時空をこえ、星空の中を駆け回っているような気分にさせられる美しい夜であった。

朝日で眼が覚め、丸一日、甲羅干しと貝拾いで過ごす。この島には時計が見合わない。夜が明けたら起きて、日が暮れたら寝る、こんな暮らしも良いものである。人の居ない海に入ってみると、透明の澄んだ海で海底の岩まではっきりと見える。

今夜は山の方で野焼きをしている。暑さに強いサボテンが炎の餌食になっているようである。一日中裸足で歩いていたら、慣れない文明人の僕の足の裏は薄くなった感じである。


 

透明に澄んだ海                      ミコノスの砂浜
 

3日目,昨夜の風で浜辺にクラゲが流されてきた。昨日まで一匹もいなかったこの浜に、クラゲがかなり浮いている。朝は皆でクラゲ狩りをすることになった。それぞれが空き缶や、木の枝で水面に浮かぶクラゲを採って砂浜に掘った穴に埋める作業を一時間も続けると、どうやら泳げるようになった。

エーゲ海の美しさは言葉に例えられない。これが東京湾に続いている海とは思えないのである。海は空の恋人という、エーゲ海にはこの空が、東京湾にはスモッグの空がお似合いなのかもしれない。かくするうちに、この島とも別れる時が来た。

 

20分ほど歩いてバス停に行くと、ここが始発で止まっているバスに乗り込むが、バスがなかなか出発しない。ここからは時計が頼りで、現実はアテネに戻る船の出港時間午後4時までに港でチケットを買わなければ成らないのである。時間を気にする僕を尻目に、バスの運ちゃんは時計を持っていないのか?悠々とタバコを噴かしながら時々ホーンを鳴らして乗客を集めている。3時30分、、、、3時40分、バスはまだ出発しない。いらいらしている僕の気を知ってか知らずか、乗車してから30分も待たされ、3時45分やっとバスは、重い腰をあげた老人のように動き出したのである。

 

50.アポロを追う

やっと動き出したバスは港に向かうが、どう考えても4時の出航には間に合いそうもない。来た時には途中で何処でも停まって乗客を拾い、あるいは運転手が知り合いの通行人に話しかけるために止まったりした。そんなバスの運行を思い僕はもうすでに船に乗るのはあきらめていた。それでもバスは来た時よりスムースに進み、4時5分前に港に着いた。

 

僕の乗るはずの船“アポロ“が桟橋から300メートルくらい離れてまだ停泊しているのが見える。ここの港は桟橋が小さく、浅瀬なので、大きな船は沖に泊まり、小さな艀がピストン輸送をして港との間で人と荷物を運ぶ。すでにその艀もすべて引き上げ、沖合いのアポロは今にも出そうである。やるだけやってみようと港まで走り「アポロ!アポロ!」と船の名前を叫ぶ。同じようにこのバスのおかげでアポロに乗りそこねた人は僕だけではなく、他にも5人ほど「アポロ!」と叫ぶ観光客がいた。船のチケット売り場で交渉すると、一人100円ほどで乗り遅れた人達を乗せ、アポロまで一台の艀が出てくれる事になった。

 

急いで乗り込むと小船は全速力で沖合いの船を目指す。アポロに近づいた時、すでにタラップを上げて船はゆっくりと動き出したところであった。小船の船長がアポロの前方に追いついて何か叫ぶ。アポロの速度は段々と増していく。しばらく大船と小船は並走していたが小船の船長の声がアポロの船長に届いたのか、急にアポロが速度を落として来た。止まる気配はないが、減速したまま一度揚げられていたタラップが降ろされて来る。どうやら走り続ける船から船に恐怖の飛び乗りを強いられているようである。静かな海とはいい、船が起こす波で小船はかなり上下に動いている。荷物を先に向こう側の人に渡し、波の動きにあわせてアポロ側のタラップに飛び移るとアポロの船員が僕の腕をしっかりと掴んでくれた。

 

ほっとしたら、お腹が空いて来た。しかし島で両替できなかった僕はギリシャの通貨をほとんど持っていない。しかもそれで今夜のユース代も払わなければならないのである。今日お腹に入れた物といえば朝食べたパンだけである。それも今朝はパンに蟻がついていて、蟻を払いながら食べられる部分だけを食べたのであった。港で時間があれば両替も出来たのであるが、今はアテネのユースに戻るまで空腹を我慢しなければならない状況である。船の中では子供達に折り紙を折ったり、ギリシャの学生と話したりしていた。

僕らの横にいる4人の現地のおばさんの中に一人僕らが話しているのを笑って聞いている人がいた。ここの3等の乗客のなかに英語の分かる人がいるとは思えなかったが、学生達が行ってから、彼女が話しかけてきた。上手い英語を話す。聞けばオーストラリアにいたことがあるという。彼女達が「卵を食べる?」と聞いてきた。お腹の空いていた時でもあり、喜んでいただく。そういえば最近は「…….はどう?」と勧められて、遠慮する事がなくなっている。頂くる物は頂いている自分に気づくが、これも旅の縁であり、出会いである。ゆで卵を食べているとパンと大きなチーズを傍らに付けてくれた。そしてコンビーフ、梨、りんごと気が付けばすっかり夕食をご馳走になっていた。ギリシャの人々の親切には限りがない、お腹一杯になるまで僕の皿が空に成ることは無かった。旅の出会いは筋書きがない。僕は彼女らに何もしてあげられない、一方的に善意を受けるばかりの立場である。手を拭くハンカチまで出してくれて、先ほど会ったばかりの人たちに暖かい親切を沢山もらったのである。船を降り、お世話になった彼女達にお礼を言い、仲良くなった子供達に別れを告げてアテネのユースに向かったのは夜中の11時半であった。

51.大陸の旅人たち

翌朝、梅谷と再会する。彼は僕のいない間に約束通りこのユースに移って僕を待っていた。イランは3日前からトルコからの旅行者を受け入れているという。我々が中近東へと駒を進める状況はすべて揃った。

アテネからいスタンブールへのスチューデントフライトのチケットを買い、ドイツマルクを使いやすいアメリカンドルの現金に換えた。梅谷の情報に依れば、ここから先は現金社会である。ドルの現金を闇ルートで両替すれば、正規の換算率より10%くらい高い率で両替できる。中近東ではほとんどのお店でドルの現金が使えるので、使いやすい1ドル札になるべく沢山両替して、出発の用意はできた。彼の情報帳にはその他、各地の宿、食堂、ビザの取り方などなど様々な情報が書き記されている。

 

明日午前11時15分にフライトはトルコへと飛び立つ。今夜を最後に僕はヨーロッパを離れ、いよいよアジアに入ることとなる。そしてイスタンブールからインドのカルカッタまで、長い陸路の旅が始まるのである。

 

梅谷が僕のいない間に面白い話を聞いていた。先日までいたイギリス人の学生が、なにやら話しているのを聞いていると「200CCがいくら、400CCでいくら」と話している。彼らはケンブリッジ大学の学生でわずかな所持金で国を出て、マドリッド等を廻り、予定通り一銭もなくなった。そして今は各国で売血をしながら旅を続けているというのだ。ギリシャでは400CCで3千円であるが、これから向かうイタリアでは400CCで一万円だそうだ。よってこれから先、貧血を起こす前に国に帰りつける計算なのだという。

旅をするためにヨーロッパの旅人はなんでもする。路上で音楽の演奏をやったりして小銭を稼ぐいわゆる大道芸人や、物を作ったり絵を描いたりして売るアート系の商売をする者はいたが、血を売りながら旅をする話は初めて聞いた。それも将来エリートコースを行く事を約束されているイギリスの有名大学の学生である。彼らの旅にかける気持ちは、今の僕には良くわかる。若い時でなければ出来ない経験であり、そこまでしてやった旅は、将来エリートコースに戻った時の人生の糧になると思うのである。

 

ある程度文明の発達した現代において、ヒッピー的な旅をする若者は多い。汚い格好で国から国へとさすらう、それでいて本当の貧乏人であるはずがなく、そのほとんどが裕福な国からの旅人である。日本、ドイツ、北欧、イギリス、スイス、アメリカからの若者がほとんどで、これまで僕の見たアジアからのバックパッカーはその90%以上が日本人であり、現地に住む華僑以外ではアジア人の他国の若者の旅人には、ほんの数えるほどしか出会っていない。

そんな彼らのほとんどは学生か学生崩れであり、「国に帰れば、ゆくゆくは社長業を継がなければならないんだよね」などという旅人もいた。ドイツで400人の暴走族のリーダーをしていたと言う男もいた。『俺が指一本動かすと、思い通りに400台の単車が動いた』という男は、それなりに魅力的な人間であった。皆、服装はお金をかけず履きっ放しのシーパンで、一見汚らしいファッションで通している。それはお金をかけて飛行機で移動してホテルに泊まる旅行とは別種の旅行であり、これが今のヨーロッパの若い旅行者が憧れる旅行スタイルなのである。ドイツで生まれたユースホステル制度を始め、そんな旅人を受け入れる土壌が、陸続きで異文化の育ったヨーロッパ全体に、古くから出来ているようである。

今、僕のしている旅も、自分に牽かれた人生のレールから少し外れてみることで、自分を磨き、見聞をひろげ、自分と違う生き方や価値観があることを知り、また自分の人生に軌道を修正するという事かもしれない。旅は短時間で多くの人と出会い、いろんな出来事と遭遇し経験をさせてくれる。そこで自分で考え、状況を判断、問題を解決し、前へ進まなければ成らない。それは若者を磨く人生の縮図であると思われる。ここから先の中近東の旅は、治安、衛生はさらに悪く、いろんな面で不便で苦労の多いものとなろうが、それもまた旅であり、楽しめたら良いと思う。この先に、どんな旅が待つのであろうか。いよいよ旅はアジアへと進む。

 

後編 『日本へ・東進の旅』

 

52.イスタンブールの商人 

イスタンブールへの格安スチューデントフライは、17ドル60セントでバスに翼が生えたような小さなトルコ航空のCD9機であった。昨年、直ぐ近くのテルアビブの空港で日本赤軍が乱射事件を起こしたため、飛行機の中では日本人は皆の視線を感じ、ちょっと肩身が狭い思いである。なのに、梅谷が面白がって、座席からかわざと急に立ち上がって、操縦席のすぐ後ろにあるトイレに行く。立ち上がるたびに、ポケットに手を突っ込んで思わせぶりな仕草で周りの人達の反応を見て楽しんでいるから悪い奴である。

やがてイスタンブールに着き、空港に降りたつと、ここはもうアジアへの入り口である。今までの都市とは違う雰囲気が漂っている。入国審査を終えてゲートを出るとトルコ人が出口を塞ぐように大勢群がって好奇心一杯でこちらを見ている。トルコ人の国民性は意外とお人好しと聞いていたが、その彫深い浅黒い顔が全員でこちらを見ると言うより、僕らをにらみ付けているようで、ちょっと恐ろしい光景である。髭を生やした顔は、皆映画で悪役が務まりそうな顔に見えてしまうのである。バスで市内に向かい梅谷の持つ情報にしたがいブルーモスクの向かいにあるホテルゴンゴルに荷物を降ろす。ここはイスタンブールの日本人の溜まり場になっていて15人ほどの僕らと同じような旅行者がいた。イスタンブールからイランのテヘランへ向かう直通列車は毎週一便水曜日に出る。それまでにイランのビザを取ったりしなければならない。その同じ列車を待つ何人かの日本人の旅行者がホテルに滞在しており、赤沼さんなど新しい仲間が加わってきた。


ブルーモスクの前にて 梅谷、僕、赤沼さん
 

イスタンブールは地理的にはボスボラス海峡を挟みヨーロッパとアジアに跨る都市である。かってはコンスタンチノーブルとよばれ東ローマ帝国、オスマン帝国の首都であった。ここからの物価はヨーロッパの三分の一となり、インドに下るに従いさらに物価は安くなる。しかし彼らはツーリストプライスなる2重価格制度を持っており、旅行者には地元の人よりかなり高めの値段を吹っ掛てくる。ここではメロンが安くて美味い。同じ大きさのメロンを一個買うにも最初の店が6リラ、次の店が4.5リラ、結局3リラで買い、翌日1.5リラで買えたりするので、どの値段を信じたら良いのか分からなくなる。時間だけはある僕らは、レストランに入るにも何軒か歩き回り値段をチェックして、少しでも吹っ掛けない所に入る「ペプシはいくらだ?」「2リラ」「高い、前の店は1.25リラだった」それでも値段を下げないと「じゃーいらない」と店を出ようとし、珍しく張ってあった値段表を見つけてみれば1.25リラと書いてある。それを言うといくぶん顔をしかめながら。「コーラは1.25リラだがペプシは2リラだ」などと、敵もなかなかしぶとい。僕らは吹っ掛けられたと分かった時は、相手が値段を下げない限りその店では買わないことにしている。あるいは彼らに思い知らせるため、一度買ったものでも返す。

 

僕らのホテルの近くに日本人の間でヨロズ屋と呼ばれているレストランがある。その名の通りレストランでありながらいろんな物を買わせようとする。ここのマスターはパズルリングの工場を持っているそうで。毎回僕らに買わせようとする。そのレストランにハッサンなるあくどいウエーターがいて、ある時、食べる前に言った値段と食べた後の請求してきた金額が違っていた。わずか1.5リラ、約25円ほどの違いであるが僕らは許さない。個々の値段を合計してみせて、ハッサンが何か言いたげなのを制してレジのおっさんに文句を言う「我々は毎日ここを利用してきたが、このような値段を取るなら今後2度とこの店には来ない、さらに今後この街を訪れる日本人達にも、この店を使わないよう申し送りをする」と脅しをかける。すると急に態度が変り、僕らの出した額を受け取とり、丁重に謝って来たので許してあげることにした。その後この店では僕らはツーリストプライスを吹っ掛けられることは無くなった。もっともそれが本当に地元の人と同じ値段なのかどうかは分からないのである。恐ろしや、アジアの商人。

 

53.バザールを冷やかすと

食事に行く途中のお店やバザールを冷やかすのは僕らの時間つぶしであり、そのやり取りが面白い。ホテルの近くにナッツ屋がある。ドングリ、ピーナツ、かぼちゃの種などを10歳くらいの子供が店番をして売っている。僕らは食後にこの店の前を通るたびに冷やかしに寄る。銀行で両替した小銭の使い方に困っていた。直径が7mmくらいの小さなコインがあり、あまりにも価値が低く使う場面がないのでいつまでもポッケに残っている。日本で言えば円の下の単位“銭”にあたる硬貨だと思う。そのコイン一個で豆をちゃんと量って売ってくれと難題をふっかける。彼は「こんな小さなコインは見た事ないので駄目だ」という。「そんな商売は無いだろう。商売と言う物は、お客様は神様、、、、。」と説教である。そんな客をもてあます売り子。結局最後には幾らかのピーナツを買ってあげるのだが、食後の時間つぶしに使われる彼も可愛そうであるが、やがて僕らが通ると向こうから声をかけて来るようになった。

 

このところハッサンの態度がかなり良くなった。一日に2回も通っていると時にはチャイ(お茶)をサービスで出してくれる。あくどいと思っていたハッサンも、親しくなればお人好のトルコ人である。レストランであるが、ちょっとしたみやげ物の工芸品などを売っているので別名ヨロズ屋とよべれているが、ここに行く回数が多いのでついつい目が行ってしまう。ここではパズルリングという、3つのリングを一つに組み立てた、知恵の輪のような指輪が人気である。お土産に何個か買ってあげた。

少し歩いた所にあるバザールは5000店舗位はあるというが、迷路のような道路が這い、奥まで入ったら出方が分からなくなりそうで怖い。入り口部分だけ入ってみたが、奥に進めば確実に迷子になる。ここで羊のバックスキンのジャケットを見つけた。この国は羊が多いが高度ななめしを施すために、生皮を一度ドイツに送って、またトルコに戻して加工され、ヨーロッパ等に売られるので品質もデザインもかなり良いと言う。この国で買うなら、皮のジャケットを、という情報は早くから得ていた。最初に値段を聞くと何処の店も80ドルから100ドルくらいの値段を言う。情報ではそんなに高いはずがないのであるが、まずは高い値段から交渉を始めるのが彼らの商売のやり方である。初日で55ドルまでは簡単に下がった。翌日で40ドル、大概このくらいの線で購入と言うことになるのが一般的であるが、僕にはまだこの街を出るまで時間がある。ここからが厳しい戦いである。結局通い詰めて$37ドルでかなり品質の良いバックスキンで作られたジャケットを手に入れたのである。

 

この国の人はこちらが分かるはずも無いのに、ぺらぺらと自国の言葉で話しかけてくる。ハッサンにしろ、バザールの売り手にしろ、値段の交渉くらいの英語しか話さない。僕らの間でもどうせ英語を話さない人を相手にするのなら、日本語とジェスチャーで何処まで通じるかを試すのが流行りだした。「おっさん、セントラルバンク何処?」「これいくら?」「これ頂戴」これくらいは良い。「1.25リラのタバコ4個ちょうだい」これはかなり高度だがジェスチャーを交えて5リラだして指を4本立てれば通じる。バザールや食堂で「高いよ、高いよ!」と自分で言っている売り子が大勢いる。先人の日本人旅行者が教育してくれた成果である。我々は「うん、それは高い」と頷くしかない。

 



54.オリエンタル特急出発する

こんなことをして過ごしているうちに水曜日のオリエンタルエックスプレスの出発の日が来た。テヘランまで3泊4日の長い列車の旅である。僕と梅谷は同じホテルで東に向かう日本人の旅仲間を集める。数日分の食料を買って計5人の日本人で列車に乗り込むことになった。メンバーは僕と梅原の他に、僕らと同じの旅行者赤沼さん、世界を旅しながら写真を撮っている写真家の宝田さん、保田さんはロンドンから帰国するかってIBMに勤めていたというコンピューター技師である。出発前ホテルのロビーに集まっているとヨーロッパ人の一団から僕らの出発を祝い、酒のビンが回ってきた。ウオッカの一種か、強い酒である。一本のビンをロビーにいる皆で回し飲みをして旅の安全を祝う。

 

駅に向かうと、もう一人後ろから付いてくる人がいる。同じホテルにいて、その容姿から僕らが「おとっつぁん」と呼んでいた服部さん。彼はアメリカ経由でヨーロッパを廻り日本に向かう。最初に見た時は自分で切った虎刈り髪にヨーロッパのユースで靴を盗まれ、代わりに残っているのを履いてきたという左右違うサンダルを履き、服装はよれよれの背広であった。戦後直後の闇米の買出しに使ったかと思われる、最近はトンと見ないカーキ色のおにぎり型のリュックサックを背負い、その格好で僕らの後に付いて来る。

梅谷が僕に聞く「小堺、彼誘った?」「え!、梅谷が誘ったんじゃないの?」ファッション的にはどう見ても我々と合わないが「まあ、旅は道づれというし、良いんじゃないですか」、ということで仲間に入れてあげることにする。

これで6人となり、いよいよ東へ、日本へと向かう旅が始まった。

 

列車の長旅は退屈である。やることがない、席決めや、食料を分けるのもわざと大きさを変えて分け、僕の提案でアミダを作って時間つぶしのゲームにして楽しむ。

外を見れば何時も変らぬ砂漠が続く。文化的なものはこの鉄道だけで、時には昔さながら鉄道の横をラクダの商隊が行く。歌に詠われた月の砂漠の現実がここにはまだあるようである。線路の周辺には数100年前から変化していないと思われる村々がある。人々の服装もゆったりとした民族衣装でテントのような遊牧民の家から出てきた小さな女の子や、ぼろ布のような粗末な服を着た子供達がこちらに手を振る。昔から同じ生活を続ける人たち、場所違いなのはこの列車の方であるらしい。

 

テヘラン行きの列車は10両編成ほどの中の4車両だけであり、他は連結されたり切り離されたりを繰り返しながら、僕らの乗った列車は東へと進んでいる。ヴァン湖をフェリーで渡り、横になれるスペースを探して荷物棚や床に寝たりしながらの3晩を過ごす。思った通りこの列車はかなり遅れているようである。この分ではテヘランまで一日遅れで45日かかりそうである。イスタンブールを出て5日目の朝テヘランに着くことになる。夜は夜で「パスポルテ!」と車掌が回ってきて僕らの睡眠の邪魔をする。列車は牛の引くごとくのろい。この速度では無銭乗車の人が飛び乗れるから、その取り締まりも兼ねての夜の検札かもしれないが、僕らには迷惑なことである。時たま列車が止まると物売りが食料などを売りに来る。日本では駅弁などが買えるのだが、ここでは買える物も食べられる物も限られる。果物、パン、パンにはさむ現地の料理などが主である。物売りの彼らが僕らのコンパートメントにくると「アカダシ、アカダシ!(友達)」で負けさせる。時には「バクシーシー(お金頂戴)」まで出てくる。何しろこれが僕らの知るトルコ語のすべてである。かくして1.50を1に3を2.50に負けさせるのである。田舎の人の方が国際親善を理解し、イスタンブールの商人のようなあくどさはなく、素朴さを感じさせられる人達である。

 

55.日本人部隊バザールで迷子になる

イランに入ると列車の速度も早くなり、旅も快適になってきた。水の出なかったトイレも水が流れるようになり、車掌も紳士的である。たまに氷水のサービスもある。外には農地も多くなり、石油の収入も有るのであろう、国家としてトルコよりかなり裕福であることは見た目でわかる。イランにはいって列車はかなり遅れを取り戻し、87時間を列車の中で過ごした僕らはやっと930日の朝テヘランに着いた。

 

外人旅行者の溜まり場であるアミールカビールホテルに行ったが満室で泊まれない。その近くの安宿を紹介してもらいやっと荷物を降ろすことが出来た。宿が決まったら次にする事は久しぶりの美味い食事であるが、街に出てもなかなか開いているレストランがない。たまにあっても食べ物をオーダーできない。英語話す人を捕まえて聞けば26日より回教徒の安息日ラマダンに入り1ヶ月間、日の出から日暮れまで、太陽が出ている間は食事をしてはいけないのだという。

なんという事だ、長い列車の旅を終え、やっとまともな食事が出来ると思ったのに、朝4時から夜6時までが食事の出来ない時間だという。僕らは回教徒ではないのに、どうしてくれるんだよ。それでも昔ほど厳格でなく、たまにサンドイッチくらいを売る店がある。しかし、おおっぴらにレストランなど人に見える所で食べる事はいけないこととされているらしい。やっとサンドイッチを手に入れた僕らはこの決して良いとは思えない習慣を正すべく、大通りをサンドイッチを食べながら歩いた。すると、やはり我々に注意する人が現れた。早々に食事を済ませてバザールに向かう。

テヘランはかなりの都会である。近代的なビルもあり、中近東では有数の大都会であろう。ここには国王がいる。そして貴族階級がいる。街中で裕福な服装をし、それぞれ高級外車で学校に送られて降りてくる子供達がいた。おそらく日本で言えば、かっての学習院とか、この国の上流階級の子弟が通う小学校のようである。

 

バザールに入って迷子になった。バザールはいったん中に入ると同じようなお店が途切れなく並び、それは目標物となる物のない大規模な迷路である。大体の方向をつけて歩き続けると昔からの町並みがあり、何処からか出てきた子供達が僕らの後を付いてくる。こんな通りに異国人の旅行者が5人も現れたら、彼らにとって驚きに違いない。

子供達は可愛い、特に女の子は皆サリーを着てベールを被っているがペルシャ美人の卵達である。貧しい階層には特に根強く残るというサリーを着てベールで顔を隠す習慣は、日本の庄内地方に伝わる「はんこたんな」にも似ている。「はんこたんな」は農作業で日差しから顔を守るため、手ぬぐいで目の部分以外を覆うものであるが、俗説は好色な殿様から身を守るため顔を隠した、といわれている。ベールも本来はそのような意味があったのであろうと想像する。何といってもペルシャ美人の産地である、ベールなしでは王様が目を奪われるのも大いに理解出来るのである。女の子は目が合うと急いでベールをさらに深くかぶり顔を隠すのである。そのくせ男の子達はカメラを向けると、ごっそりと集まって来てそれぞれがポーズを取って、俺を写してくれとアピールするから滑稽である。

 

中近東に入って以来、これと言って美味しい食事が取れない。そんな食料事情のなか、唯一何処のマーケットでも売っているスイカのように大きいメロンが安くて美味い。僕らはメロンを毎日のように買い、わざといくらか大きさを変えて切り、アミダで決めた順に自分の好きなものを取る、というのを半ば毎日のゲームのようにしていた。アミダをしようと言う提案者は僕であり、ヨーロッパにいる時から使っていた。アミダは僕らの間でこのメロンの配分だけでなく、いろんな場面で使われる。宿のベッドも時には何人かは床の上に寝なければならない時もある、また乗り物の席でも良い席と悪い席が与えられることがある。そんな時、もっとも民主的に物事を決められるのがアミダであった。僕が大体アミダを作る役割をしていたが、僕は何時もおとっつぁんがアミダの右端を選ぶ癖を見逃さなかった。今日はメロンの配分で思いきり小さい一切れを作り、一番右の線を横線を入れることなく真っ直ぐに「はずれ」に落とした。これを知っているのはアミダ製作者の僕だけであるが、おとつぁんに最初にアミダを選んでもらうと私の思惑通り一番右を選んでくれた。結果をみたおとっつぁんが抗議するが、不正は一切ない。選んだのは彼である。僕のささやかな旅の話題作りであった。

56.梅谷、髪の長さに泣く

テヘランのアフガニスタン大使館で、次に行く国アフガニスタンのビザを取らなければならない。つい最近アフガニスタンではクーデターがあり王政が倒れ、軍が政治的力をつけた。そのためピッピー的旅行者に否定的でビザを取るのに長髪は不可と聞いている。恐る恐る大使館に行くと、入り口で噂通りの髪の長さの検査があった。僕はかろうじてセーフ、僕らの中では梅谷だけが髪の長さで引っかかり大使館への入館を拒否された。梅谷は紹介された近くの床屋に行って出直しである。やがて帰ってきた梅谷、やけにさっぱりとした超短髪になっているが、なにやらご不満の様である。聞けば床屋のおやじ、まったく英語を解さず、梅谷が手で5cmくらいの長さを示して「これくらい全体からカットしてくれ」と頼んだ所、ばっさりと来た。あれよ、あれよと思う間に全体の長さを5cmに刈り揃えられてしまったとの事。話すは涙、聞けば笑いの話しであるが、「5cmだけカットしてくれ」がコミュニケーションが取れずに「5cmにカットしてくれと」なったよう。「これではロンドン帰りが泣いちゃうよ」と徴兵にあったような髪型に嘆く事頻り、そして僕らは笑うこと頻り。

 

無事に全員ビザが取れ夕方バスでメシェッドへ向かう。真っ暗な道路は完全に舗装されていて走行は快適である。しかしここで安全をある程度保障されているのは、このヨーロッパ・アジア ハイウエー上だけで、この幹線道路から外れるといまだに山賊が出ると聞いている。

バスは4時間くらいの間隔でドライブインと思しき粗末な食堂に食事と休憩のために停まるが、これらの場所は大概井戸があり、昔からのオアシスであったのであろう。そこを離れるとまた同じ砂漠地帯が続く。

昔は日に5回イスラム教徒のお祈りの時間にはバスも停まってイスラム教徒はバスを降りてメッカに向かい正式なお祈りをしたと聞いていたが、現在は休憩時間とお祈りの時間が合った時は正式なお祈りをするが、その他は祈りのために停まることはない。その代わり、お祈りの時間が来ると一人がリードして、おそらくはコーランの祈りの言葉と思われる一節を声高に謳うと、それに合わせて全員が「ウォー」と声をあげる。それが略式のお祈りになるようである。メシェッドまでのバスには日本人7人とカナダの女の子が2人乗っていた。彼らのお祈りが終わると彼らに対抗して梅谷がなにやら彼らの祈りの言葉に似た声をあげる。それに合わせて我々外人部隊も「ウォー」これは結構受けていた。梅谷には外国語を真似る才能が有り、中国語らしきめちゃくちゃ言葉や、アラビア語の様に聞こえるめちゃくちゃ言葉を即興で口から出任せで話せるのである。

 

メシェッドに着いたのは午後早い時間であったが、バザールに行って食事の出来るところを探すが、ラマダンのため夕方6時までは何処も食べさせてくれない。トルコ石の店などを冷やかしながらレストランを探すが「食べさせる所を知っている」という奴についていくとお店の客引きだった。そんな事もあり、7キロくらい歩き回った挙句、結局ホテルの近くで5時半ごろ今日唯一の食事をすることになった。この処皆、幾分下痢気味である。おそらく食べ物のせいであろうが、赤沼さんが一番重病で折角食べられるレストランに入っても、ほとんど食事の出来ない下痢が2日ほど続いている。衛生観念の意識の薄い国では食べ物に気をつけなければならないのは分かっているが、生水を飲まない事くらいしか具体的には思いつかない。ここでは出されたものを食べるしかないのである。それをミスるとラマダンのため、次は何処で何を食べられるか分からない。今日の食事は恵まれた方で、カバブという薄く焼いたパンにミートボールのような物を挟んだメニューであったが、赤沼さんはまだほとんど食事が摂れないでいる。

57.イランへ優先入国する

朝のバスでアフガニスタのヘラートへ向かう。今日は総勢10人の外人部隊である。イランとアフガニスタンの国境には約15キロに渡るどちらの国の勢力も受けない緩衝地帯がある。ゆえに国境と言ってもイラン側国境とアフガン側国境は15キロも離れている。我々の乗ったバスはイラン側の国境止まりであった。イランの国境で出国手続きをするが長い列が出来ていて延々と進まない。しかしここでもジャパニーズのブランドは絶大であった。我々が長い列に並んでいると我々を見つけた国境の役人がいった。「カモン、オール ジャパニーズ!」他の国の人たちを追い越して、長い列をカットし、ほとんど質問もなし、最優先で出国手続きのスタンプを押してくれた。中近東の街を歩いて 「ジャパン」「ジャパン」と国名で声を掛けてもらえるのは日本人だけである。中東の石油産出国では日本は石油を買ってくれるお得意さんであり、近代化を進めるアジアの国のエースである。そのためか外交上日本は今の所、もっとも友好的で大切な国に挙げられているようで、イランではあらゆる場面で日本人には親切である。

 

ここの国境からヘラートまでは小型バスを使う。オアシスの水飲み場に停まり休憩を取る。古い井戸からタイヤチューブで作ったバスケットで水を汲み上げ喉を潤す。アフガン側の国境に着くと石油で儲けているイランとの差は歴然としている。早速、7−8歳の黄色いぼろきれのような衣服を纏った子供が「バクシーシー」と言って寄って来た。背中には小さな荷物を背負っている。真っ黒に汚れた裸足、彼は何歳からこのような生活をしているのであろうか?同じ年頃の売店でコーラを売っている子は、それでもましな服を着て、この立場の違いを当然と言った顔で貧しい子を見ている。小さな15軒ほどの国境の村には他にも3人の年老いた乞食がいた。


 
赤沼さん、僕、宝田さん                 梅谷、おとっつぁん

ヘラートは紀元前からの街で中世に造られた城砦を中心に栄えたアフガン第二の都市である。僕らの泊まる宿は一泊100円である。しかしイランの町と比べると町とは言いようがない貧しさが漂う、砂煙の砂漠の中に土の家が集まった小さな町である。街中を歩いていると大八車を引く馬が暴走を始めた。映画などで馬の暴走シーンは見たことがあるが、実際の暴走とは狂った馬が自制が効かなくなり全速力で走り出すものであった。それは日ごろ温和な人間に懐いた馬からは想像できない荒々しい野性の動物の姿であった。左右に振られた大八車が壊れるが、それでも馬は全力で走り続ける。最初こそ追っかけたが、やがてあきらめ見守る馬主、往来の車も関係なく暴走する馬。車のブレーキが響く。この街の道路は舗装されていないが結構広い。馬は砂埃を上げながら道路を何処までも走り視界から消えていった。抑制された人間も体力があれば、ある時突然支配者に対し暴走し、その環境から飛び出そうとする事があるのであろうか?しかし暴走した馬の結末は悲しい。

 ヘラートの町並み

 

58.トイレは何処だ?

翌日、一日遅れて行くという宝田さんと保田さんを残し出発する。長いバスの旅である。バスは時々食事と休憩のためドライブイン(?)に止まる。月の砂漠をバスで走り、真夜中近くに停まった食堂は電気もなく蝋燭の明かりで食事が出された。地面に敷かれた粗末なジュウタンに座って食事をする。勝手に出せれる皿に盛られた物以外に食事のチョイスはない。暗くて何を食べているか良く見えないのは愛嬌である。さて、食事の後チャイを飲んで「トイレは?」と食堂の人に尋ねると黙って外を指差す。月明かりの外に出てみたが、それらしい建物はない。もう一度尋ねるがやはり林の方を指された。しょうがなく進んでいくとあたりが臭った。なるほど、トイレとは地面に掘られた溝に板が渡させただけの代物であった。とても現代にこんなトイレが存在するとは思えない。ほとんどと言うか、完全に野糞である。夜間で良かったと思わなければならない。地元の人達はその腰巻のような民族衣装で上手く隠して用を足せるが僕らのは昼間なら丸見えであり、ここではこの方法以外に用を足す術がないのである。生理現象は知性を簡単に負かすものであることをこの国で改めて思い知らされたのである。もそれにしても周りの土は柔らかく危うくはまるとこだったぜ。

カンダハルに真夜中に着き、電気のない宿に泊まり、翌朝早く同じバスでカブールへ向かう。バスがアフガニスタンの首都カブールに着くと宿の客引きに取り囲まれる。いずれも100円くらいの宿泊料であるが、蚤、南京虫の攻撃にはお手上げである。壁にはヤモリが引っ付いているが、これは蝿や蚊を食べてくれるので、そっとしておくべき生物だと言う。

 

次のパキスタン行きのバスの乗車券はすでに売り切れており、やっと買えたバスの出発は3日後となった。インドの大使館に行ってダブルビザを取るとやるべきことがなくなった。宝田さんと保田さんが追いつき、合流する。パザールを冷やかしたりして毎日を過ごす。

街中で狼の子を連れて歩く人がいた。子犬と言われれば子犬にしか見えない狼の子は、今は小さく尻尾を丸めて震えている。この狼も遠吠えをし、荒野を駆ける大きな狼になると思うと逞しく見えてくる。この狼の子供を一万円くらいで買わないかと商談を持ちかけられた。どうやって持って帰るのかという話であるが無理、無理と断る。保田さんは生きた狼ではないが、狼の毛皮で出来たファーコートを買った。その他、この街では街頭で拳銃を普通に売っている。何でも、少し奥にはいったところに有名な拳銃村があり、サンプルがあればどんな銃でもそっくりに作ってしまうという。しかし性能の程はわからない。狼の子とか拳銃とか、蛮刀とか、日本にはとても持って帰られない物を平気で街角のゴザの上に広げて売っている、ちょっと危ない街である。

 

この国ではつい2ヶ月ほど前にクーデターがあり、今は軍人が政権の一角を担ておるそうだ、軍人の姿を街中の方々で見る。クーデターの起きた王宮に行って見ると軍人というより農民のような素朴な顔をした門番が慣れない銃を担いで立っている。この国も親日国である。その軍人に「その銃とカメラを交換しよう」といったら「俺のではないから駄目だ」とか、王宮の前に停まった戦車を指差し「あれ、いくら?」などと平和ボケした提案をしてもニコニコ笑って相手をしてくれる。

カブールにて
 

アフガニスタン最後の夜はシタールの演奏を聴きに行く。そこはレストランで赤いジュウタンが部屋一杯に敷かれ、同じ色のテーブルが演奏者を囲むように並ぶ。暖炉の灯りと数本の蝋燭が照明のすべてである。薄暗い蝋燭の光の中、思い思いの席に腰を下ろし5アフガン(25円)のチャイを頼むと演奏が始まった。シタールは日本の琵琶を大きくして弦の数を増やしたような格好をした弦楽器で数年前にビートルズがこの楽器にほれ込み、ここからそう遠くないインド北部にしばらく滞在していたのは有名な話である。素朴で奥深い共鳴音を出すシタールの奏者は老人であった。共演者は膝の間に挟んだ太鼓を手で叩く青年である。シタールの音はまさに世の中を知り尽くした老人そのものであり、青年の叩く打楽器ははじけるような若者の音である。時には軽快に、時にはもの寂しく蝋燭に照らされた空間で聞く者を引き入れる。シタールの音は逸る物を戒め、後れる者を導く、単純なリズムの中に物語がある。そしてその音が途絶え曲が終わると、僕らは思い出したようにチャイを啜る。そんな暗闇の中でも写真家宝田さんはシャターを押す。「写真家はシャターを押してなんぼ。暗闇で写るか写らないかではなく、100枚の中に一枚面白い写真があるかどうかというのが仕事だ」と言う。さすがプロの言葉、僕は北欧で一眼レフを盗まれて以降、写真の道は諦め、今はカートリッジを入れるタイプのポケットカメラを使っている。

夢の中にシタールの旋律を聞きながらアフガン最後の夜は過ぎた。

 

59.旅の資金それぞれ

僕がアテネで出会った時からの情報収集係である梅谷に依れば、中近東では物価が安く、すでにカルカッタからの日本行きの航空券を持っている彼はイスタンブールからインドのカルカッタまで、一日2ドルの予算で宿泊代と食事代を払い、その他、交通料込みで120ドルの予算で約一ヶ月かけて十分行けるはずであるという。そして実際、イスタンブールを出る時に彼は150ドルしか持ってなかったのであるが、どうも最近その予算配分がおかしくなってきた。

彼の持つ情報は、かってこのコースで日本に帰った人が、ヨーロッパに行く友人に持たせた物である。それを梅谷はロンドンで知り合った人からコピーさせて貰った。その内容は、イスタンブールからニューデリーまでバスと鉄道を使っての交通費が学割で29ドルといった細かい情報であったが、完全に1年以上古い情報で、実際の物価はもう少し高いということを出発当初から薄々感じてはいたのである。しかも安全のため何時も団体で動いているので、食事も宿泊もメンバー全員一緒、メロンなどを共同で買った時は割り勘となるので、出費を抑えるのにも限度がある。「いよいよ血を売るしかないかな?しかしこの国で血を売っても、ふらふらになるくらい、抜かれても1ドルくらいでしょうな」と、自分でも笑っている。そこで梅谷は持ち物を売る手段に出た。まずはジャケットを売り、僕にはロンドンブーツを売り込んでくる。見ればなかなか立派なブーツでサイズも僕にぴったりである。私が25ドルで買ってあげる事にして、そのままでは彼が裸足になってしまうので私の履いていた運動靴をあげる。「これで何とか帰国の目処がつきましたな」とからかわれながらも、彼としてはこれ以上無駄な出費を防ぐため、先を急ぐしかない。

 

写真家宝田さんはアフガン北東部の山岳地帯に少し入って写真を撮りたいとのことで、僕らとここで別れることになった。保田さんは2、3日、宝田さんと行動を共にした後、僕らを追うという。二人を残して僕らはパキスタンに向かうバスにのって朝8時カブールを出る。やがてアフガニスタンとパキスタンの国境にあるカイバル峠に差し掛かる。うねうねと曲がりくねった坂道を上る。ここは美しい峠と聞いていたが、時たま青い湖が見えるが褐色の山肌にわずかな緑、全体的には閑散とした風景である。噂に聞くほどの美しさはない、しかしここは歴史的には大変な意味を持った峠で、紀元前のヨーロッパからの征服者アレクサンドロス大王を初め、三蔵法師などなど、もしこの峠がもっと険しくて越えられなかったら、世界の歴史も変っていたのである。ところどころに土と石で造った砦が遺跡の様に残っている。やがて道路は下り坂となり、パキスタン側の国境の町ペシャワールへと下りていく。久しぶりに街らしい町を見て、バスを乗り換え、すぐに夜行でラホールへと向かう。

60.赤帽、そして犬の宿

パキスタンに入ったら、今までの羊、ロバ、ラクダに変り、牛、水牛が街中を闊歩している。雨が多い地域のため緑も増え、トラでも住みそうな、いや実際にこの辺はトラの生息地なのであるが、林と畑の緑濃い自然が続く。パキスタンに長居をするつもりのない我々は首都のイスラマバードで安いタクシーを最大限に使い、通行手形のようなロードパーミッションと呼ばれる書類を取り、列車でインドとの国境へ向かう。インドとパキスタンは宗教的にもヒンズー教とイスラム教、国境紛争を今でも抱える、互いに敵対する国である。そのため直通列車はなく、我々も一度列車から降り、徒歩で国境越えをしなければならない。ここの国境は今まで沢山見た中でも、最も興味深い国境であった。道路に引かれた白線が国境を示し、その両側に1メートルほどの間隔をあけて、インドとパキスタンの兵士が立っている。そしてその白線の上でインド側の人足とパキスタン側の人足が荷物の受け渡しを手渡しでしている。もっとも原始的な国と国との貿易である。


ラホール にて                     パキスタンとインドの国境

 

こうしてパキスタンを一昼夜で駆け抜け、この白線を跨ぎ、ついにインドに入った。インドの国境の町アグリッシアから首都ディリー向けの列車に乗る。パキスタンとインドでは鉄道が主な交通機関である。ペシャワールでもやったように、駅で赤帽にチップを払い荷物運びと座席の確保を頼む。

この国の長距離列車は日本の終戦直後の写真で見た買出し列車のように、乗客が鈴なりにぶら下がるほどの超満員になる。約200円を赤帽に払うとこの悪条件の3等車で、座席の上の荷物棚を寝台として使えるように確保してくれるのである。何をやってもルーズな国民性かと思っていた僕らは、ここで彼らからプロの仕事を見せられる事と成る。数人で組織された彼らは、お客を間違いなく席に座らせるため、プラットホームに入る前の列車に僕らを案内する。列車の中は電気も点かず、まだ、真っ暗である。その中で赤帽たちが自分の客のために壮絶な席取合戦を展開している。彼らにとっても席取は早い物勝ちであり、同業者間の競争がある。確保された席には彼らの小物が置かれている。彼らの指示に従ってプラットホームに向かいゆっくりと動き出した列車から、一旦飛び降り、再び飛びプラットホームに着く寸前の列車に飛び乗ると言う映画のシーンのような芸当をやった結果、やっと確保された席に座る。プラットホームの戦場のような混雑の中で、彼らは僕らに荷物を届けるとお金を受け取り消えていった。実に見事なプロの仕事であった。

 

オールドデリーで乗り換えてニューデリーに着いた。2駅間は5分くらいしか離れていない距離であった。元々その名の通り古都デリーに近接して新しい官庁街として出来たのがニューデリーであるから同じ街である。そして距離は短いが東京の東京駅と新宿を結ぶ中央線にあたるくらいの要のこの列車と言えば1時間に一本しか出ていないのである。大勢の人がプラットホームに寝転んでいる。明らかに乗客ではなく、駅で暮らす人達である。そこで、次に出る貨物列車に乗せられオールドデリーの駅を出ることになった。貨物列車に乗り約5分でニューデリーの駅の手前で降り、線路の上を走り駅に着く。列車用の水道で水浴びをする人、「バクシーシー」と施しを迫る人たちを掻き分けて外に出ると、今度はホテルの客引きが僕らを取り囲む。彼らを押しのけ、タクシーも使わずに徒歩で駅前のホテル街に向かう。2日続きの強行軍でかなり疲れていた。しかしなかなか思うようなホテルが見つからない。結局見つけたのは4ルピーで泊まれる「ここは犬小屋か?」と疑いたくなるような、10数匹の犬を飼っているゲストハウスで、犬と同宿する事となった。ここはリビングを中心に7部屋くらい客室があり、それぞれの部屋にベッドが2つ置いてある。部屋とリビングの間にはドアはなく、筒向けである。そしてここの主人はよほど犬好きなのであろう、15-6匹のお犬様が何処でも彼らの好きな所で横になっている。最初は気になったソファーに染み付いた強い犬の臭いもやがて気にならなくなってきた。人間の適用力もここでは犬並みに磨かれるようだ。蒸し暑い夜であるが、各部屋にはここら辺の国でよく見る天井に付いた大きな扇風機がゆっくりと回っている。こんなにゆっくりでは効果がないかと思っていたが、夜になると確かに部屋の空気がかき回されて涼しさを感じる。それでいて寝冷えの心配もなく、心地よい効果があることを知る。さすが、この土地の気候で長く暮らす人たちの知恵から生まれた、優れた生活の必需品である。

 

犬の鳴き声と臭いで眼を覚まし街に出てみる。さすがにインドの日中は暑い。日本を出てから、ここで初めて本当に夏らしい夏を迎えたようである。おまけに食べたカレーが凄く辛かった。インドの食事はほとんどがご飯とカレーである。お米は長細い、いわゆる外米であるが、カレーと言うのは日本のカレーとかなりイメージが違う。これが日本に伝わってよくも、あの国民食、カレーになったものだと思う。インドでは香料の入った食べ物をすべてカレーと呼ぶようで、その種類は無限にある。食堂に入ると大概10種類くらいのカレーが並んでいて、その中から好きなのを選んでご飯にかけてもらう。なるべく見てくれが日本のカレーに近い物を頼むが、味もさまざま。野菜だけのカレー、スープのようなカレー、鶏肉の入ったカレー、その他、得体の知れないカレーがほとんどである。参考に、ここの物価を書くと1ルピー(100ペセタ)約35円のレートで冷たい水が1杯3ペセタ、タバコ 10ペセタから、コーラ1本60ペセタ、僕らの食べるカレーが2ルピーから4ルピー、タクシーが1ルピーから2ルピー、バナナ8本で1ルピーとかなり安い。インドの物価は梅谷の持つ数年前の情報とあまり変わりがなく、一日2ドルで宿代を払っても十分やっていける。


ニューデリーにて

61.ニューデリーを歩く

時間つぶしに小さなどさまわりのサーカスを見に入る。入場料を払って入ると入り口に蛇女がいる。箱の穴から顔を出してそこから蛇の抜け殻らしき胴体が付いている。これまた日本で半世紀前にあった子供だましであるが、ここではそれなりに怖そうに見ている人がいる。中では子供が僕にもやれるアクロバットを必死で演じていた。やがて綱渡りが始まる。団員達は一生懸命にやっているのは体操をやっていた僕には分かる。安全ネットがないので、柔らかく耕した土の上に張られたワイヤの上で綱渡りをしている。そのワイヤが切れてけが人が出た。団長らしき人が指示を出し、急遽出し物の順番を入れ替える。その間に回復した団員が15分後くらいに同じ演技を今度は無事にこなした。体操でも失敗したら少し無理をしても、やり直すのが演技に対する恐怖心を持ってしまわないための基本である。粗末な小屋の土の上で行われる小さなサーカス、大サーカス団に負けない感銘を受けた。

 

夕涼みを兼ねて夕方になると食事の前後に街を毎日散策する。街のスタンドで買うマンゴシェークは最高の飲み物である。果実の王様マンゴをたっぷりと入れ、ミルクと蜂蜜と氷とでミキサーにかけてシャーベット状にしたもので、マンゴの味の強さがミルクで薄らぎ、ほど良いマンゴの香りと味が氷の冷たと共に口の中一杯に広がる。夏の飲み物としては最高であるが、日本では高級な果実であるマンゴを使ったものなので、作ったら高い物になってしまうであろう。それがここでは2ルピーで飲めるのでマーケットでこの飲み物を買うのが僕らのデリーでの日課となっている。

それにしてもパキスタン辺りから気候が暖かい土地に来たせいもあろうが、ハエが多い土地である。食堂のテーブルにはわんさかと、ご飯に掛けた、ごま塩のようにたくさんのハエが止まっている。食べ物に止まらないように払いながら食事をするが、このテーブルに運ばれてくるまでの事は分からないし、知ろうとすべき事ではない事を十分に承知している僕らである。最近はそのハエを手で捕まえるのが僕らの間の『はやり』である。テーブルに止まっているハエを手をテーブル面を滑らせながら閉じて掬い取るのである。上手くいくと手の中に一度に2−3匹入る。ついには飛んでいるハエをも捕まえる事もあるほどその技術は磨かれつつある。その手の中の蝿を地面に叩きつけると蝿はぴくぴくして倒れ、何匹取れたかが分かる。その数を競うのであるが、それほどハエが多いと言う事であり、考えて見れば我々の衛生観念もここに来てすっかり麻痺しているのである。

 

お金を出せばなんでも安く手に入るこの国で、生きるためにのみ生きている人たちが大勢いる。この国にはカースト制度という階級制度がつい最近までしかれており、子供は親と同じ職業に付くのがこの国で生きる術であった。制度は無くなったとは言い、社会慣習としては立派に残っており、その壁を破って自分で職業を選ぶ事はとても難しいと聞いた。つまり乞食の子は乞食をするしか生きる方法がないのである。この国で街を歩くと食べ物、小銭を乞う人が多いが彼らの中に片手のない人、足がなく粗末な車輪の付いた板切れにのった子供、眼の見えない人など片輪が多いことに気づく。これは乞食の子として生まれた赤子を親が物貰いとして、より貰いが多くなるようにと生まれたばかりの子供を片輪にするのだという。強烈な話であるが、物貰いとしては五体満足なことはかえってハンディなのである。路上生活で牛と食べ物の取り合いをして生活している人間がここにはいる。路傍で今、命絶えようとしている老婆がいる。

 

小さな子供達が「バクシーシー・サー」と言いながら付いてくる。5ペソの小銭をやると、それを隠してまだ付いて来る。あるいは兄弟と思しき子供を連れてきて「この子にもあげてくれ」といわれる。彼らにとって毎日が生きるための戦いなのである。3歳くらいにしか見えない子供が店先からオレンジを盗み取るのに成功した。建物の陰で小さな兄弟3人でその成果を喜び合っている姿を目撃した。もっていたバナナを一本そっと渡す。この幼い兄弟の姿がまぶたから消えない。バナナはその場の空腹を一時的に解消する役にしか立たないのは分かっている。今日満腹になっても彼らはこの先おそらく死ぬまで生きるためだけに、毎日食べ物を探す生活を続けなければならないのであろう。そしてそれは彼らが悪いせいではない事をもう一度考えたい。その時代に、その場所に生まれただけのすべて運命のなせる業である。そして後進国ではその運命に逆らうことは先進国に住む人より遥かに難しい。

 

    

62.別れ、そしてベナレシで人生を見る

コペンハーゲンで出会ったヒッピーの西山さん宛にニューデリーのJALのオフィスに手紙を残す。今年の秋には彼はヨーロッパからインドのゴアにあるコミュニティーに戻るはずである。また会えるか分からない旅で出会った友へのメッセージである。世界各地のJALのオフィス、日本大使館、中央郵便局ではたとえば「JAL オフィス留め、小堺高志様」「日本大使館留め、小堺高志様」で一年間手紙を預かってくれる。無事に彼の手元に届く事を祈る。インドに来て、彼が話していた事を時たま思い出す。「ゴアで夕食時になると母親が鍋に一握りの米をいれた、その量でどうやって家族6人の食事にするのかと見ていたら、母親は家の裏に生えている雑草を無造作に手で抜いて鍋に入れて家族6人分に夕食を作った」コペンハーゲンで聞いた話がここには現実としてある。

出会いがあれば別れがある、ここまで中近東を一緒に下ってきた梅谷と赤沼さんが、それぞれの理由により、日本への旅を急がなければならず、ここで別れて先にカルカッタへ向かう。日本での再会を誓って見送った。

 

私と保田さん、そしてオトッツアンこと服部さんは有名なタージマハルのあるアグラに向かう。ツーリストバンガローに泊まり、リキシャーと呼ばれる自転車で引張る三輪車を雇いタージマハルに向かう。2台のリキシャーを半日 貸し切って18ルピー(約650円)である。

タージマハルはムガール朝の王が王妃のために作った美しい大理石の霊廟である。強い日差しの中、ヤムナ河の川辺に立つ大理石の白さがまぶしい。建物の中は沢山の宝石で象嵌細工がなされ、ムガール帝の権力を誇る。ふんだんに使われた宝石、インドは世界有数の宝石の産地でもあるそうだ。保田さんはバザールの宝石屋でムーンストーン、タイガーアイなどインドで採れる幾種類かの宝石を買いこんだ。日本では上手くすれば5倍くらいの値段で売れるという。


ターニマハル



一晩の夜行列車で移動し、午後ベナレシに降りる。ここでもツーリストバンガローにチェックインをして、向かいのマンダリン チャイニーズ レストランに食事に行く。ボルネオ人のような顔をした主人が自慢そうに、なにやらノートを持ってきて見せてくれる。それは今までここに来た旅行者の寄せ書きノートであった。場所柄、その約半分は日本人による書き込みである。それがまた傑作である。「ここの店の料理はまずいから、直ぐに店を出るべし」「台所は決して見てはならない。蝿が群がり、ネズミが走り回るなかで汚い手で料理を作っている」「ここで物を食って下痢をした実例その1、その2、、、、、、。」それが面白くて、読みながらチャーハンを食べてしまった。これを書いた旅人もなんだかんだ言いながら数回通った連中であることは明らかである。この店のことを良く書いてくれていると思っている店の主人は傑作である。「おーい、ここに書いてあるのは悪口だけだよ」と言いたいが、それでは後に続く旅人の楽しみを奪うことに成る。明日もこの主人は自分のお店の悪口を書かれたノートを自慢げにお客に見せることであろう。

 

猪かと思うような野性的な黒い毛の生えた豚がうろつき廻る街をガンジス河に向かって歩く。ベナレシは聖なる河ガンジスが流れる聖地である。巡礼者が集まり、沐浴する場であり、インド人にとり最後にこの聖地で息絶えることが一番の死に方といわれ、余命いくばくもない病人もまたこの街に集まってくる。街には死期を待つ人が方々にうずくまっている。薄汚れた路地を抜けると身の前にガンジスの流れが現れる。僕には土色に濁った、ただの不潔そうな河にしか見えない。その河で数人のインド人が沐浴をしている。ヒンズー教にとり、この河は綺麗、汚い、澄んでいる、濁っている、清潔である、不衛生であるといった感覚を通り越した、聖なる水以外のなにものでもないのである。この水を浴び、口に含みことが幸せである。しかし同時に河であるから、そこには日常生活もあるわけで、泳いでいる者、洗濯をする者、石鹸で体を洗う者もいる。傍らではひたすら祈りをあげながら頭まで水につかる巡礼者がいる。その光景は河をひんやりと冷たく感じさせる。

船を雇い、河に出てみると、河岸からあがる数本の煙がみえる。そこでは組まれた薪の上に直接遺体が置かれ焼かれている。人間を自然に返す儀式が行われているのである。厳粛で反面、事務的に手伝いの子供が薪をくべる。こうして薪と肉体とが焼かれて出来た灰は掃いてガンジス河に流される。その河をインド洋へと流れながらインドに生まれた人は人生を終え、自然に返って行くのである。河岸で焼かれる人はそれでも裕福な人たちで、薪を買えない人は直接、河に流される。船でガンジス河を行くと、一体カラスを乗せた遺体がカラスに啄ばまれながら水面を流されていった。

僕らは岸に戻るとその人生観を変えるような光景に言葉なく、河岸を離れる。犬、豚、牛が争うように餌を探しながら道路を行きかい、強い生命力をみせる。河の手前には自分の最後の運命の時を待つ生気を失った人々が何人もいた。褐色のガンジスだけが強い日差しの中で冷たく流れていた。

 

この夜、僕らはベナレシを離れる。保田さんはカルカッタへ向かい。僕とオトッツアンはネパールへと向かった。

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ベナレシの川辺にて


63.憎きインドの盗人達

憧れのネパールへ向かう。実はもう一つ興味深いブータンという国が近くにあるのだが、この国はいまだに『鎖国』をしている。最近密入国をした人もいると噂で聞き、入国できれば歴史に残る偉業と成るのであろうが、そこまで危険を冒す覚悟はない。

ベナレシからネパールの国境に向かう夜行列車のなかで、いやな事件がおきた。今回もまた盗難事件である。朝起きたら座席の下に置いたリュックからイスタンブールで買ったバックスキンのコートが抜かれていた。僕の枕元10センチと離れていない所に置いたリュックから荷物を抜くとは、敵ながら天晴れな度胸をしている。と言うか気づかなかった自分もなさけない。昨夜寝る時には通路まで一杯の乗客がいたから、その周りの眼を防犯効果として当てにしていたのは自分のミスでもある。さすがに目立つリュックをそのまま持ってはいけなかったが、朝起きたらその乗客も半分に減っていたから、夜中に荷物を漁るチャンスを与えてしまったようである。リュックの中にはほとんど貴重品は入っていなかった。皮肉な事にこのコートが一番貴重品と言えば貴重品であった。小さな金目の物はショルダーバッグに入れて、夜は襷掛けにしていたから心配していなかったが、この暑さではコートを身に付けている訳にはいかなかった。こうも見事に大勢の眼をかいくぐり、持って行かれると何処にこの怒りをぶつけたら良いか分からない。周りのインド人がすべて盗人に思えてくる。乞食が歌を歌いながら列車の中に物乞いに入ってくる。板を叩きながら大声で歌う声も気に障る。「そんな歌で金になるなら誰でも歌手になれる。インド人くそ食らえ!」と今朝は大荒れの僕である。『インディアン嘘つかない!』といったのはアメリカンインディアンであった。ここのインド人は嘘つきと盗賊ばかりである。

国境を越えたビルガンジーで一泊する。ここはお釈迦さま誕生の地の近くであるが、煩悩の多い僕の心は朝の一件でいまだに荒れている。

食堂に入ると裏庭で鶏を捌いているのが見える。捌くといっても包丁で捌くのではない、骨ごとナタでぶつ切りにしていく荒っぽい捌き方である。ここでもメインはカレー系の食事である。インドではあまり食べられなかった肉類である鶏のカレーをたのむ。現地の人は右手でカレーをこねくり回して口に運ぶ。食堂には手洗い用の水樽が置かれていて客は食事の前にその水で手を洗う。彼らの右手が清潔で、左手が不浄という考えが分からなかったが、インドではトイレに行くとほとんど紙がない。代わりに水道の蛇口か水瓶に入った水と空き缶がおいてある。彼らはその空き缶に水を掬い、左手でお尻を洗うのである。僕らはトイレット ペーパーのロールを持ち歩いているので左手を使う必要は無いから、右手も左手も不浄ではないが、食事ではスプーンがあれば使わせてもらうようにしている。さて、出されたカレーを食べようとすると中に、なにやらゴロリとした物が入っている。見ればそれは先ほどナタでぶつ切りにされたばかりの、鶏の頭であった。やってくれます、鶏冠をつけた鶏の頭部が元の形のまま入っていたのである。しかし、それを皿の隅に置いたまま、食べ続けられる僕も逞しくなったというべきか。

僕に言わせれば「牛肉になる為の牛」はインドでは神の使いとして崇められている。そのため飢餓の国インドで牛は食べれることもなく沢山道路を闊歩している。この牛を食べたらインドの飢餓は終わると言うほど牛は居るのに、とうとうインドでは肉とビールを口にすることはなかった。外人向けのホテルのレストランに行けばステーキも食べられ、ビールも飲める所があるそうだが、現地人の入る食堂で食事をしていた我々の行動範囲では肉やビールにお目にかかれなかったというのが実状である。ついに、ここネパールではビールが飲める。食事の後オトッツアンとビールを売る店を見つけビールをたのんでカンパイ。つまみはピーナツである。久しぶりの冷えたビールはやはり美味い。


64.カトマンズの原風景

国境の町から乗り合いバスでカトマンズに向かう。カトマンズは盆地にあり、周りのヒマラヤ山脈と比べるとはるかに低い1200メートルくらいの標高に位置するネパールの首都である。バスは山道を登る、周りには派手にペイントされたトラックが沢山走っている。鉄道のないネパールへインドから物資を運ぶトラック野郎たちである。休憩地で橋の上から見ると澄んだ清流が流れていた。この水も、やがては聖なる、しかし汚いガンジス河になり、ベンガル湾へと流れ込むはずである。峠の上からうっすらとヒマラヤ山脈がみえる。その峠を越えると道路はゆっくりとカトマンズの盆地へと降りていく。棚になった田畑、ちょっと日本に似た緑多い懐かしい風景である。


 
ネパールに向う乗り合いトラック              この流れもやがてガンジスへ

カトマンズの街中にバスは停まった。近くには洗濯所と水汲み所があり、豊富な水が流れ出している。直ぐ近くに安宿を見つけ、街中を歩いてみると、狭い通りに街頭マーケットがたっている。農産物以外はインドや中国からの物が多いようである。その中で異色を放つのは登山用品を売る店である。さすがにヒマラヤを控えた国、登山用品だけは、欧米製の一級品を売っている。実際、朝晩は街中から遥かヒマラヤ山脈が望めるのである。

街の中心街になるダルバル広場には古くからの建物が狭い道路を挟んで密集している。ほとんどが木造で日本の昔の屋敷、寺院に良く似た建物である。三重塔もあり、日本の古い建物をもう少し泥臭くしたといった感じの街並みである。その中の一つに生き神様(クマリ)といわれる少女の住む館(昔の王宮であったらしい)がある。凝った細工と彫刻のなされた3階の窓から外を見る7-8歳くらいの幼い神様が見られる。彼女は次の生き神様が決まるまで、お祭りとかの時以外は外に出る事を許されないという。建物の玄関に入ってみると土間の付いた古い木造の3階建ての建物である。日本にも300年前はこんな感じの建物が沢山あったはずである。その狭い建物の中にはクマリとその遊び友達がいた。そして彼女の世話をする大人が数人。伝統を守るということは自分達の文化の誇りであり、先祖を大切にすることに通じる。しかしその伝統を更なる未来に向けて伝えていく事は過去から伝統を受け継ぐ以上に大変な事である。クマリはこの先300年たっても存在し続けなければならないのである。先代の教え、習慣を次の世代につなぐ、そうやって日本の伝統も受け継がれてきたのである。

そんな街中を場所違いに思える日本の車が通る。ネパールにはつい20年前までは車が入れなかった。インドから峠を越える道路が出来て、ネパールの主要道路が拡張され、初めて車がこの国に入った時、トヨタがこの国のタクシーとして車を30台寄付したと言う。そのため今でもトラック以外の車はこの国では、ほとんどがトヨタ車である。これも日本経済を牽引するトヨタの戦略であろうか。


カトマンズ市内の3重の塔
 

路地裏で見かけた子供達はビー球、お手玉、縄跳び、凧揚げなど昔の日本の子供と同じ遊びをしている。建物のみならず、生活の中にもここには日本の明治の初め頃の風景があるのに驚かされた。今日はこの国の祭日のようで、夜になると各家の玄関に泥で模様が描かれ、そこにロウソクが灯された。その周りは花で飾られ、お供え物が添えられている。この風習はおそらく日本の彼岸の迎え火のようなものであろうか?ウスで米を突く音が深夜まで響いていた。この心地よさは何なのであろう?やはり同じ文明のルーツを持った国だと強く感じる。


 

65.霊峰マチャプチャレ

朝8時のバスでカトマンズの西8時間くらいにあるポカラという村に向かう。今朝ラクソールに向かうはずであったオトッツアンも、もっと近くでヒマラヤを見たいとかで、急にポカラに一緒に行く事になった。ポカラはカトマンズよりさらに標高の低い800メートルにある。バスは川に沿って狭い道路を走る。その沿線には貧しい集落が何箇所かあり、そこに住む村人たちにとり、今の時代との接点を感じるのはこの舗装された狭い道路だけである。電気も水道もなく、煙の昇る粗末な家から裸に近い幼い子供が出てくる。子犬のように小さい羊が道端で草を食む。川で水遊びをする子供、牛を道路から追い立てる人、水上に吊るしたブランコで遊ぶ男の子。彼らの生活は数百年前からほとんど変っていないであろう。この道を時たま通過するバスやトラックを、唯一の外界との接点と感じているらしく、バスが通ると子供達は道路に出て来て手を振る。その様子は確かに始めて西洋文明に接した100年前の日本であり、僕らの先祖が過ごしたであろう生活と時間を彼らは今過ごしているのである。文化の発達した弊害に向き合っている僕らの国、一方ここには昔のままの生活の中で新しい文化に憧れている人々がいる。自分の生まれた土地と文化しか知らずに生涯を終え人もいるであろう。そのどちらが幸せかと言うと、文明国に住む人が幸せとは必ずしも言えない。大自然の中で自給自足に近い生活をするのも、心豊かにハッピーに暮らせれば、より人間らしい生活といえるように思えてならない。

 

ポカラに着くとペワタール湖畔の民宿のような小さなホテルにチェックインする。ポカラは観光ずれしていない小さな村であった。しかしここはマチャプチャレ、アンナプルナ山群、タウラギリ山群という登山家なら誰もが憧れる7−8千メートル級の山々への登山の出発地である。雲が晴れると、これらの山々が屏風のように視界一杯に広がる。山は今の季節、朝夕に綺麗に雲が晴れるが日中は大概、雲の中に隠れている。夕方雲が晴れその姿をあらわしたヒマラヤ山脈、美しく、神々しく、壮観で、まさに白き神々の台座である。とりわけ、この村から正面にみえるマチャプチャレの美しい姿には圧倒される。この山はヒマラヤのマターホルンといわれ、ポカラから見ると存在感ある三角錐にみえる山である。

旅行者に高いツーリスト・プライを知っている僕は、生水を飲む代わりに宿の子供に大量のミカンを買ってきてもらって食べる。夜になると空気が澄んでいる所為か、ポカラは満天の星座に囲まれた。

 

朝、オトッツアンに起こされる。まだ7時半であるが外に出るとヒマラヤの山々が朝日に輝いている。雲ひとつない空である。写真を撮って朝食の後、往復で4時間ほどのショート・トレッキングに出る。水牛、牛のいる牧場のような風景の中を歩き、「何処に行くの?」と聞いてくる子供には「マチャプチャレに登るのだ」と答える。勿論この軽装では無理で子供達は僕らの嘘を見抜いている。


  
ポカラの宿                          アンナプルナ山群

マチャプチャレはヒマラヤ山脈の中でも特別の『神の住む聖峰』として崇められ、15年ほど前に初登頂を目指した英国隊が山頂直下で地元民の感情を尊重して引き返して以来、今日まで登頂禁止の聖峰とされ、誰も山頂に立った者はいないという。

本格的なシェルパをつけた外人登山部隊が僕らを追い抜いていく。登山隊は途中の集落に民宿したりしながらヒマラヤの麓まで片道5日位かかると言う。そしてそこからが本格的な登山の開始なのである。麓までで5日間、それほどヒマラヤは壮大である。僕らの半日のトレッキングは、それでも沢を歩き、急な坂道を登り、ある程度の登山気分を味わえた。遠く眼下に僕らの宿があるペワタール湖が横たわる。前を行く登山隊のシェルパは重い荷物を背負いゆっくりとしかし同じペースを保って急な斜面を登って行く。靴二足分しかない狭い登山道がジグザグに峰を縫いながらどこまでも続いている。やがて崖にしがみつくような数軒の貧しい家からなる集落に着く。こんな険しい山の中にも人は住んでいるのである。この先にもまだこんな集落は何箇所かあるらしい。

僕らのトレッキングはここまでである。これ以上進むにはトレッキング許可証がいるし、僕らの軽装では無理である。雲の懸かり始めたヒマラヤを見ながら持ってきたビスケットをほお張り、ミカンを食べ、水筒に湧き水を分けてもらい帰路につく。中近東と違って緑深い風景である。先ほどまで緑の山間に顔を出していた白いマチャプチャレも今は雲の中に隠れてしまった。途中でポカラで開かれると言う牛祭りに下りて行くと言う12・3歳の兄弟に出会う。額にお化粧をして、花の首飾りをしている。ミカンを分けてあげると美味そうに食べた。彼らとトンボ採りをしながら再び山を下り始める。ペワタール湖の近くまで下りるとドイツの登山隊がバスから荷物を降ろし、キャンプを張っていた。今は登山シーズンである、彼らはこれから数週間、この壮大な山に挑むのである。カトマンズの遥か東北、エベレスト(チェモランマ)では今、日本隊がアタックしているはずである。彼らの成功を祈らずにはいられない。

    
ポカラでトレッキング
   
遥かにマチャブチャリを望む   



66.白き神々の座

ポカラを離れカトマンズに戻る。夜7時、辺りはまだ明るい、ピーナツを食べながら徒歩で片道約1時間のスワヤンブナート、通称、目玉寺へ行ってみる。蛙の鳴く小道を通ると野生のサルが森の中で騒いでいる。幾分暗くなった坂道を上る。この寺は小高い丘の上にあり、石段を上り詰めると、目玉を4面に描いた仏塔が闇の中に浮かび上がった。辺りには数匹のサルが走り廻り、僧がお経を唱えながら塔の周りを廻る。ここは仏教寺院であり、仏はこの描かれた目で街を見渡し、悪を懲らしめ、善を誉めると言われている様だ。カトマンズの夜景は日本の古都の夜のように仄々と暖かい。夜の山寺詣でも良いものである。

 

カトマンズを発ってインドに戻るため再びビルガンジーに下る。その途中のダマン峠ではヒマラヤが最後の美しい姿を見せ、僕らを見送ってくれた。峠の上から振り返れば180度の展望でヒマラヤ連峰が連なる。麓には緑の山々を従え、一部は雲の中に、一部は雲の上に、ほぼその全景を見せてくれた。雲より白く、青い空に長く横たわる8千メートル級の白き神々の座は壮観である。折りしも今日は僕の誕生日、この壮観な光景は一生忘れない思い出の誕生日となるであろう。夜はビルガンジーで服部さんとビールを買ってささやかな誕生祝いをする。日本でも家族や友達が僕の無事を祈って祝ってくれていることであろう。さしずめ、この国の人なら子供の誕生日には「坊や、あのヒマラヤのように立派な人になるんだよ」なんて言っているのかな?

 

ラシクホールから列車に乗ってカルカッタに向かうが、相変わらずインドの列車は混んでいて、眠れない。列車が止まるとホームに出てみる。インドでは何処でも見るが、ホームには家のない人々がダンボールを敷いて大勢寝ている。どの家族も小さな子供を数人かかえている。インドの人口問題はこれからの、この国の大きな課題であるが、乳のみ子が裸同然であちこちのダンボールの上にころがっているのが現実で、こうして見た感じでも、この国の人口は今日も路上で増え続けているのである。そして社会福祉などないであろうこの国で彼らの生活を支えるのは、少し裕福な層からの施しである。実際、一般の人が貧しい人たちに施しをしている場面を何処でも頻繁に見るのである。政府は何をしているのか?と他人ごとながら心配してしまうが、過去延々とこの国の人たちはこうして暮らしてきたのである。それを変えるとすれば、ここはすべてがこれからの、古くて新しい国なのであろう。

 

一昼夜の列車の旅で、ついにカルカッタに着いた。ここが僕の旅の陸路での最終地点である。航空券を買い、飛行機の予約を11日後に入れるとカルカッタでの生活が始まった。

 

カルカッタでの滞在先は日本寺である。ここの日本寺では朝夕の1時間ほどのお勤めをすると旅人に無料の宿と食事を提供してくれる。この情報は前から持っていたが何事も経験である。旅の最後に仏教誕生の地インドで南無妙法蓮華経を唱えながら旅を振り返るのも良いかも知れないと思ったのである。その代わり朝5時半には本堂の仏様の前に座り太鼓をたたきながら南無妙法蓮華経と唱えなければなない。出される食事はほとんど毎食 茹でた豆類に塩と酢で味付けをしたものが主食で、質素な味ながら不思議と毎日食べても飽きない。服部さんは数日を日本寺で過ごした後、東京での再会を約束して日本に発っていった。


 

67.カルカッタ日本寺にて

ここの日本寺には僕らが入ったとき、泊り客以外では10人ほどの日本人の僧侶と一人のインド人の老僧がいた。そのうちの一人は僕と同じ年頃の女性、彼女が食事の世話をしてくれたが、僕らは食事が出来た後の配膳の手伝いと後片付けをするようにしていた。部屋は何室かあってベッドがあり、この寺に居候する旅人は原則二人部屋である。僧侶達はあまり個人的な話はしない。やはり俗世間を捨て出家してインドの寺で暮らすということは、それなりに人生に対する思いがあり、悩んだ末に出した結論なのであろう。その僧侶達全員の右上腕部には5センチ四方くらいの火傷の跡がある。ある程度親しくなってその事について、それとなく聞いてみたが、彼らの誰もがその事については口を噤み何も聞きだせなかった。僕にはそれは俗世間を離れ仏に仕えるための、覚悟の烙印と思えた。

 

個人的なことは話さない彼らだが、この宗派や仏教の事については話してくれた。やがて、それまでこの寺のご住職と思っていた老僧がこの宗派の最高位であられる藤井日達上人その人と知る。この寺の正式名は日本山妙法寺、日達上人はその創立者であり、「インドから戴いた仏法をインドにお返しするため」に、ここインドにお寺を建てている。ガンジーとも親交があり、黄色いインド風の僧衣を纏い、団扇太鼓を叩き南無妙法蓮華経を唱えながら世界平和を祈り、広島などで行進している姿をテレビで見たことがあった。今年89歳になられたという老僧はつい最近もアメリカから戻られ、この40年間平和を祈り世界中を廻り続けて、そのほとんどを外国、特にインドで過ごされて活動しておられるという。食事の後、お茶を飲みながら話し始めると自然に全員が老師の言葉に耳を傾ける。「お茶は、沸騰したお湯で立てては美味さが逃げてしまいます。沸騰する前、80度くらいのお湯をいれ、ゆっくりと立てた時、お茶の美味しさが一番出てくるのです」と話された事があった。それは僕には人生そのものを言っている様にも聞こえた。翌日の夜、日達上人は7人の僧侶を従え、アグラに建設中の日本寺に向け旅立たれた。若い僧侶がいなくなると、ここに常住する日本人の僧侶は女性の僧侶を入れて2名だけであった。他に現地のインド人の年老いた僧侶が一人いるが、急にさびしくなった感じであるが、僕ら旅人の存在がその寂しさを和らげている。

カルカッタ日本寺の前にて
 

お寺と言っても、ここはインドであり日本では考えられないさまざまな苦労がある。入ってまず言われたのが、持ち物に気をつけて、部屋から出る時は必ず鍵をかけること。ここに居るインド人の70歳くらいの老僧は仏に仕える身ではあるが、「彼には、盗癖があるので気をつけてください」と言われたのには、さすがはインドと驚いたが、実際寺からは毎日何かがなくなっていた。昨日は花瓶が、今日は向かいの部屋の人の10ドル紙幣がなくなったと言う。

ここには常時5−7人ほどの旅人がお世話になっていた。大概がこの日本寺に一週間前後の泊りの後、出て行くが、一ヶ月以上インドに滞在している猛者も居て、それぞれがインドでいろんな経験をしている。盗難話は当たり前、黄疸が出て退院したばかりの人がいた。彼は領事館に相談したら「インドで病院に行くくらいなら日本に帰った方が良いですよ、下手をすると病院に行って病気になって帰ってくる人も居ますから」と言われたそうだがインドに留まることを選んだ。ある人はいつも通る道にいつも犬が寝ている。その犬はぐったりとダレていて動こうとしないので、何時も蹴っ飛ばして道を開けさせて通っていた。ある日、そのダレ犬をいつものように蹴っ飛ばしたら、虫の居所の悪い日だったのか、突然噛み付いてきた。傷そのものは大した事はなかったが、周りのインド人の勧めで狂犬病の検査に病院にいった。そうしたら、ワクチンを注射をされて、そのまま経過を見るため1週間も入院させられ、大変な眼にあったという。インドの病院で他の病気にならないで退院できたのだから、いずれもラッキーなケースというのだろうか?


 

68.ブラックマーケット事件

そんな滞在者の中の一人、長髪で髭ぼうぼうの男がお勤めに出てこない日が数日続いた。朝5時半からのお勤めは誰でも辛い。しかし正義感の強い僕はある時、彼に意見をした。「ここは、お寺の好意により旅人が休める場所です。“その条件として、朝、晩のお勤めをするように”という決まりがあるのだから、そのお勤めをしないと言う事は、ここに滞在する資格がないということです。後に続く旅人達のためにも、この規則を守られなかったら、ここにいるべきではないでしょう」

彼は翌日「日本でも、社会に適応出来なくて、会社を辞めて来たんですよね」と僕に告げ、この寺を出て行った。いろんな過去を背負って旅をしている人もいる、ちょっと悪いことをしたなと思った。

朝夕のお勤めは大きな太鼓の音にあわせて大声で『南無妙法蓮華経』を唱える。それは一定のリズムがあり、謡うようであり、やがて恍惚としてくる感じがある。大太鼓を叩く人は交代である。少し慣れてきたら誰が叩いても良い。私も直ぐに慣れ、進んでこの大太鼓を叩く役を買って出るようになった。祭り太鼓を叩くようでなかなか気持ちがいい。夕方の5時半からのお勤めは団扇太鼓を叩きながら外を廻ることもある。夕暮れの中を行くのも貴重な経験である

 

ここにはタイ人の留学生、トング君が住んでいる。彼とは良く話をする仲になっていた。「日本から来た人はほとんど英語を話さないが、貴方は話す」と言って慕ってくれるが、これは長く旅行をし使ってきた英会話の成果であろうか。インドは1947年に独立するまでイギリスの植民地であったので英語を話す人は多い。取り分けインド人のなかでも高度教育を受けている人たちはほとんど英語を話すが、一般にかなり訛りがきつい。その点、外国語としての英語を話す彼の英語は分かり易く、格好の話相手でもある。ここカルカッタで工科大学に通っていると言う彼はもう8ヶ月ここに住んでいる。
彼に街を案内してもらい、ブラックマーケットでの闇両替所などを教えてもらう。この辺では街を歩いていると「チェンジマネー?」と声を掛けてくる人がいる。非違合法であるが、ドルを正規の両替所より高い率で現地のお金に両替してくれるである。そのカラクリはこの国のお金持ちが外国に旅行や送金をする時、持ち出せる外貨が決まっているので、それ以上の額のドルを集めるために、こうしてブラックマーケットで集められたドルを高い値で買い取るのだと聞いた。相場はかなり流動的で、それは公道で個人が声をかけて来たり、お店の店員が裏で両替業をやっていたりする。事件はここから始まった。

 

いつも妙法寺の前に屯しているインド人がいた。英語と片言の日本語を話し、僕らが外出する時は話しかけて来て、勝手に何時も付いてくる。時には通訳まがいの事をやってくれるので便利な時もあり、追い払うでもなく、頼りにするでもなく、しかしここはインド、どんな人間か分からないので、僕としては距離を置いて適当に付き合っていた。2日前に前川君という旅行者がネパールから下りて来た。彼はネパールで造られている鋳金製の仏像に見せられ、それを購入したいと思った。金額が張るのでインドに来て、まずはドルをブラックマーケットでインド ルピーに換えて、それを持ってネパールに行き、さらにブラックマーケットでネパール ルピーに換えることを考えた。こうする事により25%近く正規の為替レートより貨幣価値を高めることができると言う。前川君が両替をしたいというのでトングに教えてもらったマーケットの中の貴金属店に案内する。闇両替屋でもお店の方が幾分安心である。いつものインド人が付いてきていた。その両替率は何時も違うので、僕が両替のレートを聞いてあげ交渉役をしていた。前川君は250ドルの現金で持っていた。
そのうち僕の後ろの前川君の態度がおかしい。どうしたのと聞くと一緒に来ていた例のインド人が「もっと良い両替率の所を知っている。俺が交渉してやる。その時現金を見せた方が良いレートを貰えるから、見せ金を貸してくれ」と言われ、彼に現金250ドルを預けてしまったという。僕は直ぐに、やられたと思った。「何で現金を渡したの?」「レートを調べて直ぐに戻るというから」さらに彼は言う「何時も一緒にいるから、あんたの友達でしょう?」「勝手に付いてくる人で、友達じゃないよ。大体名前だって知らない」、彼の顔が不安で一杯になる。僕が交渉中に二人が後ろで話しているのは気づいていたが、現金を渡したとは知らなかった。お店の人が言う「それは騙されたね」。直ぐに近くを手分けして探す。駅への道を行くと人口密度の高いインドでは同じような服装、格好をした歩行者がわんさといる。彼の姿は当然見当たらなかった。ネパールから下りて来てインドの怖さを知らなかった前川君の失敗である。

翌日も一日、憎きインド人を探すがインド人の肉体労働者の一日の収入が50円からだそうだから、下層国民年収の何年分も現金で手にして、この辺をうろうろしているはずがない、すでに何処かに高飛びしているのであろう。思えば最初から獲物を狙って僕らに近づいて来ていたのである。まんまと引っ掛かってしまった前川君は目的かなわず、またネパールへと戻っていった。


 

69.夕暮れのドラマ

暗くなったカルカッタの街を日本寺で知り合った仲間、松村さん、藤井さん、と歩いていると、インド人の若達が「何処から来た」「ネパール人か?チベット人か?」と聞いてくる。僕らを見てネパール人と思うくらいであるから常識を持つ類の人達ではない。彼らは最初から高慢な態度で上から物を言っている。日本人だと言えば問題なかったのであろうが、日本人だと言えば、いろいろ聴いて来たりで、それはそれで面倒くさいので藤井さんが「ネパーリヤン、ネパーリヤン」と言ってネパール人の真似をして通り過ぎようとすると、後ろから彼らが追って来て僕らをからかおうとする。彼らにとり、隣のネパールは自分達より貧しい田舎者の国であり、ネパール人は自分達より見下した存在でなければならないのであろう。そこに自分達を無視して通り過ぎるネパール人が3人、その態度が彼らには我慢ならなかったのであろう。勢い良く向かってくる彼らを牽制するために蹴りを入れる格好をして脅すと、意外にも殴り掛かって来た。殴られた藤井さんのメガネが飛ばされた。相手は4人、松村さんは空手をやるので、やってやろうかと構えると松村さんが止めに入り、そのまま彼らは逃げていった。ヒンズー語を話す藤井さんが「彼らは、ナイフと叫んでいた」と言う。僕の聞いていたインド人はガンジーの「無抵抗主義」を実践する国であり、盗みには寛容でも暴力に対しては否定的な国民と思っていたが、どうもそんな事はないようである。知らない土地で喧嘩をするほど不利な状況はない。相手は4人だけではないかもしれない、気を付けなければならないし、気を付けていたつもりであったが、あまりにも急にこのような状況になり判断を誤るところであった。こんなところで喧嘩をして怪我をしたのでは、まったく馬鹿らしい限りである。腕に覚えがありながら止めに廻った松村さんに感謝する。

 

鳥が耳障りな声を出して鳴き始めるころ、ダクリア湖の対岸、西の空は赤い光に覆われる。その赤い色がさらに強まると、湖の周りの椰子の木が黒く何本も赤い空に浮かび上がる。その下を一日の仕事を終え帰路に急ぐ人、今日最後の施しや食事のチャンスを求め空腹を抱えさまよう人々、牛に先を越されまいと鼻をぴくつかせ餌を探す痩せた野良犬等が、黒い影を造って行き交う。空が暗くなり、椰子の木がすっかり暗い空に溶け込むと、食事を終えあるいは食事をあきらめ、道路のそこここで今夜の寝床の確保にダンボールを敷き始める人、牛も犬も思い思いに自分の寝場所を決め込み路傍に丸くなる。それらの行為は僕とはまったく関係なく毎日決められているかのように時間の経過と共に進められていく。その光景をみる僕はあくまで傍観者であり、そこで生まれ暮らす者たちだけが参加を許される夕暮れのドラマである。

 

夏が終わったカルカッタに季節外れの雨が降る。気温が下がり肌寒い朝、一晩という時間がこの国の多くの命を奪う。道に倒れた母親に纏わり付く痩せこけた乳飲み子。汚れて磨り減った母親のサリーを小さな手が懸命に引張り母親の乳房を探る。人々は10パイサほどの施しをするが、すでに虫の息の母親にはその硬貨を拾う力もない。薄れ行く意識の中、母親は舗道に跳ねる硬貨の音を聞いている。これまで懸命に生きて来た誇りか、輪廻を信じるヒンズー教では次の生を受けた時、更に高いカーストに上がることが出来るという。まもなく、もうこの辛く厳しい生きるための戦いをしなくても良い世界へ行ける。死に逝く母親の顔は驚くほど静かで、すでに神のような顔をしている。この大地で生まれ、この大地で生まれ変われる事を喜ぶかのように、、、、静かに逝く、、、、それがインドにおける人生なのであろう。

不衛生、不信、無秩序、すべての事に基準がなく価値観がまったく違い、常識の通用しない混乱のなかの国インド。魔法使いの様な顔をしたインド人、知れば知るほど不思議で不可解な国に思えてしまうインド。気が付けばこの旅でフィンランドに次いで長く滞在した国になってしまったが、この国で見た事、それは一言で言えば『生きる』という事であったように思う。人が生きるという事はこんなにも大変で、まさに命懸けの事なのだと教わった気がする。

やっとインドが少し分かり始めた時、僕にもインドを離れる時が来た。


  

最終回・帰国

タイ インターナショナル エアラインのDC8でインドを離れてバンコックに向かう。いよいよ日本が近くなった。カルカッタと一時間半の時差、おなじフライトに乗り合わせた百田君とタイソンホテルに泊まることにする。一泊25バーツの安ホテルは梅谷からの情報である。ホテルは古びた汚い建物であるが、荷物を降ろして夜の街に出るとバンコックはヨーロッパ以来、見ることのなかったモダンな資本主義の街である。久しぶりに見る派手なネオンサインが東京の街を思わせる。ディスコに入ると何よりも、中近東からインドでは耳にすることのなかったロックが演奏されているのが嬉しい。ローリング・ストーンズのサティスファクション、ジャンピング ジャック フラッシュ、そしてエルトン ジョン、ビートルズなど中近東での甘ったるく気だるいようなイスラム音楽に辟易としていた僕にはロックはたまらない、これこそ待ちわびていた旋律である。

何よりも違う事は、昨日までの街には牛豚の類が街中を我が物顔でうろついていたことである。その動物達が落とす排出物の悪臭がないことで、バンコックの街をかくも清潔に感じさせられる。さらに言わせて貰えば、ここがインドでないことが何よりも安心感を与えるのである。


 
 

古い建物のタイソンホテルに2泊した後、その汚さと騒がしさに懲りて、百田君と一泊66バーツのマレーシアホテルに移ることにした。こちらはプールにクーラ付き。そんなに高いホテルではないが、今までのようにこれから先の旅のために安いホテルに泊まってお金をセーブする必要はない。もう僕の旅も終わろうとしているのである。

排日運動で話題になったタイ・大丸デパートに行ってみると、排日的な雰囲気は感じられなかった。ここが若者の人気スポットになっているのが分かる。見知らぬ学生がコーラをおごってくれたり、食堂で客の一人がウイスキーをコップ一杯に入れて、飲めというジェスチャーをして僕の前に置いていったり、人々は親日的であった。

 

コーヒーハウスでマヌと出会う。彼女は親友と共にその後4日間、毎日僕らの案内をしてくれた。バンコックはほとんど英語が通じないが、言葉意外の面では東京ナイズされており、テレビの影響か、この国の若者が日本に対する憧れを持っているのを感じる。森田健作の“剣道の噂は方々で聞いた。この国のテレビでも吹き替えて放送されており、かなりの人気番組であるらしい。

外国人とでないと入れないディスコ、キックボクシングの観戦、動物園、王宮、市場、チャップリンの映画、と楽しい4日間のラブストーリーの日々を過ごし、いよいよマヌに、そしてこの旅に「さよなら」を言うときが来た。空港に向かうタクシーの中で泣いていた彼女。”SAYONARA “ という言葉を残して、機上の人となる。

 

TG600は一路、北へ向かう。途中で香港、台北と立ち寄り、日本時間、夜8時40分、飛行機はダイヤモンドを散りばめたような懐かしい東京の夜景の中を羽田空港へと着陸態勢に入ってゆく。空には美しくオリオン座が窓一杯に輝いている。僕の時計はまだ6時40分のバンコック時間を差している。

僕の長かった旅が、今 終わろうとしている。

 

午後8時55分、東京のネオンの海の上を機体は段々と高度を下げて行き、やがてわずかなショックを感じ、エンジンの音が一度高まると、機はすでに地上にあった。 スピードが落ち、TOKYO AIR PORT と書かれた赤いネオンが眼に入る。シートベルトをゆっくりとはずし、タラップを降り、5ヶ月半ぶりの日本の土を踏む。バンコックでポケットに残っていた2千円分ほどの小銭はタクシー代を払った後マヌにもういらないからと無理に握らせ、今残っているお金は中野に帰るための電車代としてずーと持っていた120円の日本円3個のコインだけである。空港を出ると懐かしい日本の空気が頬に気持ち良い。

今、僕の長い夏休みが終わった。出会っては別れた大勢の人たち、最初の友達須藤さん、公園で酒を飲んだフィンランドの若者達、スゥエーデンで出会ったトウシャン、市川さん、コペンハーゲンの西永さんとの出会い。「英語以外で世界中の人達が不自由なく話せる言語があったら、どんなにすばらしいだろう」といったアメリカ人の若者。沢田、トミー、マツ、山内、梅谷、赤沼さん、松村さん、マヌ、旅で出会った人達の顔が次々と浮かぶ。ある者は今日も旅を続け、ある者はこの夏一人の日本人と出会ったことを思い出し、またある者は日本の何処かで、あのすばらしい旅の一部を共有できた事を思い起こしているだろう。


 ついに羽田空港に帰国

夢は自分で拾う物だと知った。世界中に今日という日を力一杯生きている若者がいる事を知った。時には夢を求めて前に飛びだす勇気があれば誰にだって翼が付いている事を知るだろう。そしてその翼を精いっぱい羽ばたかせても、それ以上に世界は広い事を知り、疲れた時、暖かく休ませてくれる場所があることを知るだろう。人々の生活はその言語、生活様式は変ろうとも、基本的にはまったく変らない。今日も朝の訪れと共に動き始め、家族がいて、友達がいる。親の庇護を離れた時から働いて食べ物を得る。生涯の相手を見つけ子孫を残し、そして自然に返って行くのである。それがこの世に生を受けたすべての生命の自然の摂理である。その生ある期間を、力一杯生きてみたいと思う。

今、日本時間午前3時、ロンドン、パリ午後7時、ローマ午後8時、カルカッタ午後11時、バンコック午前1時。今日も同じ時間が流れ、世界中で同じ生活が繰り広げられている。僕は只、それを覗きに行った好奇心の強い一人の若者に過ぎない。そして再び元の生活空間に戻って来た、、、それだけのこと、、、

でも、5ヶ月半前とは何かが違う。 何かが。

 

 

あとがき

 

少年時代から続いた長い夏休みは終わった。それは誰もが通る社会に出る自覚であり、親の庇護の下を離れ自立する覚悟であったかもしれない。

あの時ほど自由を身近に感じた時は無かった。空を飛ぶ鳥のように、自分が望めばその翼で世界中何処にでも行けた。5ヶ月半の間、私は鳥のように自由に飛び続けた、そしてさまざまな風景を見て、時には翼を休め、沢山の出会いがあり、また古巣に帰って来た。しかし一度、広い空を知ってしまった私はまた海外に出て、その後アメリカに暮らすことになるが、その時はまだこの旅が、そんな未来への一歩になるとは考えてもみなかった。

 

あの旅はまさに私の人生の軌道を切り替えた、新たなる出発地点であったと思う。時間と空間を越え、形を変え、こうして文章となり、今でもあの旅は存在している。

 

あの頃、まだ私の周りには海外に行ったことのある人はほとんど居なかった。まして一人旅で海外を放浪してくると言うことは一種の冒険旅行であった。

海外旅行ブームはまだ始まっておらず、誰も彼も熱病のように海外旅行に行き出したのは私が帰国してからであった。近年、テレビ番組でディレクターとカメラマンを従え、貧乏旅行をする番組が多く作られている。あいのり、古くは猿岩石、ドロンズなど、その類の番組を見るのは大好きで、アメリカでも日本語放送やDVDを借りて見ることが出来る。懐かしい場面もあるが、私の旅はさらに30年近くも前のことであり、それはこの手の旅行の先覚者の末端に入れる時期にいたように思う。ある人が言った。「70年代に海外に出た人はそれだけで人生の金メダルを持っているようなものです」と。この旅はその70年代の初期であった。

 

この30年間で世界は大きく変わり、私が訪ねた国々でもソビエト連邦はロシア連邦といくつかの国々に分裂し、東西ドイツが統一され、ヨーロッパではユーローが共通通貨となり、イランは王政が倒れ、アフガニスタンは紛争の地となり、インド・パキスタンは地震で大きな被害を受け、タイ、インドでは津波が大きな爪あとを残し、香港は中国に返還された。めまぐるしく変わる世界情勢の中で日本はジャパン アズ ナンバー ワンとまで言われた経済的地位を築き、今はその地位をなくしつつある。

一方、私が一番長く滞在したフィンランドは今や世界的な工業国に脱皮した。携帯電話世界一のシェアを誇るキノア社を中心にハイテク産業が台頭し、それを支えているのは世界トップクラスの質をほこる教育レベルである。

フィンランドは2000年以来、国際生徒の学習到達度調査でトップの成績をあげている。30年前日本はフィンランドの憧れの国であり、その後の発展の背景には間違いなく日本を目標、手本にした長期的な展望があったはずである。

日本経済を伸ばしたのは日本人の勤勉さと高度教育であるが、日本ではゆとり教育が提唱され、世界のトップグループから脱格しつつある。教育の結果は20年後の社会に結果が出ると言われる。フィンランドはあの頃から教育制度を改革してその成功の成果が今やっと社会に現れているのである。あの頃3人に一人しか話せなかった英語は、今ではほぼ100%近く通じるようになったと聞く。国を立て直すには教育から改革していかなければならない。日本は大切な一時期をゆとり教育などと言う形で足踏みをしてしまったと思う。日本経済のバブル期以前を知る人たちがもっと若者に初心に戻る事を教えなければならない。生きる事の基本を知るために若者は旅に出るべきである。昔の人は『可愛い子には、旅をさせろ』といった。先人の教えを有り難く実感出来たのは、ふと人生を振り返る余裕の出来た最近になってからである。

 

『旅は道づれ』という言葉は端的に旅の本質を表している。一人旅として旅立った私であったが、孤独な一人旅をしていたわけではない。いつも周りには一緒に旅をする仲間がいたし、現地で助けてくれた優しい人々がいた。

 

昨今、他者への関心を失い、自己中心的な人間が増え、かってこの国に繁栄をもたらした教育と思考力に裏づけされた高い民度は我々の世代も含め、世代が変わるごとに低下しつつあるように思う。他者への思いやりは旅には欠かせない気持ちである。他人を思いやれない旅人には困ったとき誰も手を差し伸べてくれないであろう。困った時はお互い様、お互いに助け合おうのが旅の鉄則であり、そんな出会いで、まずは「方向が同じでしたらご一緒しましょうか?」という言葉で旅人は友達になるのである。そしてお互いに思いやる気持ちが生まれる。こうして他人の痛みが分かる様に人との出会いを通じて訓練をする事が思いやりの心を養う。この気持ちは個人と個人のみならず、家族、人種、国家すべての社会に大切な人類愛だと思う。

 

我々はすべて地球に暮らす旅人である。

もう一度、『旅は道連れ』と言う言葉を思い出し、この気持ちを広く伝えて未来に希望を繋げたい。

あの頃誰とでも友達になれると思っていた。帰国して2週間目頃、終電車の出た中野の駅のタクシー乗り場で前に並ぶサラリーマンに話しかけて試してみた事がある。その時の僕は酔っていたし、変な若者であったかもしれないが、その人は私を新婚の家に連れて行き、もてなしてくれた。翌朝奥さんが朝食を出して送り出してくれた。人と人との出会いは偶然であるが、その出会いを大切にすれば出会いは人生の縁となる。

アメリカに来てからも、これからバイクで世界旅行に旅立つという若者や、ヨットマン、夜のグリフィスパークでバスがなくなり困っていた旅行者などを助けてあげた事がある。それはお礼することのかなわなかった、あの旅でお世話になった人達へのせめてもの恩返しのつもりであった。そんな時、彼らに旅の話をして、「お礼はいつか何処かで困っている旅人に返してあげてください」と、ちょっとキザなことをいって別れたものである。その中の一人はロサンジェルスを出発点にバイクで世界一周をするという若者であった。仕事柄バイクの通関などを親身で手伝ってあげ、食事をご馳走してあげた。そして一年半後、オーストラリアのパースから手紙をもらった。そこには「旅の最初に、旅の先輩である小堺さんに会ってお世話になり、旅の話を聞かせていただき、強く印象に残りました。おかげさまで辛い事もありましたが、沢山の楽しい思い出を残し、無事に最終目的地に着く事が出来ました。有難うございました」とあった。『この旅で、貴方に出会えてよかった』それはまさしく私が旅で出会い別れた人たちに言いたかった言葉であった。

 

私の初めての海外への旅はやがてアメリカに住むことになる旅へと続き、旅はまだ続いている。人生の一瞬に出会い、すれ違った人たち、その後各人が幸せな人生を歩んでいてくれることを心から願い、完結の言葉とさせていただく。

 

一年間に亘り連載してまいりました『旅人、ユーラシアを往く』、長い間、お付合い有難うございました。お時間のある方は感想でも頂けたらと思います。

この旅行記の続編となるのが、すでにこのホームページに載っている『夏の風』です。合わせてご覧ください。

 

2月12日 2007年  トーレンスの自宅にて。

 

小堺 高志