夏の風    Copyright©2000,Takashi Kozakai, all right reserved

僕の生涯2度目の海外への旅立ちは1975年3月23日にはじまった。一年半前、僕はユーラシア大陸を一周する5ヶ月の放浪の旅から帰り、その当てもない旅の間、地球儀を両手でもてあそぶような感覚と、地球上を駆け回る自由な風を全身に感じていた。その後、日本に居た間も僕はその風に吹かれ続け、また海外へ行くことばかり考えていた。

前回の出発の日と同じような天候である。先ほどまで雨がぱらついていた。昨夜から5人ほどの友達が入れ替わり僕のアパートに顔を出し、別れを惜しんでくれていた。彼らが帰るのとすれ違いに、大学の自動車部で一緒だった池田と広瀬が来てくれた。池田は同じ新潟県人でもあり大学入学時からの親友である。高円寺の駅で池田と分かれ羽田に向かう.モノレールを降りると後ろから赤沼さんが声をかけてきた。彼は一昨年の中近東の旅でイスタンブールで出会って、インドへと一緒に旅をした仲間である。今回もあの中近東での友のような良い出会いがあることを祈る。

予定より少し遅れてソウル経由の飛行機は羽田空港を飛び立った。これからの旅への期待と不安、眼下のネオンの光が少しセンチメンタルにさせる。ソウルとホノルルで2時間ずつの待ち合わせを入れて、ロスまで19時間という長い移動時間である。途中で新しい乗客が乗って来るため、この飛行機はやたら食事が多い、羽田を発ってすぐに夕飯が出て、ソウルを飛び立つとまた夕飯である。ホノルル到着前に朝飯が出て、ホノルルを発つとすぐ昼飯がでる。ロスに着く前にまた夕食である。当然僕は食いまくった。

ホノルルでなんとか2ヶ月のビザをもらって米国入りをはたし、いよいよアメリカ本土へと向かう。機内で志村というカナダに行く学生と親しくなる。彼ははじめての海外で, 不安の真っ只中にいるのが分かる。「君、旅のベテランの僕に何でも聞いてね」と言いたいところだが、アメリカは初めての僕も似たようなものである。日本に5年暮らしたというアメリカ人の女性、アメリカ人と結婚するためロスにいく日本女性、「仮面ライダーだ!」といって走りまわる見てくれ以外は日本人の子供とまったく変らない日本生まれの白人の子供。彼らとロスに向かうという唯一の共通目的のもと、残された飛行時間を楽しむ。ロスまで2時間というころ、機体は23日最後の夕日を浴びながら太陽に別れを告げ、上方から紺色の空へと包まれていく。その昼と夜の境目にオレンジ色の光の帯びが、機と平行して長く鮮やかに延びている。そんな光景を始めてみる僕にとって、それはまさに限られたオブザーバーの一人として見ることを許された壮大な自然界のドラマであった。

飛行機は予定より一時間遅れてロス空港に着いた。ダウンタウンンまで行きたいところであるが、バスのインフォメーションで聞いたら「もう夜も遅いし、ダウンタウンに宿が見つかるかどうか分からないよ」と言う、彼の忠告にしたがって明朝カナダに飛ぶ志村君と空港近くのホテルに一泊することにする。志村君にとり海外で初めての一夜であり、かなり緊張している。

ホテルの送迎車が空港前に次々に入ってくる。そんな中のひとつ、中国人経営のホテルのドライバー兼、客引きに交渉すると、一泊$22.50だと言う。ヨーロッパでユースに泊まっていた僕にとり、結構高い相場であるが第一夜ではしょうがない、それでも$19.50まで値切って手を打つ。車で10分ほどでホテルに着き、荷を降ろし、長旅の汗をシャワーで流し、緊張しっぱなしの志村君を誘ってホテルのバーに一杯飲みに行く。アメリカは未成年に対する酒類の販売はうるさいらしく、身分証明の提示を求められた。志村君は持っていたが僕は持っていない。酒は出してもらったが、日本人は常に若くみられる、これも良し悪しである。

志村君の緊張もだいぶ取れたようなので部屋に帰って寝る。うとうととしてやがて意識をなくしたころ、突然志村君が「うわー!」と、大声をあげて飛び起きる。「ど、どうしたの?」訳を聞けば、やはり緊張のあまり、うなされて飛び起きたとのこと。おいおい、えらい奴を拾ってしまったな、もっとたくさん飲ませておくのだった。そんなことでカナダでやっていけるのかよ。と思ったが彼とは夜が明ければお別れである。一応, 旅の先輩として今後の心構えなどを話して寝つかせるが、今度はまた何時彼が飛び起きるか気になって、僕が眠れない。

早朝志村君を送って空港にいき、その足でダウンタウンに行って宿捜しにかかる。日本で入れた情報により、リトル東京に行こうと思うが右も左も分からない。バスを降りて、教えてもらった6番街の日航のオフィスに向かって歩き出す。実際に荷物を持って歩き出すと思ったより荷物の重いことに気づく。

世界の何処に行っても日航のオフィスには日航のフライトは利用できないが、新聞を読ませていただくためだけに利用している僕らの仲間がいるものである。ここも例外ではない、新聞を読んでいた、いかにも世界放浪中、一歩間違えばホームレスといった風貌の男に声をかけてみる。刑事コロンボをさらに煮詰めたようなレインコートを着た、南米帰りのこの人は高浦さんといい、片道切符で南米に行き、賃金の安い農園で農業に従事し、帰りの運賃をかせぐため屈折3年、このたびめでたくロスまで生還されたという、小野田さんのような方である。

彼に案内してもらって、リトル東京の松島ホテルに宿を取る、1週間15ドルである。何人か彼の友達を紹介してもらう。とりあえず32号室の住人を会長と呼ぶことにしよう、メキシコがえりの14号室をオリベラ氏(ロスにあるメキシコ街の地名)と呼ぼう。<程なく互いに名前で呼び合うのですが、この32号室が会長こと金やんです。何故会長かというと、ある方面のスペシャリストで詳しかったからと思う、そして、14号室がオリベラ氏こと桑原さんでした。>

部屋の前でレコードを持った男と出会う、まもる君という若者で、彼はホテルのすぐ向かいにある手打ちそば屋で働いており、そばを打っているという。今日は休日だという彼は、免許もないのに最近100ドルで車を買ったというノー天気な男である。この車が当然値段相応に曲者で、もっか動かないとのこと、僕が車にいくぶん詳しいというと「なんとか動かしてドライブにいこうぜ」という。バッテリーが完全にあがっている、それでも充電すると重いエンジンが回り始めた。そのうちバッテリーを変えなくてはならないだろうが、取り敢えず今日は動くであろうと、そのまま、まもる君の同僚を運転手に引き入れ、桑原さん、金やんを誘いドライブに出かける。総勢5人、100ドルの車はローギヤが入らない、一見リンカーンの1930年代ものかと思わせる疲れたボディーに、がたがたぶれるエンジン、開けようとしても開かず、閉めようとしても開いてしまうオカルトドア。幸いブレーキだけは利くようである。車は前に進んでブレーキが利けばO.K.である。この100ドルの車と、金やんの103ドルの自転車ではどちらが買い得かなどという難しい哲学をぶちながら、ともかく車は走る。

ハリウッドの山の上に、グリフェスパーク天文台がある。屋上が展望台になっており、ロスの街並みが見下ろせるようだ。前に車を止め、博物館になっている天文台の中にはいる。「やたら毛唐が多いな」などと大口をたたきながら、無料のようだから入ろうと人の出てくる所から入る。堂々と入ってから、そこが出口であったことに気づく。知らないとは恐ろしいもので出口からよくもあれだけ堂々と、5人も入って来たものだと感心する。入場が無料であったのか、有料であったのかは今だに分からない。ロスは約900万人の人口を抱える大都会であるが、こうして上から街並を見ると道路は京都のように整然としているのが分かる。ダウンタウンの外れに僕らの住むリトル東京と呼ばれる日本人街がある。ここでは日本にあるものが、ほとんどすべて手に入る。なにをするにも、ここで暮らすぶんには英語も要らない、日本語で用がたるのである。本屋には数週間遅れの日本の週刊誌、雑誌がならび、マーケットに行けば味噌、醤油はもちろん、各種ラーメン、豆腐、ハイライトまで揃っている。ロス周辺に住む10万人の日系人の、文化的拠点がこのリトル東京であり、そこは展望台からみると、広いロスのほんの数ブロックである。アメリカは広大である、ロスの郊外にいけばそこは荒野で、ロスといえどもアメリカでは全体から見れば点在するオアシスの一つに過ぎない。この広大な土地で車のもつ意味は大きい。たとえ100ドルの車とて動けば実に便利なものであり、行動範囲を極端に広くしてくれる、ここでは車は必要とされる社会のようだ。金やん、残念ながら僕は100ドルの車のほうに軍配を上げたい。

ハリウッドを通ってビバリーヒルを走る。有名人、スター達が家を構える言わずとしれた高級住宅街である。まったく日本では信じられないような家並が続く。最近ハウスキーパーを首になった金やんのいた家は、ゲストハウスがあり、ロールスロイスとベンツを一日おきに乗り換え、冬でも使いもしないプールの水を温め、カラーテレビは10数台、ハウスキーパーの金やん用のテレビでさえ2台あったという。ある日フライドチッキンを食べて、今日の夕飯はうまかったと、かたずけをしていると、その家で飼っている犬の食べ物が目に入った。なんとステーキを食っていた、質、量ともに犬の方が金やんより良いものを食っていたと言う。ほんの一瞬彼はいけない事を考えてしまったそうである。彼は首になり、犬は今日もステーキを食い続けている、世の中不合理なことが多いものであるが。桑原さんによれば、メキシコでは通行人が犬がなにもしなくても蹴っ飛ばしていく。おかげで犬はいじけて、人が近づくとしっぽを巻いて逃げるという。その方が犬らしい正しい生き方をしているように思える。貧困に苦しむ人がいる一方、犬が犬らしさを失ったアメリカの方が異常なのかもしれない。
その名の通り、赤いカリフォルニアの夕日が沈むサンセット通りを、100ドルの車は僕らのいろんな感情を乗せ, リトル東京へと帰路をとった。


                           

最近やっと外国慣れというか、旅のリズムを思い出し, 調子が出てきた感じである。夜になると僕の部屋は仲間のたまり場となる。たまに6缶5百円ほどの缶ビールを買ってきて飲んだりする。日本から持ってきたポータブルカセットデッキとカセットの音楽は、とりわけ日本を離れて長い人には好評である。皆とこうしていると最高に楽しくなっちゃう。互いに博学と薄学をぶつけ合い、たわいのない話や、自分がして来た今までの旅の話を披露したりで、時の経つのを忘れる。時には仲間とわざわざ最近ロスの首切り魔で話題になった、メインストリートを歩いてみたりもする。偶然出会い、偶然出来た仲間意識は世界の何処にいっても若者は持っているものである。

テレビ番組「刑事コロンボ」で有名なロスアンジェルス市警は、リトル東京から数ブロックの所にある。アメリカの警官はテレビで観る限りなかなか怖そうであるが、この国では、そのくらいの迫力がなければ警官も犯罪者を取り締まれないのであろう。しばらくリトル東京に住んでいると、ここがアメリカであることを忘れてしまう。それほど日本的な街であるが、ロス市警の方からは時たまパトカーのサイレンの音とか、市警の屋上から出動するヘリコプターの音とかが、日夜聞こえてくる。

まもる君の知り合いの黒人レスターが、ジャズに案内してくれるというので、夕方出かける。彼も初めて行く場所とかで、迷いながら車で一時間ほど走って、レドンドビーチのコンサート会場にたどり着いた。Dizzy Gillespieというかなり有名だというトランペット奏者が出演し、わずか3ドル50セントという入場料であった。オリベラ氏こと桑原さんは、かなりジャズにも造詣が深いようであるが、僕は、ふんふんと話しを合わせ通ぶってはいるが、ジャズの生演奏は初めてである。
会場は100人ほど入れる小さな地下のホールであった。想像に反し、上品な会場で客も年配の夫婦が多い。僕らは適当に席をとり、ビールを注文する。ビール代1ドルなり。やがてGillespieが登場する。小さな会場いっぱいに響く拍手をうけ、背の低い中年腹の男が照明のなか、金色に輝くトランペットを口に運ぶ。その瞬間から彼は音の流れの中を跳躍する。強く、優しく、時に物悲しく。彼の胸いっぱいに吸いこまれた空気は、膨れあっがた頬で生命を吹き込まれ、トランペットを通して美しい音色となり聞く者の感情を揺るがす。しかし、やんぬるかな、僕にジャズの素晴らしさを理解させるには、さすがのGillespieさんでもそこまでがやっとであった。弟一ステージが終わるまでは、いっぱしのジャズ通のように装っていた僕も、右側通行の異国の地で100ドルの車を転がした緊張感がビールで出て、眠くなってきた。第二ステージが始まるや、こっくりこくっり船を漕ぎ出してしまった。こうなるとGillespieさんの名演奏も3ドル50の子守唄にしか聞こえない。僕をジャズ通だと思って疑わない仲間達は『さすが大将、すっかりジャズに酔いしれている』と思ったそうであるが、そのうちジャズのリズムと、僕のスィングが、当然の結果として合わなく成って来た。かくして僕の音楽通としての評価は、落ちるべくして、落ちたのであった。

帰路に付く道すがら、フリーウエイを走る100ドルの車は、美しき満月の追跡を受ける。
ここロスのように、平面的に広がった都会の砂漠では、ビルの明かりが安心感をあたえ、オアシスに思える。僕らは月の砂漠をラクダでいく王子様、そんなムードを旅先で見る満月は何時も与えてくれる。

ひょんな事から帰国する津田さんの後釜として、まもる君の働く向かいのそば屋で働くことになってしまった。なんでも津田さんは、後釜が決まらないと辞められないことになっており、とりあえず予定のない僕なら、しばらく働けるだろうと、半ば強引に押し切られたのであった。僕も急ぐ旅ではない、すこし好きになってきたロスでもう少し資金を増やすのもいいかなと、引き受けることにした。仕事自体は皿洗いを主にした簡単な仕事であるが、どんな仕事も最初は精神的にくたびれる。ともあれ、恵まれた体力でがんばろう。


                               

夜、コロンボ刑事高浦さんの家宅捜査ならぬ、家宅訪問を受ける。刑事と言うより漫画のキャラクターこまわり君、という方が近い、死刑!じゃなくて失敬!桑原さんも一緒である。桑原さんが1975年物の(まったく意味がない)メキシコ産テキーラを差し入れてくれる。酒の匂いに、ホテルの住民5人ほどが駆けつけ、酒盛りが始まる。桑原さんが「いいつまみがある」となにやらメキシコの缶詰を開ける。聞いたことのない名前であるが、世界中で食べられなかった物はなかったと豪語している僕は、一番大きい一片を我がものとする。なにやら、日本人の口に合いそうな好い匂いがする。ポイと口に放り込む、続いて金やんもポイ、一瞬いい香りが口の中に広がったと思ったら、辛い…・も…・もの凄く辛い。金やんが吐き出す、僕は思わず飲みこんでしまう、水道の蛇口に走る、水をがぶ飲みする。南米帰りの連中は知っていたようであるが、まったく悪い連中である、食う前に言ってくれたらいいものを。「食い物の恨みは怖いぞ」と言う余裕もなく、金やんと蛇口を奪い合うのであった。

南米の音楽をカッセトでかける、飲むほどに高浦さんが乗ってきて、南米仕込みのダンスを披露する。南米の楽器マラカシが持ち込まれ、僕の松島ホテル9号室はリオのカーニバルの会場と化した。「酒が切れたぞ」の声に1ドルカンパで、誰かが酒を買いに走る。ついでに、僕がタバコを買ってやる。日本では洋もくであったケントである。この辺道楽で働く僕の余裕、食うために働く彼らとの生活の違いが現れる…と言うほどでもないか。
楽しき仲間と飲む酒は美味い。「ラテンアメリカ研究会」、「X友の会」、「小堺高志と松島ホテルの住民達」といった自分が主催するグループの勢力を競い合う。と言ってもすべてのグループ員を兼ね合い、グループ名の方が頭数より多かったりするから、いい加減な集まりである。偶然出会い、同じ様な旅行者という境遇が仲間意識を強め、心を通わせる。皆こんな出会いを求めて旅に出てきたのかも知れない。

高浦さんが「華のハリウッドへタクシーで繰り出そう」などと騒がしくなる。そのうち大人しく飲んでいた桑原さんも「ハリウッド、ハリウッド!」と今にも出かけそうな雰囲気である。夜も2時を廻ってハリウッドもないものだ。お二人に思い止まってもらい、お引取り願うのにじばらく時間を要した。まったく酔っ払いの扱い方は、酔っ払いには分からない。僕もバタンキュウでお休みなさい。

                     

3月31日より、リトル東京にある英会話教室に夜、通い始めた。入学金25セント、市がスポンサーになっている地域社会用の小さな会話クラスで、塩見先生という日系人の先生が、15人程の生徒に英会話を教えている。他に日本好きのアメリカ人が数人、何時もオブザーバーとして参加しており、1時間ほどの講義の後、自由討論に入ると、このアメリカ人が各グループに付いてくれる。今日の僕らのゲストはビルタミンという、なんとなく栄養のありそうな名前のアメリカ人で、スイスからの友達と参加していた。彼らのヨーロッパでの10年前の出会いなどを話してくれた。

教室の帰りは、何時も近くの喫茶店 “東京ガーデン”に寄る。9時ごろから10時半ごろまでは、ここでダベっている。教室にいっていない桑原さん、高浦さんもそのころ、ここに顔を出す。
ここに来ると話の内容も砕けて来て、がぜん面白くなる。とりわけ今日のビルタミンは役者であった。彼は2年半ほど日本に、詩吟と空手と尺八の勉強に行っていたそうで、英語に時たま日本語を入れて話してくれる。今夜の話題は、西洋式トイレと日本式トイレの違いと使用法について。アメリカ人は話しにアクションが入る人が多いが、彼はことさら、半分体で話すと思われる程オーヴァーなアクションを交え、面白おかしく話してくれる。
狭い日本式トイレで、後ろに倒れない様、四つ身に構え、悪戦苦闘する彼のアクションは最高に面白かった。それと、彼が北海道の田舎に行った時、おばあさんが彼を見て「あ!外人!」といって眼と鼻の穴をいっぱいに開けて、右から左に首を廻す、それに対し彼も「あ! 日本のおばーちゃん!」といって左から右に首を廻し答えた、という様は抱腹ものであった。日本で変な外人としてデビュー出来る才能を、詩吟に使うのはもったいないと思わないでもない。しかしこんな日本びいきの人がたまにいるのが嬉しい。21セントのコーヒー代を払い、それぞれ帰途につく、そんな毎日がはじまった。

                    

刑事コロンボこと高浦和彦は、今悩んでいた。鏡の前で改めて自分の顔をじっと見つめていた。自分の顔をこんなにじっくりと見たのは何年ぶりだろう。鏡に映ったその顔はもう決して若くはなかった。彼は夢を追ってここまで来た、そしてこの頃、この夢もまもなく一区切りつきそうな予感がしていた。すでに彼は体で追い求める夢と、夢は夢のまま心で追い続ける夢の有る事を知っていた。そろそろ、この体で追う夢から目覚める時が、近づきつつある事を感じていた。鏡の顔はなにも語らないが、目じりの烏の足跡が、永かった旅の年月の流れを感じさせる。髪の毛も何時の間にか随分薄くなったようだ。彼は長く延びた幾分縮れた髪を引っ張ってみた。美男子とは言えないが、三つ目の男も影が薄れるほど印象深い自分の顔を、彼はこの歳になり好きになっていた。とりわけ、彼は自分の瞳が好きであった。黒い大きな瞳である。彼はその瞳のずーと奥に、南米で椰子の木陰に見た、南十字星の美しい輝きを見た、汚れを知らぬ少年時代の自分を見た。今, 彼は思った、「この夢は決して人に語ることはないだろう、そしてこの夢はこれ以上大きく成る事もないだろう。ただ何時までも、心の中に残るだろう」
彼は、なんとなく心が晴れて行くのを感じた。鏡から離れると、フランス製と偽っている日本製の、くたびれたレインコートを羽織り、何時もの様に、仲間のいる松島ホテルへと足を向けていた。夜露を含んだ空気がすがすがしかった、そして今夜はなぜか何時もの風景が新鮮に思えた。

と、この文章を高浦さんに見せたら「だいたい合っているね、しかしだいたい外れているね」という曖昧な感想であった。基本的に彼は悩まないタイプのようである。せっかく渋い文章を書いたと思ったのに。

 

数年前、おそらく一年半くらい前、南米のチリで政変が起こった。その新しく支配者となった軍事政権のスローガンの中に「学生は学生らしく、教室に戻ろう」と言うのがあった。

学生ビザでチリに滞在していた桑原さんはその頃、南太平洋上の孤島イースター島にいた。チリ本土から4000キロという、まさに本土から離れた孤島であったが、ここにも新政権の手は伸びて来た。島で一番偉い人から呼び出しがあった。行くと 「君は学生だと言っているが、学生にしては歳がいっている、本当は日本の情報部員かなんかじゃーないかね?」といきなり切り出された。「いや、僕は学生です」
「しかし、こんな島で毎日なにをやっているのかね?スローガンに従って、そろそろ日本に帰って学校に戻ったらどうかね?」、「いや、考古学と言うのはですね、教室では出来ない、…・・を…・・して…・・デンデン」といったやり取りの後、一応帰宅を許された。

彼は海辺の、50歳くらいの漁師の家に居候していたが、ちょうどその頃、島の警官が近所の人達に, 桑原さんの素性調査に訪れていた。親しく付き合っていた人達ばかりだったので、皆が彼を庇ってくれ、「ドン桑原は確かに学生さんで朝なんか、よく勉強しているし、絶対にいい人じゃあー」と言ったそうである。ともあれ、島民のこの証言のおかげで、彼は島に留まる事が出来たという。学生ビザはチリに留まるために取ったものであり、勉強の為に取ったものでないことは、本人が一番よく知っていた。しかし考古学、遺跡に興味があったことは事実で、時には島にある有名なモアイの石像を見にも行った。桑原さんによれば、島民の中でもごく限られた人しか知らない、乳房を持った女性のモアイ像が, 島のある所に埋まっているという。掘って確認した彼は、また、そっと埋め戻しておいたそうだ。数年後、新発見と騒がれる日が来るかもしれないが、謙虚な桑原さんは、自らも考古学者として世に出ることを拒んだのであった。さて、普段の桑原さんは、たいがい、勉強より、何もしないで海を眺めてぼんやりと暮していたようである。一度、居候先の漁師の仕事を手伝ってみようと、お供をして漁にでたが船酔いし、彼の仕事を一日潰してしまい、それ以来2度と船に乗らなかったと言う。

そんな桑原さんでも島のために役立ったことがある。ある日嵐を避け、一隻の漁船がイースタ島に避難してきた。どうも韓国の船らしいが言葉が通じない。そこで2500人の島民の中からインテリであるドン桑原に、白羽の矢が立てられた。「ひょっとしてお前なら話せるんじゃないか?」とのことで韓国語など挨拶も出来ない桑原さんが、引っ張り出され、ひょとしたら日本の船かもしれないと, 淡い希望を持ち、島民の大きな期待を背に, 重い腰を上げ港へと向かった。

港に停泊する船に近づくと、船の掲げる国旗が見えてくる。最初「お!日本の船だ」と思ったそうだ、しかし、遠目に日の丸と見えた旗が、四隅にちょんちょんと何やら付いた、韓国旗であると確認するにいたり、島民の期待を思うと逃げ出したい気持になってきたそうだ。
なんとか成るだろうと言う自信が急速に縮む。船に乗り込むと、出てきた船員はやはり韓国人であった。彼の島でのインテリジェントとしての名声は空前の灯火、今や絶望的であった。ところが突然、船長が日本語を話せる事が分かり、それからは滞りなく入国審査等の手続きが進み、終了後、感謝した船長が, 米一俵とマグロを1頭くれた。その上更に「まだ、なにか欲しいものがあったら言ってみろ」と言う、「はあー、醤油を少し分けて貰えたら。」 1斗缶のキッコーマンの醤油缶を持ってこさせて、机の上に『ドン!』と置いて「持ってけ!、まだ他にあるだろう!」「はあ、わさびも頂けましたら」1缶わさびが持ってこられて、またまた机の上に『ドン!』で「はい、持ってけ!」と実に気前の良い船長さんであったそうだ。

かくして、その後、彼の居る漁師小屋の前にテントを張って住みついた、日本に居た事があるという刺身好きのドイツ人の訪問を、毎日受ける事と成る。『ドン・ クワハラ、サシミタベヨ、サシミ』

南太平洋の孤島イースター島で起きた、平和な、平和な、某月某日の事件であった。

                              

世界的なオイルショックによる不況は、ここリトル東京にも影響が出てきていた。ハウスキーパーを首になり, リトル東京に流れてきた会長こと、金やんは, 職を求めて1週間が過ぎようとしていた。新聞等で求人広告をみて、レストランなど何軒か面接に行くが、そのおっとりとした顔が災いしてか, 危機感がなく、なかなか採用して貰えない。「もっとハングリーに」とアドバイスするのであるが、本人十分にお腹を空かせハングリーなのだがあまり態度にでない。手持ちのお金はまもなく150ドルを切ろうとしていた。このまま行くと、リトル東京初めての不況による犠牲者とも成りかねない。温かき友情に溢れる我々は、店の残りのうどん、そば、おにぎりを持って帰ってあげたり、心当たりの店を紹介してあげたりしてやっていた。

今日も彼は高浦さんの紹介である店に面接にいって、絶望的な答えを貰ってしょげ返って、帰って来ていた。僕の持って帰ったそばを食べながら、この毎晩の差し入れがなければ、今や伝説として貧乏旅行者の間で語り継がれている『ドッグフードは栄養価も高く、結構いける』という話しを、今日か明日にも実践しようかという状態にあった。高浦、桑原両氏と供に、彼を慰めるため、最近“松島ホテル”と同じ建物の一階にオープンした焼肉屋にサイフォンコーヒーがあるとのことで、コーヒーを飲みに金やんを誘い出す。

「まだ君には自転車という財産があるじゃないか、それに, いざとなったら我々が君を放ておかない。ドッグフードに手を出す前に、残飯の一袋や二袋、皿洗いという職種を活かして持ってきてやるよ。まーこれにめげず、しっかりやりたまえ」などと励ましつつ焼肉屋の戸をくぐる。「いらしゃいませー、なににいたしますか?」「ガテマラ」、「コロンビア」、「モカ」、「ガテマラ」。アメリカのコーヒーはサイフォンを使わないし、薄い。日本以来のサイフォンコーヒーである。「お待ちどうさまです、何を入れますか?ミルク?クリーム?」「僕はクリーム、彼はコーヒーの通だから生卵を落としてやってくれたまえ。」と僕。そんな何時もの冗談をかましたら、ウエートレスをやっているここのオーナーの娘さんという、自称18歳、一見どう見てもプラス10歳で20代にやっと引っ掛かっているかいないか、という人が、気に入ったらしくジョークにのって来る。こうなると僕らのペースである。桑原さんを指差し、「彼はチリの二世でね」と高浦さん、「本当?なにかスペイン語で話してみて?」桑原さん、得意のスペイン語でぺらぺらやりだす。「でも、ちょっと顔がひきつっていたみたい」

この店も開店5日目である。時良しとみて、金やんを売り込んでみる。「彼は優秀な人間なのだが、たまたま今、仕事を探しているんですよ」最初は信じて貰えなかったが、この店も開店したばかりで、夜のキチンヘルパーがいないとのこと。我々の売り込みが良かったのか、タイミングが良かったのか、すんなりと金やんの就職が決まってしまった。
「午後3時から夜8時までね、お給料はどのくらい出せばいいかしら?」横から金やんに代わって我々が「たばこ銭でいいです」「それじゃー50セントね、でもそれではかわいそうだからマッチ代も付けてあげる」こうして綱渡り的生活者であった金やんも月曜日からの、働き口が見つかった。

9時までそのお店に居て、何時もの通り、喫茶店東京ガーデンに行く。僕は土日以外は毎日英会話クラスの後でここによっているし、高浦さん、桑原さんも毎日9時になると集合する店である。とりわけ桑原さんは毎日同じ時刻に同じ席に座るのがほぼ習慣化している。
どうやらウエイトレスの利子ちゃんがお目当てらしいのだが、未だになにも報われることなく、彼の東京ガーデン詣では続いている。最近利子ちゃんが身体障害者のためにタバコの空き箱を集めている、という情報を得た彼は自分でタバコを吸わないのに, 空き箱を集め始めた。なんでも、集めた空き箱をある機関に送ると、その数に対してタバコ会社が貧しい身体障害者が車椅子や義足を買うための、寄付をしてくれると言う事らしい。今日は我々の協力を得て集めた、 7個の空き箱を利子ちゃんに渡す。「あら、有難う」と言われた時の彼の嬉しそうな顔。「桑原さん、もう用件は済みましたか?帰りましょうか?」「しかし、君のビールがまだ残っているじゃないか?」

今日は当然金やんのおごりであるが、今まで世間の冷たい風に吹かれてきた彼は、月曜日に仕事にいってもすぐに帰されるかもしれないという、心配からか、まだ今一ついじけた笑い方が抜けない。

                                    


我々の当面の心配事であった金やんの就職問題は解決されたが、ここにもう一人、金銭的危機に追い込まれつつある桑原さんがいる。しかし彼には後ろに桑原財閥がついている。彼の一家は両親、兄弟、家族そろって医者の一族で、お父さんは四国で初めて落ちた手首を縫い付けたという外科医だそうである。つまりは一族で彼だけが医者に成れなかった様である。

「いざとなれば電話一本で桑原財閥から送金があるから」というのが最近の彼の決まり文句で、昼はバナナ、夜はインスタントラーメンという貧食に耐え、夜9時に飲む一杯のコーヒーが唯一の贅沢と言う, 前出の桑原さんである。宿に帰った我々は23号室でこの問題に付いてミーティングを開く。議題は『桑原氏の就職問題』である。「どんな職を希望するのかね?」「肉体労働より、知的労働を、時給3ドル以上」となかなか強気である。だいたいが我々はいくら優秀であっても、学生ビザ、観光ビザでは働く事自体がビザの条件に反し本当は違法であり、アルバイト感覚の職種以外に仕事を見つけるのは無理である。「フム、するとかなり職種が限定されてくる、知的労働と言うからには何か売り込める才能があるかね?」「観光客相手の通訳という線はどうかね?」「フム、して英語の方は?」、「少し」、「スペイン語は?」「かなり」、「じゃあ、やっぱり、日本の観光客相手の通訳か、あるいはメキシコ街であやしいお店の客引きかね?」といった案も、彼の日本語に難点があるとの事で没。知的労働を強調し続ける彼に、まだ4月の風は冷たい。

桑原さんの恋の病は冷めず、友情に厚い我々は今日も彼を応援し続け、タバコの空き箱を取っておいて上げる。彼も最初はあくまで 「身体障害者救済の考えに共感して」とか、「タバコの空き箱を集めるのは, シアトルに行っている友人の代理である」とかと共感説、代理人説を強調していたが、シアトルから間もなくロスに戻ってくるというシアトル君も利子ちゃんが好きらしく、最近の桑原さんは、露骨にシアトル君を恋敵呼ばわりする。
中年男は思いつめると怖い、それは
14日の夜、映画の帰りであった。ついにゴミ箱の中に捨てられたタバコの空き箱の誘惑に、手を出してしまった。タバコを吸わない彼が, 利子ちゃんのため一つでも多くの空き箱を集めるためには、我々から貰う分だけでは満足行かなくなってしまったようである。ゴミ箱をあさるその姿があまりにも板に付いているので、彼の言う「僕もかっては新入社員として、会社に入ったころは、有能な社員として将来を嘱望され、エリートコースを驀進していたものだよ」という言葉に疑問を感ずるのであった。しかし桑原財閥の話は本当らしい。

普段の桑原さんは口数の少ない人である。この文章を読んだ人は『ここに登場している桑原さんは、結構話しているじゃないか』とお思いでしょうが、それは僕がここ1ヶ月の彼の言葉を、ほぼ一言一句漏らさず書いているからである、と思って欲しい…と言う程いったて大人しい人なのである。だが, 時たま口をあけると、周りのものが吸い込まれるような、浮世離れした面白い話をしてくれるのである。いまは本人も分かっているようであるが、世界中に彼ほどサラリーマンに向かない人はいない。東京で堅気の会社員として働いていた彼は、確かに新入社員の頃は希望に燃えていたのであろうが、程なく自分はサラリーマンには向いていないと自覚する事件が相次で起きた、というか起こしたそうだ。ある日、何時ものように昼休みに喫茶店に入った。すると目の前のテレビがちょうど、あの浅間山荘事件の実況放送をしていた。あの事件はテレビが始めてテレビらしい同時進行という形で視聴者に新しいニュースのあり方を示した出来事でもあった。夢中になった彼はそのまま会社に戻るのを忘れ、気が付いたら夜になっていたそうだ。またある時、名古屋での会議に出席のため新幹線で名古屋にむかった。予定通り名古屋駅で新幹線を降りた彼は, 列車の中に傘を忘れた事に気づいた。しかしホームのベルがすでに鳴っており、列車は今まさに出発しようとしていた。傘をとるか、会議を取るかの選択を迫られた彼は、迷うことなく傘をとって、今降りたばかりの大阪行きの新幹線に飛び乗った、そして彼のサラリーマン人生は、次ぎの停車駅京都で終わったのであった。

タバコの空き箱にかける情熱のため、最近彼のエバンス語学学校のクラスでの成績はFに落ちたと聞く。それでも彼は一人でも多くの身体障害者が車椅子を持てるよう?、今日もせっせと空き箱を集めるのであった。


                                      


先日アカデミー賞のドキュメント部門でオスカーを取った『ハーツ アンド マインド』という映画を観た。ベトナム戦争を扱ったもので、人間が自分の置かれる状態によっていかに恐ろしく変化するものであるかを、いやと言うほど見せてくれた映画であった。無抵抗の人間を平気で殺せる人間を環境は作り出す。その可能性を持った人間がいくらでもいるということだ。人類はそのような引きがねとなる環境を作り出さない様、常に監視しなければならないと思う。レスターによれば人間の性格は食物に依り、左右される部分が多いという。たとえばアメリカ人の中でも, 肉食を主にした食事をする人は攻撃的性格が強くなるという。

その理論に従えば、僕の働くレストランのチーフは何時も, 何を食べているのだろう。最近のカリフォルニアの気候は異常だそうだ、雨が降った翌日にはからりと晴れる、すごく変わり易い天候である。うちのチーフも虫のいどころに依り、まったく人格が変わる難しい人である。機嫌の良い時は「小堺くん、悪いけど先に食事済ませてくれる?」「悪いけど、これやってくれる?」と丁重である。僕も鷹揚に「あーーぃ」と返事をする。
お虫の居場所が悪い時は、最初から廻りの空気がびんびんしていて「小堺、メシ食ったら便所掃除やれ!」「はい!」言葉使いが変わり、眼が血走っている。こんな日は朝食に苦虫でも飲み込んで来たに違いない。一番被害を受けているのは、なんとオーナーであるママさんである。
チーフの機嫌が悪いと, ママさんの食事は抜き、玄関の掃除もさせられる。聞けばチーフは単なる雇われチーフだと言うから、いよいよそんな関係、何処のレストランにいっても見た事ないし理解し難い。しかし相手は包丁人であるから、なかなか逆らえない。いつも目の前に刃渡り30センチはあろうかという包丁が置いてあり、すぐに振り回すんだもん。ここは桑原さんの出番か、なんせ外科医の家系だからね。

このレストランで働いていて怖いのは、機嫌の悪い時のチーフとイミグレーションの手入れである。日本の移民局は外人に対してかなり厳しいと聞くが, アメリカもなかなかうるさい。観光や学生として入国し働くことを、入国目的が違うとして原則認めていない。もし見つかれば不法労働者ということになり、その上ビサが切れていれば不法滞在者である。

一般にアメリカへ問題なく入国するためには, 当面の暮しを賄える経済的裏付けと、ゆくゆく日本に帰ると言う意思表示が必要である。具体的に言えば、まとまったお金と、往復航空券であるが、これを持っていないと、特別室で面接され、運悪ければそのまま空港から送り返されたり、1週間だけ入国を認められ、その後再び面接, とかという事態にもなりうる。そこで僕らの仲間は, 買ったばかりのトラベラーズ・チェックをなくした事にして再発行を受け、見せかけの所持金を倍にして入国したり、往復チケットで入り、帰りのチケットを他の旅行者に売る、といったことが当たり前に行なわれている。僕も帰りのチケットは僕を皿洗いの後釜として帰国した津田さんに売った。津田さん帰国の際は、僕が空港まで行って僕のパスポートで航空会社のカウンターにて出国手続きをし、その後、搭乗券を津田さんに渡しているので、僕はすでに出国したことになっていて、その時から不法滞在者ということになる。そして翌日そば屋で働き始めた時から不法就労者でもある。

このような水面下に潜ってしまった日本人を、僕らはイェローサブマリンと呼んでいるが、そのままの状態にしておくと、例えば将来偉くなって商用で渡米した時、昔の不法滞在の記録のため、入国を拒否される事が考えられる。そんな事態は避けたい、僕にはちゃんと『イェローサブマリン浮上計画』なるものがあった。ここから陸続きのメキシコに行く際は、アメリカサイドの出国手続きはまったくない。一度中米に出て, 今度アメリカに戻ってニューヨークに向かうとき新しい入国許可を貰って入れば、僕の出入国記録には、ビザの切れる前に日本に帰り、その後またメキシコから再入国したという、初婚の花嫁のようにまっさらな籍しか残っていないはずである。よって当面怖いのはチーフとイミグレーションの手入れだけ、ということになるが、ニューヨークなどで手入れがあったと聞くと、心当たりの者は、いざイミグレーションが踏み込んだ時のシュミレーションをして、傾向と対策を練るのでった。やはりネクタイを締めて皿洗いをして、踏み込まれた時は客に成りすますか?この高浦さんのアイデアにも引かれる物があるが、それって、普段からかえって目立ち過ぎない?

                                   

17日の夜 レスター、まもる君とサンタモニカ通りにあるトゥビドゥアというクラブに音楽を聴きに行く。今回出演のヒューマサケラは、音楽通のレスターがナンバーワンというだけあって素晴らしかった。アフリカ系の打楽器を中心にした演奏で、なかでもドラム缶から作った打楽器が奏でるソフトな音色は, ドラム缶で作った楽器と思えないものであった。アフリカで昔、打楽器はコミュニケーションの手段であった。このステージはそれを再現しているのだと言う。アフリカの民族衣装を着た男が鈴を鳴らしながらステージに上がる。そしてボンゴを叩き始めると、その音に答えるように暗闇から他のメンバーが現れ演奏に加わる。体が踊る、アフリカの楽器カウベラとボンゴが話す。ボンゴとドラムが話す。ホール一杯に響く音の会話は観客を巻き込み、すべてを共鳴させ、一体化させてくれる素晴らしいステージであった。

その音に魅せられて、同じサウンドを聴きに翌日また高浦、桑原両氏を誘い出かけることになった。9時からのステージなので7時半ごろ出発という予定であったが、何を勘違いしたか高浦さん、日頃浴びたことのないシャワーを浴び、めかし始めた。この辺から予定が狂いだし、8時にやっと乗ったバスがとんでもなく遠回りして行くバスで, 開演に間に合うかどうか気が気ではない。メキシカンの運転手にレスターに教わったバスストップ名を言ったら「座っていろ、任せておけ!」。そのうち昨日見なれたトゥビドゥアをも通り越してしまった。「ここだから、次ぎのバス停で降ろしてくれ」というと、「このバスはすぐそこでUターンしてくるから、そのまま乗っていろ」という。後部座席の二人にその旨を伝えたが、バスはなかなかUターンしそうもない。僕よりも英語の達者な桑原さんが来て、もう一度たしかめるが「すぐそこでUターン」を繰り返すだけ。時計は既に9時を廻っている。さっきのバス停で降りて歩いていたらとっくに着いていた頃である。南米帰りの二人はすでに諦め顔で言う。「君、この手の顔をした人達の言う事はまともに聞いてはいかんよ」こうなると僕らもメキシコでバスに乗っているつもりで待つよりしょうがないということである。

さらに10分ほど走ったバスはやっとUターンしたが、今度は「ここからは回送車になるから、乗客を乗せていてはまずいので、外から見えない様に伏せてくれ」という。車内の灯りも消され、身を低くして、目的地に着くのをじっと待つ。ちゃんと料金を払った客なのに、なんで隠れなければならないのだ!なんてバスだ!と腹を立てながら9時40分にやっとトゥビドゥアに駆け込んだ僕らは, それでも音楽で慰められ、それなりに納得して真夜中に帰って来たのであった。

                                     

僕がアメリカに入国してから1ヶ月がすぎた。最近, 桑原さんのエバンス語学学校での成績は上昇の傾向を示し、「今回のテストでも抑え気味にしたんだけどね、つい実力がでてしまって」と余裕を見せる。その彼の読んだ本に依ると、『30を越えて語学をマスターしようというのは、狂気の沙汰である。』そうであるが、彼曰く、「その理論は僕には通用しないようだね。なにしろ日本語を話そうと思うと、僕や高浦氏はまずパッとスペイン語が頭に浮かぶ、それがパッと英語に変わり、考えながら日本語に翻訳し、やっと口から日本語がでるからね」とのこと、そう言えば彼の日本語はぼそぼそと英語から日本語に訳しているような日本語であるが、スペイン語もその前に入っていたとは知らなかった。早い話が、長い南米暮しで日本語を忘れ、不自由になっているようである。「さすが、教養がありますね」「うん、今日 用があったんだけどね」などと言う寒いジョークをいっていたが、あれはジョークではなかったのかも?

桑原さんが通うエバンス語学学校を3年前、南米に行く前に, 優秀すぎて飛び越えたと自称する高浦さんも、「辞書に載っていない、分からない言葉があったら聞いてくれたまえ」と逃げを打っている。やはり、桑原さんの読んだ本の理論は正しいように思えてならない。なぜならば20数年間学んできた日本語を2−3年の南米暮しで忘れてくるくらいであるから、いくらエバンスで優秀でも、2−3年ですっかり忘れてしまう事は明らかであり、すでに証明済みの事実であるように思えるからである。

それでも両氏はアメリカに来て日の浅い僕と比べ、遥かに話せるし、書ける。学校に行っただけの成果は当然身についている事はいうまでもない。夜、桑原さんの部屋に行き毎日単語を2つ3つ、教えてもらう。桑原さんはその日学校で習ってきた語句の中から自信をもって教えてくれる。語学はそんな地味な努力を続けて行くもので、近道はない。でも、そのうち僕が日本語を教えてやらなければならない日もそう遠くない気もする。あ、その頃には僕の日本語も怪しくなっているかもしれない。

シアトルからシアトルさんこと貞やんが何やら訳の分からない木の株を背負って帰って来た。僕は初対面であるがすでに松島ホテルでは有名人で何度も話しは聞いていた。桑原さんと利子ちゃんを巡って、ひと悶着起きそうな気配である。でも所詮は二人とも三角関係の成り立ちようのない片思いであるから、顔で笑いながら相手の出方を見ているだけという、いったって静かな戦いであろう。貞やんは第一印象としては堅物、堅気の学生で堅い話以外は出来ないといった感じの人で、「えー、噂に聞いていたのとかなり印象がちがうな」 と思った。第二印象は「結構柔らかい話にもついて来られるじゃないか」と、そして第三印象は、「彼の見てくれからの印象に騙されてはいけない、彼に対する見方を根本的に改めねば」と思った。単にちょっと人見知りなだけで、親しくなるにつれどんどん人格が落ちて行く。済ました顔をしながら、純情な僕など赤面するような話しを平気でする。それで終わりかと思うと彼の場合その上さらに話しをもう一つ落としてくれるので赤面を通り越して抱腹ものである。

貞やんも桑原さんのいるエバンスのレベル6のクラスに通うことになった。そのレベル分けの試験では先輩である桑原さんを追い抜いてはいけないと、実力をかなり抑えたそうである。ともかく、桑原さんと同じクラスに入った、その日から桑原さんに対し、強いライバル意識を持ったようである。エバンスでは週に2回ほど学力試験があるが、貞やんも毎日、夜は桑原さんの部屋で過ごすのが日課になっているから、午前2時ごろ自分の部屋に帰ったときから彼らの勝負は始まる。それまでは互いに勉強には関心がないような顔をして、相手を牽制しているが、その後、部屋で結構勉強して相手を出し抜こうとしているようである。そんな努力のかいあって、試験の結果の評価が、桑原さんAプラス、貞やんAマイナス、という成績が何度か続く。桑原さんも「僕のAプラスは毎度のことで、これが普通だからね。」などと言っているがライバルに負けぬため、久しぶりに身を入れて試験に臨んでいるようである。

一方、貞やんは最初の2回ほどの試験で体力、気力を使い切ってしまったのか、その後の成績は後退の一方である。成績はDが多くなり、こうなると学校も面白くないようで「桑原さんの席の近くにはきれいな女の子がたくさんいて話しが出来るのに、僕の近くは話しもしたくないブスが一人いるだけだもんな」とクラスでの勉強の環境にまで異議をとなえる。桑原さん、今日も学校から帰るや、貞やんに「今日の試験で、帰国の目処が付いたんじゃないかね?」とたたみ掛ける。

成績で優位に立っている桑原さんにも一つ弱点がある。前に書いたように、収入がないため、経済的危機状態にあり、数日前ついに「学生ビサの書き換えのため日本からの送金証明書が必要だ」というもっともな理由を付けて、ついに2年ぶりとやらで「32歳にもなって」と仲間に散々言われながら、実家に電話を入れ送金を頼んだ。そのお金が、いまだ桑原財閥からつかず、筒抜けの僕らの情報に依ると、彼の持ち金は今や7ドルである。よって貞やんにこの所、毎日の様に「といち(10日で一割の利子)で金貸しましょうか?」「カセットラジオ5ドルで買ってあげましょか?」とうっぷんを晴らされている。桑原さんは「うちは今や弟も医者だからね、財閥がついているから、もうすぐ頼んだ以上の大金が届くから見ていてくれ」と自分で自分の不安を打ち消すのに余念がない。


                              


最近は松島ホテルグループの外にあっては、塩見先生の英会話クラスで出会ったメキシコ帰りのノブやんとアメリカ人で日本語ぺらぺらのレックスと3人で行動する機会が多くなった。ノブやんはメキシコで1年ほど碁石やボタンにする貝殻をとって日本に送る会社で働き、最近ロスに入ってきた九州男児である。レックスは英会話クラスに来てくれるアメリカ人のゲストの中でも、とりわけ日本語が上手いカリフォルニア州立大学の学生である。沖縄に一年間、軍の関係で滞在していたことがあり、沖縄弁も流暢に話す。これが僕らにとっては英語以上に異国の言葉で、沖縄弁は一言も理解できない。つまりレックスは実際に沖縄にいたのはわずか一年だというのに、日本語の他に沖縄語というもう一つの言語もマスターしてしまった言語の達人である、ときたま見事な英和・和英の同時通訳の技を見せてくれるのであった。

ところで、塩見英会話クラスでは金曜日だけ、アメリカ人に対し塩見日本語クラスを開いている。つまり、日頃ゲストとして僕らに英語を教えてくれるアメリカ人を中心に、週に一回、逆に日本語を教え、日本人の僕らがゲストとして彼らを助けるのである。レックスの大学の友達で、その日本語クラスに通うクレアとジョンにビーチパーティーに誘われた。二人が僕を朝、迎えに来てくれた。本当はレックス、ノブやんと一緒に出かける予定であったがレックスが寝坊している様なので、先に出発することにした。有名なロングビーチからさらに南に下った、ボルサチカビーチと言う所であった。時が経つにつれ、何処からともなく、仲間が海岸に集まってくる、キャセイ、リサ、アキコ、ノブコ、ケイ等、名前を覚え切れないほどの人を紹介される。以前見た顔もあるが、ほとんどが初対面の人達である。レックスのバイクに相乗りしてノブやんもやって来た。ボールが取り出され、砂浜でアメリカンフットボールが始まる。そしてバレーボールと、裸足で砂の上を転げ回る。砂だらけになってボールを追う。幼い日に泥んこになって遊んだ日を思い出し、たまらぬ満足感がある。

波の音を聞きながら久しぶりに汗を流し、何度か砂の上に倒れた頃、真っ赤な太陽が海に沈む。赤い空がボールを黒く浮かび上がらせるとゲームセット。砂浜に海に平行して幾つかのバーベキューの設備が作られている。そんな一つで焚き火を囲み持寄りで集まったホットドック用のソーセージをハンガーを壊した針金で刺して焼いて食べる。ピザが出され、ビールが出されパーティーは夜中まで続いた。

アメリカ人はパーティーが好きだというが、これが僕の始めてのパーティー・デビューであった。クレアとジョンの大学の卒業式に招待され、その後しばらく週末ごとに彼らの仲間が方々で開く卒業パーティーに招待されることとなる。

                                     


桑原さんと貞やんは最近利子ちゃんに彼氏がいることが分かリ、タバコの空箱集めも身が入らなくなっていた。先日ついに利子ちゃんからも「もうタバコの箱集めないの」といわれ、実質的な失恋状態にある。特にタバコの空き箱集めを唯一の趣味としていた桑原さんは、すっかり生活のリズムを崩し、桑原財閥からやっと送金が届いたとは言え、はりあいのない毎日を送っていた。

やはり生活上、そのような“はりあい“といったものが必要だと見え、桑原さんは同じクラスのフランス人イザベラのことを口にしだし、貞やんは、やはり同じクラスの、彼の言う所の「財閥の娘」(新車に乗っているという理由だけで財閥になってしまった)が気になるようで、頻繁に、その人の事を聞かされるようになってきた。貞やんは時にはイメージの世界に入りこみ、一人二役をこなして恋を語り合っている。そのくせ学校で本人を前にすると一言も話せないと言う状態で、最近まで彼女の名前すら知らなかった。向かいのアランホテルに住む同じクラスの友さんが、彼女の名前と電話番号を知っていて、教えてもらった次第である。彼女の名前は、うまく出来た話しであるが、恋しい、恋しい「小石さん」である。名前はともかく、電話番号を必要とする事態まで発展するとは思えないのであるが、この先が楽しみである。

さて、僕も二人の学校の話しを聞くにつけ、彼らのクラスに対する興味が湧き、噂の人物を実物として見るために、オブザーバーとして授業参加させて貰う事になった。学校に行くと貞やんは「財閥の娘、小石さん」の前、以外では、イメージの世界でうわごとを言うくらいであるから、他の学生の間では相当に有名な話しになっているようで、彼らが貞やんのためにいろいろ動いてくれる。

その日も会話の時間に、5名くらいずつのグループに分かれてする授業があった。小石さんのいるグループには、たまたま一人も男性がいなかったので、皆が「そっちにも男性が少し入った方が良いだろう」と貞やんを小石さんのグループに入れようとけしかける。貞やん、照れるばかりで僕に一緒に行ってくれと言う。僕が一緒に動いて小石さんのグループに加わると、程なくして廻ってきた先生が「このグループは人数が多いね。小石さん、よかったらあちらのグループに」おい、先生それはないだろう、と言えるはずもなく、貞やん、初めて彼女と席を隣にしたのに、わずか1分で仲を裂かれてしまったのであった。

向かいのホテルの友さん、そんな貞やんにすっかり業を煮やしてしまって、小石さんに興味のあるそぶりを見せる。よって真夜中に2番街を挟んだ、それぞれのホテルの前で、貞やんがブルスリー風の空手の練習をし、柔道の黒帯び保持者である友さんが柔道の投げの型を披露するという、互いに牽制しあう光景を、時たま見かけることとなった。

片思いの努力もこれだけ宣伝すると時に実る事もあるのか、彼女との共通の趣味がギターらしいと分かり、周りの者が「ハリウッドの楽器屋に誘って、週末に一緒にギターを見に行ったら?」といったな事をそそのかしたようである。貞やん、すっかりその気になって例によって「ハリウッドから海に誘って、ロマンチックなムードを作り、リトル東京に送ってもらい、寿司屋に入り、少し日本酒でも飲ませ、ほんの少しと部屋に誘う、そして後ろ手でドアを中からロックして……….」と頭の中ではストーリーはすっかり出来上がっている。後は現実をいかにこのイメージに近づけるかである。その週末が来て金曜日、まずはその弟一歩、貞やん皆に突つかれて、使うことがないと思っていた小石さんの電話番号を廻す。やっとの思いでかけた電話の返事は「あら、ごめんなさい私空いていないの」とけんもほろろ。すっかり落ち込んだ貞やん、もうすぐ夏休み、恋しい小石さんへの思いは次ぎの学期に持ち越されるのか、それともこれで終わるのか?『貞やんあきらめるな、どうせ振られるなら、もっと楽しませてくれ!』、僕って冷たい?だって面白いんだもん。

                                      


リトル東京も8月に行なわれる盆踊りの練習がはじまり、夏らしくなってきた。季節の変わり目か、僕の周りも小さな変化が続く。桑原財閥から待望の送金をうけて以来、裕福に成った桑原さんは、夏休みになり、ニューメキシコ州の友人の所へ1ヶ月ほどの予定で旅立ち、僕の働くレストランでもチーフが変わり、鬼のチーフから仏のチーフへとバトンタッチがなされた。今まで鬼チーフの前で大人しくしていた僕らも「オーダー入れます、ヤモリの黒焼き一丁!」などと冗談を交わしながら楽しく仕事をしている。

松島ホテルの外にあっては、アメリカ人の友達も増えたが、彼らと話す時の言語は複雑である。レックスと僕が話す時には難しい話は日本語で、大概は僕が英語で話し、レックスが日本語で答える。あるいは、レックスが英語で話して僕が日本語で答えるというパターンが多い。そんな形でお互いに日本語と英語を教え合っている。英語よりスペイン語の方が得意なノブやんはスペイン語の話せるジョンと話す時はスペイン語で話す。そして少し日本語を勉強しているキャセイと話す時は日本語と英語のチャンポンである。その他はだいたい英語で話すが両方の言語をほぼ完全に理解出きているのはレックスしかいない。よって込み入った話の時はレックスが間に入り、たとえば僕が話し始めるとまだ話し終えないうちに英語に翻訳して話し始め、同様に相手の英語も耳で聞きながら口からは訳された日本語が出てくるという見事な同時通訳をやってくれるのである。こんな仲間のおかげで僕の英会話も随分進歩し、楽しいアメリカ生活を過ごして来られた。ディズニーランド、ピクニック、ミニゴルフ、初めての乗馬、数え切れない思い出を作ることが出来た。
しかし、いよいよ僕もロスを離れる時が来た。貞やんが夏休みになるのを待って、一緒に中南米へ行く事にしていた。僕にとり『イェローサブマリン浮上計画実行の時』である。その後貞やんはロスに戻るが、僕はニューヨーク経由でロンドンに行き、学校に入る予定だ。しかしメキシコ・シティーで受け取る手紙によっては、ロスに戻る事もあるかもしれないという気持になっている。

旅立ちの前夜、クレア、ジョンの仲間達にダンスに誘われた。全員が僕にプレゼントをくれた。バスの中で食べるお菓子、僕の何時も吸う銘柄のタバコなどなど、そしてカードには『ロスには何時でも貴方を向かえてくれる友達がいる事を忘れないで。何時かまた必ず戻ってきてください』と書いてあった。

有難う素晴らしい思い出と友情。何時かまた会える日までお元気で。

                              


7月4日、アメリカ独立記念日の午後、ダウンタウンのグレハンのターミナルまでノブやん、友さんが見送りに来てくれ、予定通り貞やんと二人、南に向け旅立つ。

サンディエゴから国境を越え、メキシコの町ティファナに入る。入ったとたん極端に英語が通じなくなり、今まで無口で同じバスに乗っていた人達まで、スペイン語で賑やかに話し出した。見渡す所、スペイン語がまったく話せないというのは、僕らだけのようである。案内所で英語を使ってみるがまったく通じない、これはヤバイ、もっと桑原さん、高浦さんからスペイン語を習っておくのであった。なにしろ案内所でも英語が使えないということは、得意の読心術に頼るしかないという事である。それと女性からの微笑みが怖い。高浦さんの忠告によれば、メキシコ等、カソリックの中南米の国で、女性の微笑にずるずると引きずり込まれて理性を失った行為に走り、その女性の、親、兄弟に取り囲まれ、強引に結婚させられ、その地に住みついてしまった日本人の男が方々にいるそうである。おー、蟻地獄のような怖い話だ。

ティファナで、次ぎの下車地のことをバス会社の人に聞くが、どうも様子がおかしい。苦労して英語を話せる人を捕まえて、僕らの持っているチケットについて聞いてみると、メキシコシティーまで乗り降り自由と思って買った切符は「途中下車可とチケットに書いてないからノンストップでメキシコシティーまで行かなければならない」という恐ろしいものであった。52時間、鮨詰めでバス詰という気の遠くなる旅の始まりとなってしまった。途中下車してチケットが無駄になるのではしょうがないと覚悟してバスに乗り込む。

ティファナからのバスの運転手はメキシコ人の大男と、チビの口ひげ男のコンビであった。まず大男がハンドルを握る、狭い道をブンブン飛ばす。6時間ごとくらいに二人は交代しながら運転するが、チビひげ男は、直径が50センチはあろうかというハンドルにぶら下がるようにして運転しているので、見ていると思わず「おい、おい 僕らはこんなのに、命預けなくてはいけないのか?」と、お祈りが出てしまいそうである。なにせハンドルを廻しているというより、ハンドルに振舞わされているとしか見えないにである。「桑原、桑原」、と桑原さんにお祈りしてどうするのだ。この運転手、こんな格好で狭い道を100キロくらいで飛ばして行く、僕の読心術によれば、“チビひげ”はどうも大男の方のドライバーに対抗意識を持っているようである。そんな事が一番前の席に座ってしまっていた僕らには、見ようとしなくても見えてしまい思わず、前の手摺を握り締めてしまうのであった。

二日目の夕刻、暗い空に稲妻が走り、やがて重い雨が降ってきた。窓の外を雨は激しく打ち続けている、いく筋もの雨が窓を伝い対向車のライトに光る。うーん、ワイパーもあまりよく利いていないようである。外は先ほどの雷で停電したらしく、家並みすら闇に包まれている。

ドライブインらしき所で、ロウソクの灯りで夕食を取る。中近東で地面に座り、ロウソクの灯りで食べたチャパティの味を思い出す。あの時『トイレは何処だ』と尋ねたら、だまって裏の林を指差され、裏の林に行ったがトイレらしい建物は見当たらない。しかし、足もとの地面に掘られた穴から漂う匂いに、すべてを理解したのであった。ここは電気があっての停電であるから、まだ中近東と比べたら文化的か?しかし、これからの旅はアメリカのようにはいかないだろう、異なった文明の中を行かなければならないのだと、気を引き締める。同時にそれを不便とせず、旅として受け入れ楽しむ余裕が欲しいものである

2つ目の朝が来た、そろそろ腰と首が痛くなってきた。真っ黒な空の一端がかすかに紅く染まり、夜明けの始まりである。やがて黄金色に輝いた空から、太陽が顔をだし、周りの景色が優しく暖かくなって行く。
バスは時たま30分程の休憩を取りながらメキシコ・シティーへと走る。ずっと砂漠を走っていたバスは何時の間にか、緑いっぱいの山の中を走っていた。

                                     


52時間のバスの旅はやっと終わり、途中から知り合った、日本人のヒデと、スイス人のポールと供に、メキシコ・シティーの安宿に荷物を降ろす。ポールは、既に6年くらい世界中を旅しているベテラン旅行者である。翌日から、彼らと市内・市外観光をする。
壁画で有名なメキシコ大学は、オリンピック・スタジアムと道路をへだてた、すぐ近くにあった。よく整備されたキャンバスはラテンアメリカ中のエリートが集まると言う。そしてメキシコの誇る、人類博物館に行った。ここはマヤ文明、テピカド文明などメキシコの歴史で重要なものはもちろん、世界の民族の生活様式などが、歩いて見て廻ると32マイルになるという広大な場所に展示されている。

館内に入ってすぐポール、ヒデと館内ではぐれ、貞やんと二人で廻ることとなってしまったが、後で思えばそれが一日の災いの始まりであった。見学中にすごい米国美人を見てしまった僕らは、博物館見学のはずが彼女のすぐ後ろを同じ速度で観覧するという美人見学になってしまった。とりわけ貞やんは一目で虜になったようで、先ほどから口に出す事といえば前を歩く彼女のことばかり。その彼女アメリカから観光で来ている様であるが、身長は175センチくらいで育ちの良さそうな、すごく整った知的な顔をしている。つまり見るからに貞やんとは関係のない人生を送り、これからもまったく関係ないだろうという顔をしているのであるが、それでも貞やんは「いやー、彼女はいいねー。後ろ姿を見ているだけで幸福を感じるというか、興奮を感じるよ」と離れようとしない。また何時もの悪い空想癖が出たのか、博物館を出てもイメージの世界に没頭しているようである。歩いても、地下鉄に乗っても、目は宙を見つめているようである。

そんな彼がこちらの世界に戻ったのは地下鉄を降りた時であった。ふと気が付くと、彼の持つショルダーバッグの口が開いていたという。「どうもパスポート、トラベラーズチェックなどすられたようだよ。」と正気に戻った彼が言う。「なにー!」そう言えば、僕もすっかり疲れ切って自分のバックに注意を払っていなかったが、彼は、その上にさらに空想の世界に入っていたのだから、たとえ目の前で自分のバックが開けられても、気が付かなかったかもしれない。ポールがいたら、こんな時かならず荷物に気を付ける様、注意してくれるのだが、博物館に入ってすぐ、はぐれた彼とは別行動であった。そういえば、地下鉄の中で3人ほどの男が、貞やんを取り囲むように乗っていたのを思い浮かべる。もとを正せば、彼のあらぬ空想癖が災いしたのであるが、なにせ目が宙に飛んでいたのだから,スリにとってみればこれは、仕事をやり易い鴨と見えた事であろう。時すでに遅し、彼はパスポート、トラベラーズチェック、バス15日間のチケット、ロス東京間の航空チケットを失ってしまった。

すでに、いろんな手続きをするには遅い時間である。「アシタ・マニアーナ(また明日)」の国メキシコである。すべての手続きは明日の朝からやることとあきらめ、青くなってホテルに戻ると、ここにもう一人あたふたと青くなって騒いでいるヒデがいた。彼の話しを先に聞こう「ポールとはぐれて一人でホテルに返ってベッドでうとうとして、ふと気が付くと13−14歳の子供が一人部屋に入っていた。どうせ良からぬ事をしようと入ったのだろうと『この野郎―』と怒鳴りつけると『シーガレット・シーガレット』と言う。タバコが欲しいだけで勝手に部屋に入ってくるかよ、とは思ったが、言葉が通じないし、何も持っていないのを確かめてから部屋から追い出した。その後もう一度部屋でなくなった物がないか調べると、カメラがなくなっているのに気づいた。子供はなにも持たないで出たし、何処かに隠してあるに違いないと、散々捜して、ついにカメラが窓の下の中庭に、投げ出されているのを見つけた。3階から投げ落とされたカメラは、中の反射鏡が割れて使えなくなっていた」ということであった。

なんとも大変な一日であった。まもなく戻ったポールに話すと驚くやら呆れるやら。ヒデは中古の一眼レフだけで3万円ほどの被害で済んだが、貞やんは新しいパスポートを再発行してもらうのに2週間はかかるであろうし、その間メキシコから他の国に出られない。日本までの航空チケットは無効になってしまいそうだし、一緒になくしたアメリカのビザをメキシコで取るのはほとんど不可能に思える。彼は今アメリカで学生ビザを申請中なので、その記録が移民局に残っていれば、それが唯一アメリカに再入国する時の望みとなってしまった。状況を理解するにつれ、事態は深刻であることが分かる。ともかく新しいパスポートが発行されるまでユカタン半島を旅して廻り、2週間後くらいにメキシコ・シティーに戻ってパスポートを受け取ることにする。

翌朝から一日も早くパスポート再発行の手続きをしてユカタンに向かいたいのだが、壁はやはり『アシタ・マニアーナ』か?一番てこずったのは、警察で出してもらう紛失証明書である。単純に警察署に行って書類を作ってもらって、と思っていた僕らは最寄りの警察署に行くと、「ここでは出せない」という、では何処に行けばいいのか、聞く人、聞く人が全部違う所を教えてくれるのである。タクシーを飛ばして一日中、6ヶ所ほど、警察省、外務省、旅行局などをたらい廻しされる。その合間にアメリカン・エックスプレスにいってトラベラース・チェックの再発行を受けたりで、疲れ切って怒る元気もない。かって、高浦さんが言った『君、この手の顔をした人達の言う事をまともに聞いてはいかんよ』といった言葉を思い出す。結局、日本大使館に戻って、大使館員から場所を教えてもっらて、証明書を発行してくれる警察本庁の落し物係に着くことが出来たが、すでに夕方6時を廻っており、一日の締めくくりはもう一度「アシタ・マニアーナ」で明日行けば紛失証明書を出してもらえそうな所まで、たどり着いたのであった。

日本大使館の人によれば、パスポート紛失者は皆そんな経験をしており、「一日かかってトラベラーズ・チェックの再発行を受けれただけでも、この国では奇跡的な早業でしょう」というのであった。なにしろ、くどいようだが「アシタ・マニアーナ」の国、急ぐ我々の方が、いけない事をしているような気になってくる。

 ティオティアカンにて、左から貞やん、僕、ポール

                            

翌日の朝、やっと日本大使館にパスポート再発行に必要な書類を出した僕達は、ヒデと別れ、ポールと共に最初の目的地に決めたオハカに向かって旅立つ事が出来た。今までにもヨーロッパでスイス人と旅をした事があったが、お国柄か彼らは皆、旅が上手い。ポールも国を出てから既に6年半、働きながら旅を続けており、僕より2歳年上であるし、旅に関しても格の違いを感じさせられる。
なによりもその語学力には舌をまくばかり。ドイツ語、フランス語、英語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、必要に応じてその辺の旅行者、現地の人と相手の言語で話せるのである。英語は彼が言うには3番目くらいの言葉のはずだが、ほとんど英米人と変わらず読み、書き、話すことが出来る。彼の語学力にはスペイン語を話せない僕らはお世話に成りっぱなしであり、その上英語の勉強にもなるのだから、良いパートナーに会ったものである。

さて話しが前後してしまったか、メキシコ・シティーでのごたごたの間、日本大使館で日本からの手紙を受け取った。9月にはロンドンで会おうと言っていた後輩の酒井からの手紙で、父親の具合が悪くなりロンドンに行けなくなったという内容であった。すでにある程度予想していたことなので、これで心は決まった。しばらく中米を旅行した後、貞やんと一緒に仲間の待つロスに戻ることにした。

遺跡巡りはメキシコの旅でも興味深いハイライトである。アステカ文明、ザポテク文明、マヤ文明、これらはすべて、かってこのメキシコの地に現れ、栄え、消えて行った文明である。

そんな昔の繁栄と文明の弱さを今に伝える遺跡群、石で造られた神殿やピラミッドは数百年の風雨に叩かれ忘れ去られていたが、現在、主要部分は修理復元されて観光地となっている。しかし、まだ多くの遺跡がジャングルの中に埋まり続けているという。石だけで積み上げられた50メートル近い高さのピラミッド神殿を中心とした街並、文字をもち、数字をもち、カレンダーを持ったこれだけの文明が突然滅び去った理由は、今だ謎に包まれた部分が多いという。造るのに数万人の人間で数年間かかるというテオテワカンのピラミッドなどをみると、エジプトのピラミッドにも似て、よほど管理された社会があり、政治、経済の基盤を持っていた文明でなければ出来ない大事業である。そして、少なくとも一人の、とんでもなく頭の良い指導者が居た訳で、そのあまりの特出した能力に宇宙人説などが出てくるのもうなずける。そんな事を思いながら急勾配の長い石段を息をつきながら登ると、重い石を運んだ人々の息遣いが重なり聞こえて来そうである。そして数百年の間、変わらないのは強烈な太陽の輝きである。汗を流しながら石段を登りつめると、ジャングルの上を走る風があった。そして石造りの内部は思いの他ヒンヤリと涼しい。

オハカからパレンケ等の遺跡を巡り、ユカタン半島のマヤ文明最大の遺跡、チェチェンイッツアに入る。ここにも大きなピラミッドがあり、上に登るとあたりは一面熱帯雨林のジャングルであり、そのジャングルの中に所々荒れたままの遺跡群が顔を出している。他に見えるものは地平線の彼方まで360度の視界がジャングルである。この中にはまだ人知れず眠る遺跡が数限りなくあるそうだ。このチェチェンイッツアのピラミッドから数百メートル離れたジャングルの中に生贄を神に捧げたといわれる池がある。水面まで20メートルほど、水深はさらに数10メートルあるという。周りは緑や黄色の美しい羽根を持つ鳥と姿を見せぬホエザルの鳴き声に包まれ、美しい蝶が舞っている。空気が熱く、水面は昔のままに静かであるが、その自然の静寂を破る者は水面を泳ぐ一羽の場所をわきまえぬ鴨と、周囲の鳥の鳴き声を誘おうと時々発するポールの奇声だけである。

パレンケの遺跡にて
パレンケの遺跡                      チェチェンイッツアにて

遺跡のある所はかなり観光ずれしており、場所によっては、物売りの子供たちが周りに集まってくる。そんな物売りや、土産物屋で買い物をする時、彼らの言い値をどこまで下げさせるかのやり取りがまた面白い。たとえば彼らが50ペソといったらこの辺では20ペソまでは下がるようである。時に時間つぶしのからかいのつもりでうんと安値を付けたら、本当に向うが下げて来て、欲しくもない物を買わなければならなくなったこともあった。僕らの間でも同じ物を違う値段で買うケースがあり、後で喜んだり悔しがったりする。僕が50ペソで買った小さな石像を貞やんは62ペソで買い。僕が110ペソで買った太陽をデザインした銀の指輪を彼は75ペソで買ってきた。さすがにポールはよほど気に入った物でないとめったに買わないので、僕や貞やんの様に衝動買いで悔しがることもない。

                             

「洗うと切れるから」とずっと洗わないでいたポールのジーパンがとうとう膝の所から口を開け始め、修理の見とおしがたたなくなり、ホテルのゴミ箱入りした。僕らはユカタン半島の端から船で一時間ほどの所にある「ISLAND OF WOMEN (女島?)」というなにか期待させるような名前の島に行くためチェチェンイッツアを離れる。バスで3時間ほど走って島に行く船の出る小さな港町に着く。レストランで食事をしてホテルを捜すが見つからない。貞やんとここに来る途中で出会った井上さんが野宿の場所捜しに行く、僕とポールは次々に襲ってくる蚊と戦いながら荷物の見張り役である。やがて帰ってきた二人が「海岸はほとんど軍用地で入れないが、桟橋なら蚊もいないし涼しく寝れそうだ」という。渡し舟は翌朝5時の出発である。桟橋に荷物を置いて月光に光る静かな海を見ていたら釣りがしたいなと言うことになり、さっそく行動に移す。小さな売店で釣り針と糸を買う。桟橋に居た5人ほどの地元の若者達が仕掛けをつくってくれた。さらに僕の読心術と彼らの手振り身振りに依れば「重りは俺が持って来てやる」とか「餌は俺が調達して来てやる」とかと言ったのだと思うが、若者が何処かで色々調達して来てくれて僕らが何もしないうちに釣りの用意をすべてしてくれた。

やがて桟橋からきらきら光る水面にポチャン、ポチャンと仕掛けを投げ込む事、数10回、魚に餌をくれてやる事、数10回、無料奉仕に疲れた僕らは波の音を聞きながら横になった。セメントの堅い寝心地の悪さと人声で、朝暗いうちから目を覚す。
船は朝5時薄暗い中を僕らの寝ていた桟橋を離れウーマン島へと出航した。


一時間ほど海底まで見える美しく澄んだ海を航海してウーマン島に着く、名前のとおりなら昔はカリブの海賊が略奪してきた財宝や女性を隠していた島なのかもしれない。この島も今は観光地でありホテル代は驚くほど高い。そこで井上さんが噂に聞いたという一泊20ペソのスリープインを捜すため、ポールが得意の語学力を活かしていろんな国籍の旅行者から情報を集めに行く。何しろ彼は話し好きというか、旅行者を見れば片っ端から話しかけ、相手が何語を話そうが相手の言葉で話せるから、情報を聞き出すには最適任者である。今まで唯一、彼が言葉で不自由しているのを見たのは日本語だけであるから、僕らは語学に関しては、現在この辺の中米旅行者のなかで最強のパートナーだと思うのである。ただしポールも男女の旅行者がいれば女性の方に行くし、女性からは必要ない情報も聞き出そうとするので、話しが長引き、僕らは横で閉口していたりする。
首尾良くスリープインにチェックインした僕らは荷物を置いて海岸に出る、ここは幅が200メートル位しかない細長い島なので島の何処からも海岸まではすぐである。珊瑚で創られた木目細かな真っ白い砂と、椰子の木、すき透った数色に輝く海、青い空と強烈な太陽、沖合いに浮かぶ白い夏雲、形容すればそんな島である。遠浅の青く澄んだ海で泳ぎ、白い砂の中から貝殻を捜す。50メートルほど海岸から離れても腰くらいしか水深がなく、青い空を映すきらきらと輝く澄んだ水の中に真っ白な砂と自分の足がはっきりと見える。こんな真っ白な砂浜は始めてである、あまりの美しさに時間を忘れて転げ回てしまった。その後場所をかえて、宿の近くの桟橋で、先日作った仕掛けで釣りをする。40センチほどもあるカマスの仲間が釣れ、釣った魚を焚き火で焼いて食べる。

夕方アメリカ人のジョンと椰子の実を採りに行く、4メートルほどの高さの所に椰子の実が生っているのだが、椰子の木は掴む所がなくてなかなか登りにくい。それでもようやくナイフを咥えて登り、数個の椰子の実を落とし、まずは中の汁を飲む。甘酸っぱい椰子の汁で喉を潤す。その殻をさらに割るとココナツが出てくる。ココナツは植物性油で出来た殻の内側の白い層で独特の味がする。

久しぶりにゆっくりとした時間が過ぎ、島での4日目の朝、昨晩からのポールの提案で朝6時、まだ光線の弱いうちに泳ぎに出る。朝の海はまだ冷たかったが、海は今日もすばらしく美しい。僕らとしては早く太陽に顔を出して欲しいのだが、やがて雨が降り出した。すぐに止むだろうと思っていたらなかなか止まず、かえって土砂降りになってきた。それでも環礁に囲まれた海辺は小さな波しかない。8時近くなって雨をシャワー代わりに宿に帰ると廻りの者が「この雨の中を何やってんだ」という眼で見ているのが分かるが、今までのかんかん照りの海とはまた違った味があり、雨の降る白い砂浜での椰子の実を使ったキャッチボールは気持ちのいいものであった。

その後も一日中雨降りであった。30人ほどの人間と、数匹の犬と猫は雨の中、外に出る事もなく音楽を聴いたり、チェスをしたりして時間を潰している。なかでも、産まれたばかりの一匹の子猫はこれ幸いとばかり暇な人達の玩具にされている。やっと開放されたと思うと、もう次ぎの人に片手で持ち上げられ、引っ繰り返され、なでられ、突つかれしている。子猫にとっては災難な一日であったことだろう。夕方には雨も上がりいつもの様に散歩に出る事が出来た。雨上がりの海が光り、椰子林の中を歩くと、すがすがしい涼風が体を吹き抜けるようであった。

翌日の午後、僕ら3人はまだ昨日の嵐が影響しているのか少し荒れ模様の海を来た時と同じ20人乗りほどの渡し船でウーマン島を離れる。小さな船はかなり揺れ、もう少し長時間だったら船酔いする処であった。乗り物に強い僕でもそうなのにメキシコの人は乗り物酔いをしない人種なのであろうかと思ってしまう。この船の中でも、今までのバスの中でも酔っている人を見た事がないから不思議である。キャビンの中では船長らしい男がワインを飲みながら仕事をしている。

彼はすでにかなり酔っているようである。

                              

バスに乗り換え、ユカタン半島の東側、トゥルムでバスを降り、宿とは名ばかりのテントで一夜を明かす。ベッドが二つしかなく一人は簡単ベッドに寝なければならない。僕が中近東で仲間とやっていたように、こういう時はあみだクジで決めるのが僕らのルールである。前回同様ポールが貧乏クジを引いた。そして前回同様あみだクジにはなにかカラクリがあるのではないかと、しばらく考えていたポールも今回から納得してくれたようである。

翌朝、海岸にあるトゥルムの遺跡を見て、喉の乾いた僕らはウーマン島での様に近くに椰子の木を見つけ椰子の実を落とす、その後すぐ『椰子の実採るべからず』の立て看板を見つけたがすでに遅し、遺跡の影に移動して堅い殻にナイフで穴を開ける作業に取り掛かる。やがて殻は破られ祝盃をあげる。掲示はもっと見やすく、分かり易く示すべきである。とは言っても、ポールがいなければ読めないで気づかなかったことだろう。

トルムの海岸ここの海岸線も美しい、道路から少し歩くと海岸に出るが、その途中で30センチもあるトカゲを見た。幸いこれまで有名な毒へび、毒蜘蛛、毒さそりの類には、車に轢かれてカゲタカに食われる寸前の蛇と、5センチ位の干乾びた蜘蛛以外出会っていない。

ここの海岸もウーマン島に引けを取らず白い砂が美しい。300メートルほど沖合いに砂浜と並行して走る環礁に砕ける白い波が青い海に眩しい。半日をこの海岸で過ごす、これでしばらく海で泳ぐ機会もないであろう。

ユカタン半島の東側をさらに南下して行くと、メキシコとペリーズ(ブリティシュ・ホンジュラス)の国境の町チェツマルに着く。ここは真直ぐ南下するポールと貞やんのパスポートを受け取るためメキシコ・シティーに戻らなければならない僕らの別れの地点でもある。

今までポールのスペイン語に頼ってきた僕らは、何時もの様にポールにチケット買いに付き合う様に頼むと「これからは君達だけでやらなければならないのだから、やってみろ」と今日は冷たい。貞やんとバスターミナルに行って、アンチョコと首っ引きで「学割はあるか?」「メキシコ・シティーに行くバスは何時に出るか?」「1等と2等はそれぞれ料金はいくらか?」などと必死の形相で聞いているとポールが来て「どのくらいここで頑張っているんだい?」と、きつい質問をするので、僕らも「まださっき話し始めたばかりだよ」と強がっては見たが今だにチケットは買えていない。いよいよポール登場かと思いきや「明朝のシティー行きのチケット2枚と言うのは『……』と言うからやって見ろ」とあくまで僕らにやらせるつもりらしい。彼は離れた所から見ている。気を取り直してもう一度チケット売りの人にポールに教わった通り言うが、我々の質問はチケット売り場の人に通じてはいるようだが、期待したアンチョコ通りの答えが返ってこないので相手が何を言っているのか分からない。『チケット2枚』『はい、どうぞ』という単純会話を期待している僕らには、ちょっと違うなにやら長い返事が返ってきたら、もうお手上げで分からないのである。それでもポールが離れて見ている手前というか心強さから、分かるはずのないその返事を何度も繰り返してもらうのであった。

見るに見かねてポール登場、「明朝の便はここが始発でないので席がないかもしれないが、夕方5時30分発のバスはここが始発なので席が取れる」と僕らには分かるはずのなかった会話を訳してくれた。こんな時、明日からポールなしでどうしたらいいのか。かって英語の通じない所では日本語で通したこともある僕、何とかなるとは思うが頭の痛いところである。

                            
翌7月28日、いよいよポールとの別れの朝である。情報を集めていたポールが戻ってきて言う。「ペリーズに入るにはバスは国境までしか行かないし、そこから国境を越すにはタクシーで100ペソかかる。よい情報は見つからなかったが、とにかく行くしかない」 

ポールを見送ってバスターミナルに向かう。3人とも何時になく無口である。メキシコに入って以来、1ヶ月近く僕らのパートナーであったポールは 泳ぎ、チェス、玉突き、なんでも上手くこなした。それは偶然の旅人同士の出会いであり、彼の旅と僕らの旅の接点でもあった。国籍も互いのバックグラウンドも違う僕らが供に異国の地を旅するという目的のもと「旅は道連れ」の言葉どおり一緒に行動し、友情が生まれた。その間僕らは供に遊び、運動し、見たり聞いたり、時には用心深く、時には少し大胆に好奇心を持ってその時間と新しい空間を楽しんだ。ポール流の“旅を自分でプロデュースして楽しむ事”を教えられたような気がする。

列車でユカタン半島のメリダに向かう時、一等席のチケットを持つ僕ら3人に席が2つしかなかった、一等のチケットを持っているのに座席が取れずデッキに腰掛け外を見ていた彼は「3人掛け出来ると思うが」という僕の提案を「そのうち席が空くだろう、こんな一等はめったに乗れないからここの方がいいよ、それより荷物に気をつけていてくれ」と答え、夜風に吹かれていた。朝、バナナを持っていくと、隣の車両で身を縮めてぐっすりと寝ていた彼の姿を思い出す。メリダで出会った二人連れのフランス人の女性をその後も時たま町でも見かけ、盛んに「散歩に出よう」といっては彼女達を捜していたポール。冗談を言い始めると僕らは本当に打ち解け心から笑った。ポールと比べると英話力に乏しい僕らが、何でも言い合い、楽しく旅が出来たのはオープンで楽天家で、旅に対しては慎重な彼の性格の良さに依るところが大であった。彼はこの後、南米を周って約7年ぶりで母国スイスに帰るという。色々な経験をしたであろう7年間、その一端をすこし僕らに残し、冬になる前に故郷に帰り、スキー教師をやるという。遺跡の中を、ジャングルの道を、町の中を、何時も僕らの前を歩いていた彼と別れなければならないのはその思い出が楽しかっただけに、悲しい旅の原理である。

僕に荷物を頼んで時刻表を見に行った彼は、急いで返ってくるなり「あと2分で出発だ!サダは何処にいった?」すこし離れた所にいた貞やんを急いで呼んでくると、僕らの手を交互に強く握り締め 「良い旅を!何処かでまた会おう」という。彼らしくない慌ただしい出発に「グッド・ラック、何処かできっと!」と返すのがやっとであった。途中で軽く手を振りバスに乗り込む、何も言えなかった貞やんも「こう急だと、英語が出て来ないよな。別れる時に言ってやろうと思っていた事がいっぱいあったのにね。もう少し考える時間をくれたっていいじゃないねぇ」と残念そうである。

皮肉なことにポールが捜していたフランス娘達にその日のうちに2回も会い、ペリーズを通らずにガテマラに行くという彼女達と話す事が出来た。いつかポールと会う事があったら残念がらせてやりたいものである。彼はそのうち日本にも行ってみたいと言っていたし、ヨーロッパに来たらスキーを教えてやると言っていた。きっと何処かで会える日が来るだろう。

その日まで アディオス・アミーゴ。


                              


ポールと別れた僕らは、その日の夕方チェルマルを発ち、22時間後メキシコシティーに降り立っていた。前回のシティー滞在中に、宿の近くのレストランで知り合った赤井君のいるホテルに宿を取ろうと行ったが、あいにく満室で、前回と同じパルシノン・ホテルに荷を降ろした。赤井君はアメリカ人の男性とボリビア人の女性2名の、4人で南米からアメリカを目指して旅をしていて、メキシコシティーにはすでに一ヶ月ほど滞在し、革に絵を書いて土産物屋に卸して、旅の資金を作っている。赤井君とアメリカ人のハーバードが革を買ってきて、掛け軸のような物を作り、それにボリビア人の姉妹、ロレナとファナが中南米に伝わる色鮮やかな絵を描き入れる。彼らと食事の時間ごとに会い、ここで安く生活する方法などを教えてもらう。「革製品は作るに限る」という彼らに影響され、貞やんが新しいパスポートを手に入れ、アメリカのビザを再収得する手続きをしている間、暇な時は彼らに教えてもらって革でパスポート入れや、煙草入れなどを作りまくる。革で作ると多少の粗も目立たず、買った製品みたいに立派に仕上がるから面白い。彼らの仕事の関係で手芸関係の材料を売るマーケットや博物館に案内してもらったりして数日を過ごす。

近代博物館に行った日、久しぶりにシティーに雨が降り出した。雨宿りをしている僕らの目の前で博物館の庭が雨に濡れて行く。美しい緑の葉の一枚一枚が雨に打たれて振えている。芝が雨で洗われ、美しく光るジュウタンのように生き生きとしてくる。空を見つめる立像のまだら模様がすっかり消えると雨はいよいよ強くなり像の頭や肩で水滴が跳ねる。久しぶりの雨を像は喜んでいるかのように、ずぶ濡れのまま雨の落ちて来る天空を見つめ続ける。やがて雨音が小さくなり、立像の裾を水滴が一滴、ニ滴と落ち、十分に水を吸い込んだ芝がその水滴をやっと飲み込む頃、辺りは帰宅を急ぐ人達の水溜りを跳ねる音と、物売りのせわしげな声が入り乱れ、しだいにいつもの夕暮れ時の活気を取り戻して行く。その人混みを縫う様に僕らも歩道の水溜りを踏みながら帰路につく。

貞やんのアメリカのビザ収得のための書類も揃い、再びシティーを出るため、ガテマラ行きのチケットを買いに行く。地下鉄の駅を出てすぐの場所にチケット売り場はあったが、ここにたどり着くまでに道を聞いた人の、3人が3人まで反対の方向を教えてくれたため、地下鉄の駅から一時間もかかってしまった。これがメキシコ流の親切なのか、メキシコ人は「知らない」という言葉を知らないようである。

出発の前夜、ボリビア人の姉妹が、僕の作ったベルトに綺麗な絵を入れてくれた。マヤ文明のデザインを取り入れたさすがはプロの仕事で、立派なベルトが出来あがった。

                             

シティーを出てオハカまでは、前回と同じ道のりである。オハカを通り越し、国境に向かう。ガテマラに入国すると、霧に包まれた、緑深い自然が、この国の第一印象であった。貧しいインデアン部落と、遠方にかすかに見える富士山のように美しい姿をした山が、霧の中で実に神秘的であり、日本の風景のようにも見える。

ガテマラの首都、ガテマラ市に一泊した僕らは翌日、1770年代の大地震で破壊されるまで、このあたりの中心地であった、古都アンテグア・ガテマラへ日帰りの観光に行くことにする。ガテマラ市からバスで40キロほどの距離である。石畳の美しい静かな町であるが、裏通りには200年前に地震で壊れた建物が、そのまま数多く残る現代の遺跡のような町である。

マーケットで買い物をし、さて、これから博物館にでも行って見ようと、ツーリストオフィスでもらった市内地図を頼りに歩いていると、僕らの数10メートル前を行く一人の男、見なれたショルダーバックにジーパン、髪型、手には何時もの6X6のカメラ。「ヘイ!ポール!」彼も振り返って、すぐに10日前のなつかしい笑顔を見せる、夢中で駆け寄って別れた時と同じ様に強く握手をする。信じられないポールとの再会であった。ポールがアンテグア・ガテマラに行きたいと言っていたのは知っていたが、彼はガテマラを1週間で出る予定と聞いていたので、まさか、まだここにいるとは思わなかった。しばらくは話が先走って会話にならない。わずか10日ぶりであるが、僕らには話したいことが山ほどあった。こちらが話す前にポールが言った。「例のフランス娘たち覚えいるだろう?今、彼女らと一緒に旅行しているんだ」「なに!」さすがポール、ガテマラには入ってすぐ彼女達と再会し、今は同じホテルに滞在していると言う。当然僕らがポールと別れてすぐに彼女達と会った事も知っており、一つ話題を彼に取られてしまった。その辺に、彼が今だに、ガテマラをうろうろしていた理由があるようであるが、それは今回見逃して上げよう。彼と一緒にそのホテルに行き、彼女達と再会する。翌日彼らはチチカスティナンゴに建つ朝市にいくという、その案に乗り、再びポールと旅することに、互いに異論のあろうはずがない。

翌日にチチカスティナンゴで彼らと会う事にして、僕らは一度荷物を取りにガテマラ市に戻ることにする。帰りのバスの中で英語を話すガテマラの女子高校生と知り合い、別れぎわ彼女がしていた腕輪を外しバスの窓から手渡された。ラテン女性の情熱をちょっとだけ垣間見るような熱い一画面。自ら蟻地獄に落ちた蟻の気持も分るような気がする、いやいや、気を付けなければ。

                               

翌日8月10日、3時間ほどバスで山道を走り、山の中にある小さな町、チチカスタナンゴで予定どおりポール達と落ち合う。この山間の町では昔から朝市が開かれており、朝早くから、バスで、ロバで、徒歩で、近郊のインディオの人達が集まって来る。この朝市が今ではこの地方の観光産業として、地元の人のみならず観光客も集めているようである。生活用品から観光客めあての土産物まで、町の中心にある教会の前の広場一杯に、テントや露天の店が建ち並ぶ。美しい刺繍の施された民族衣装に身を包んだインディオ達が、狭い道路を行き交う。ここではあくまで彼らが主役であり、僕ら観光客は添え物であるが、こと商いに関しては別である、例のごとくあまり買うつもりもないのに「まけろ」「まけない」のやり取りをいたる所で楽しむ。

チチカスタナンゴに2日滞在した僕らは、アティトラン湖のほとりにあるパナハチェルという、小さな町に移る。湖の向こうに、あの富士山のような山がみえる。山中湖に写る富士山といった風景である。この辺りは世界中からの旅行者が多く、食事に行くと、旅行者同士の情報交換の場となる。ポール活躍の舞台である。食事をする仲間の間でも常時、5カ国語くらいの言語が飛び交う。一応の共通語は英語であるが、英語を話しているうちに会話が突然ドイツ語になったりフランス語になったりする。すると会話の内容が第三者の僕と貞やんには分らなくなるから、ポールは大忙しである。彼は必要に応じて通訳してくれるし、務めて英語で話してくれる。そして時には僕らの英語を一番理解してくれるポールが英語を英訳してくれたりする。日本で生まれ13年間いたというアメリカ人の日本語が入ったりして、世界中の言葉が行き交う。フランス人の二人の女性ドミニックとマルティーンはフランスでドミニックが英語の先生で、マルティーンはスペイン語の先生である。ポールは「ドミニックは俺のものだ」といいながら、マルティーンともかなりの仲であり、二人から絶対の信頼を得ている。それでいて僕らには「一人200ドルで譲る」とジョークを言ってくる。

パナハチェルに着いたその晩、ここに強力なライバルが登場した。同じホテルに滞在する、世界的に女性に対する手の早さで有名なイタリヤ男が二人、ドミニックとマルティーンに急接近してくる。レストランで食事が終わって、食後の散歩に湖畔に向か道すがら、イタリヤ人の二人はそれぞれ図々しくも、ドミニックとマルティーンの肩に手を廻しいる。暗い道を、二組のカップルの後を僕らが歩く、石ころを拾ってポールが言う。「イタ公め、どうやらこれが必要らしいな」いよいよ血を見るかと言う時、ドミニックが社交上の付き合いはこれで十分とばかり、ポールの側に戻る。ポールはすっかり機嫌を直し。僕に石ころを渡して言う。「俺は必要なくなったから、後はマルティーンを守るためタカが使えよ」マルティーンは今だにイタ公から離れられない。闇の中で数匹の犬が2匹のイタチを見つけて吠え立てる。しかし僕らに出来る事はせいぜいマルティーンから目を離さないようにしているくらいである。湖からホテルに向かう間、口から出るのは、前を行くイタ公への悪口ばかりである。何しろ前を行く本人に向かって悪口を言えるのだからこんな時、マイナーな言語日本語は便利である。そんなことも知らず、イタリア男はニコニコしながら、おそらくはキザな言葉を並べ立てている。ホテルのベンチに腰掛けマルティーンに話しかけているのを横目に部屋に入り、貞やんと聞き耳を立てていると、やがて別れて部屋に入ったようすで安心して眠りに付く。

翌朝、イタリア人の紳士はやけにおとなしい。やがてポールがその理由を教えてくれた。「夕べ、イタ公は彼女をベッドに誘って振られたんだよ」と愉快そうに言う。まさかと思ったがマルティーンに聞いた話しだというから本当であろう。ここにイタリア式早業の限界をみた。マルティーンは今、英語を勉強していて、会話力は僕と同じ位で、結構いい友達であった。僕らの、とりわけ貞やんの悪い妄想癖が出る前に、メキシコに向かって発った彼女らは賢明であったかもしれない。

                              

再びガテマラ市に帰った僕らは、いよいよポールとの最後の晩餐をチャイニーズレストランでとる。お世話になったポールに、彼の30回目の誕生日という、3年も先の理由を付けて奢らせて貰う。

8月14日、日本では旧盆を迎えようという時、「今度こそ、本当にスイスで会おう」とパナマに向かうポールと2度目の別れをする。セントラルアメリカでの思い出は、彼に負うとことが多い。数々の思い出を乗せ、バスはターミナルを離れる。色ガラスの向う側で彼は手を振りながら去って行った。ポールを見送った後、僕らは2度目の脱力感に襲われる。「彼がいなくなるとどうも気がぬけるなー」「映画でも見に行こうか」アメリカ映画『タワリング・イン・フェルノ』を見てホテルに帰って寝る。

ガテマラ市のホテル・レオンでニューヨークから来た尼崎さんとコンタクトする事が出来た。彼もユカタン半島を僕より一足遅く回って、ここガテマラに入ったという。尼崎さんはこの旅に出る前、僕が前回の旅でもお世話になった、山下新日本旅行社の馬淵さん(この馬淵さんこそ、昔、放浪の旅をしていた人で、僕が前回旅に出る時、『何でも良いから、書いて記録を残しておきなさい、きっと最高の宝物になるから』とアドバイスしてくれた方であり、僕の旅日記、産みの親とも言える人である)から紹介頂いた人で、僕が日本を出る時アメリカで唯一の連絡先として住所を頂き、お世話になるかも知れないと思っていた人である。もともと、ニューヨーク経由でロンドンに飛ぼうと思っていた僕は、日本から手紙で「ニューヨークに行った時は宜しく」とお願いしていたのであった。その後、僕の予定が伸び伸びになり、尼崎さんも南米に旅行に出るとロスで知らせを受け、時期的に、ひょっとしたら中米の何処かで会えるかもと思い、メキシコシティーの大使館にも手紙を残して来ていたのである。何しろお会いした事のない方であるから、それらしい人がいたら声を掛けて、会えるかもと期待していたのであるが、偶然同じホテルに泊まった二人の日本人がニューヨークから来たと聞き「ひょっとして尼崎さん?」と僕の方から聞いたところ「そうですが、ひょとして小堺さん?」、と言うことで思い掛けない出会いを喜び合ったのである。

尼崎さんと一緒の山男、内田さんが僕と同じ様に日記をつけている。その日記にこんなことが書かれていた。「イスラムヘレンに興味深い男あり、日本人に教わったと言う空手を使い、格好をつけてビールビンを割ろうとする、しあわせな男であるが、誰がこんな馬鹿に空手を教えたのか」。なにを隠そう我々である。その時一緒だった井上さんが教えたのであるが、あまりの才能のなさにさじを投げ「日本人に教わったと吹かれるのは迷惑であるから、言うな」と釘を刺しておいたはずであった。彼はさらにラテンアメリカの人間について鋭くふれる。「ヨーロッパの人ならば良くジョークとして『日本からどうやって来た、泳いで来たのか?』『いや、泳げないから飛行機で来た』といった会話がなされるが、ここではそれが全くジョークにならない、本当に『バスで来たのか』とまじめに言われた、だいたい世界地図上で、自分の国が何処にあるかも知らない」となげいている。さらに「日本と中国の区別も付かないのに『チノ、チノ』と中国人を軽蔑する言葉を、僕らに向けてくるのは腹が立つし中国にも失礼だ」という。そんな子供達に内田さんは、鉄拳制裁をくわえて来たそうだ。「チノ」と言ったら「ゴッツン」それで日本と中国は違う国である事を教えるのだと言う。彼はかなりの子供達に、彼の言うところの愛の鉄拳を加えて来たようである。

中米に限らず、ソニー、トヨタが日本の会社だと知らない者、信じてくれない者は多い。しかしこれは後進国にいけば何処にでもある話しで、ある程度の教養を誰もが持っている先進国の常識を、後進国に持って来てはいけないのである。教育制度の遅れや、経済的理由で、教育を受けたくても受けられない人の方が世界には遥かに多いのである。教養のなさは個人のせいではない。自分達は恵まれていると思え、自国の外にあって自分の国で当たり前の事が世界では当たり前でないのだと、悟れる事は幸せな事であると思う。

                              


ガテマラ市を発ってキリグアに行く。バスを降りてから鉄道に沿って3キロほど歩いて、キリグアの遺跡に着く。美しく公園のように整備された林の中、石碑の遺跡が立ち並ぶ。今までの遺跡と違って、際立って石の彫り物が美しい。しかし蚊の多いのには閉口する。それと、この辺には美しい蝶が多いが、その美しさに似合わず、動物の糞に止まって“蜜?”を吸っているのを見てしまった。これからも美しい物には気を付けよう。

いよいよ有名なフローレス、ティカルの遺跡群に向かう。かなりの僻地、ジャングルの真っ只中にあり、ここに向かうバスは噂には聞いていたがすごい。ジャングルの中の凸凹道を8時間も走るのであるが、その揺られ方が半端ではない。左右に大きく揺れながら、最初は揺り篭のように優しく僕らを眠りに誘う、バスの中では寝ることが習慣と化している僕らは、睡魔に負け、堪らずウトウトするが、すると大変、前の手摺に、左の窓に、右のおやじにいやというほど頭をぶつけるのである。、いい加減頭をぶつけて目が覚めた頃、こんどは、今まで僕のことを迷惑そうにしていた、隣席のおやじが居眠りを始め、僕の方に頭突き勝負を挑んでくるのである、当然僕は負ける、目から火が出る、頭はコブだらけ、寝ても覚めても、この頭突き合戦は続くのであった。

フェリーで湖を渡り、やがて、この国での毎日の日課のような雨が降り出した。窓を閉めようと思うが、どこ製か分らないこのバスは窓ガラスも自由に動かない、いいかげん濡れたころ、やっと窓が閉まり、今度は天井のボルトの抜けた穴から雨漏りが始まる。埃に汚れたバスが雨に洗われ、青空が少し顔を出した時、道路の前方の森から雨上がりの水を跳ねながら小鹿が飛び出す。なにやら騒がしい声を立てながら、運ちゃんがバスを止めると、やはり物見高そうな顔をした車掌が飛び降りて、石をぶつけに行く、数人の乗客がそれに続く、よほど娯楽の少ない国なのか、物好きな人に事欠かない国である。獲物を逃がした悔しさを顔に表しつつ、戻ってきた彼らをバスに収容すると、また何事もなかったかのようにバスは走り始めた。やがて美しい湖に囲まれた、フローレス村に着いた。

一泊約300円の小さなホテルに泊まる。湖畔の道がそこで終わり、このホテルは言わばバスが走って来た道路のどん詰まりに、道路を塞ぐように建った建物である。朝2時半にこのホテルの前にガテマラ行きのバスが来る。それはまさに暗黒のジャングルの静寂を破り、バスが飛び込んで来ると形容したい事態で、ホテル全体を振動させながら止まったバスから、車掌が「ガテマラ!ガテマラ!」と客集めの大声を張り上げる。この夜中の騒動のため翌朝寝過ごしてしまった僕らはティカル行きのバスをミスってしまい、二日目の朝もこの騒ぎを聞く事になる。

二日目にフローレスを出て、ジャングルの中に石造りの神殿が頭を出した大きな遺跡群、ティカルに行く。日程が詰まっているため、日帰りでフローレスに返るつもりなので、忙しく遺跡を見て周る。ここは、10世紀中ごろまでマヤ文明の中心地であり、数万人のマヤ族が今は熱帯の植物に覆い隠されてしまっているこの辺に暮していたという。その彼らが、ある日突然ここを捨て、その生活圏をユカタン半島のチェチェンイッツア周辺に移したのである。その謎はいまだに解かれていないと言うが、昔はかなりの大都会であったと思わせる遺跡群が、繁栄していた昔の様を語りかけてくる。千年前の方が、現在の山間地の村より、ある意味栄えていたという地域は、世界的にもあまり類を見ないのではないかと思う。なぜに、これだけの都市を捨て、北東への大移動を始めたのかを考えると、最初に「神からのお告げがあった。皆のもの北東に進路を取れ」と叫んだ、悪性の梅毒に犯された占い師に起因する、というのが僕の説であるが、いかがであろうか。

                            

フローレスへ戻る途中で出会った日本人がホンジュラス側にあるコパンに寄る事を勧めてくれたため、ガテマラ市に戻る前にフローレスからコパンに立ち寄ることにする。
バスの道中での頭突き合戦に懲りた僕らは、それまではフローレスから飛行機で直接ガテマラ市に戻るという案も考えていたのだが、単なる噂だと思っていた「ガテマラの飛行機は良く落ちる」という話しの裏付けをみるにあたり、つまりここ小さな村フロ−レスには観光客が使う小さな飛行場があるが、その滑走路の周りに幾つか落ちた小型飛行機の残骸が放置されているのである。このあたりの飛行機は、ろくな整備もせず、ある日突然、車のように動かなくなる日まで飛び続けるのであろうか。それが飛行中に起こりうる確率を目の前に見せられたようで、頭にたんこぶを作るくらいで済むのなら、墜落の心配のないバスで帰ろうと決めたのであった。

来た時と同じ凸凹道を再び頭を凸凹にしながら10時間ほど戻り、途中から東に逸れる、小さな村で一泊の後、さらにホンジョラスの国境に向かう。山道を奥へ奥へと走り、やがて国境の村に着く。情報によればここから72時間以内ならビザなしでホンジュラスに入国して、再びガテマラに戻れるという。僕は問題なく手続きが済み、貞やんの順番となったが係員がなにやらクレームをつけてきた。僕らのスペイン語ではどうにもならず、近くにいたアメリカ人に通訳を頼む。「君のガテマラのビザではガテマラを出てしまうと、72時間以内でも戻るのに新しいガテマラのビザが必要だと言っている」と言う。彼のガテマラのビザはすられた後、メキシコシティーで新しく発行してもらったものなので、僕の持つビザと違った様である。かといって新しいビザを取るためには200キロの道のりを往復しなければならないらしい、とてもそんな余裕はない。諦めるか、僕だけ一日行って来るかなどと話していたら出国係りの人が言う「一つだけ方法がある。ここでパスポートにスタンプを押さないから、ホンジュラス側でも出入国ともにスタンプを押してもらわなければ、君はガテマラを出ていない事になるから、問題ないと思う」などと役人らしからぬ事を言う。問題ないといっても、どうやらこの役人は僕らに国境破りを勧めているようである。めちゃくちゃな話しではあるが、僕らはこの役人お薦めの国境破りをしてみることにした。

ホンジュラス側に着くと、ここの役人も話しを聞いてOKだという、日本の役人では考えられない柔軟さというか、いい加減さではあるが、今回はアシタ・マニアーナの思想に救われた思いである。
彫り物の美しいコパンの遺跡を見て一泊の後、同じコースで同じ国境の係員にスタンプ代わりの挨拶をしてガテマラに戻った。こうして国境の小さな村の出世コースからこぼれた役人同士の馴れ合いで、貞やんの国境破りは無事成功したのである。

ガテマラ側に戻ると今日は日曜なのでバスがないと言う。ガテマラ市向けのバスが出る近くの町までは、バスの数倍の料金を取る雲助の運転するトラックの荷台の乗客となる。同乗者はパリの大学教授だと言うフランス人、ここでは他に選択枝がないから、社会的地位も意味を成さない。

                             

ガテマラ市に戻った翌日の午後には、すでにメキシコシティー向けのバスに乗っていた、かなりの強行軍である。メキシコの国境の手前でバスから降ろされ、歩いて橋を渡りメキシコに入る。ここの入国審査では100ドル以上持っていることが、メキシコ入国の条件だという。ガテマラの少女が話しかけてくる「20ドルしかないが、何とか助けてもらえないかしら?」という。君は、人を見る目がある! 少女の頼みとあっては放っておけない、僕らが何とかしましょうと、二人でポケットの現金を集めてみたが35ドルしかない。僕らはトラベラーズ・チェックを見せればいいが、名前が入っているのでチェックを貸してあげる訳にはいかない。アメリカ人の女性を巻き込み、彼女の助けで、なんとか100ドル用意できた。このエルサルバドルから来た少女は名をモリアといい、これから一人でメキシコのティワナに向かい、その後はアメリカに入りたいという。けっこう英語は話せるが、手持ちの20ドルでどうやってこの先旅を続けるのか?「メキシコシティーに着いたら、テープレコーダー、テープ、ドレスを売って、ヒッチハイクで行けるわ」と屈託がない。そのバイタリティーには圧倒されてしまう。

メキシコ側に入って、入国手続きを終え、パスポートを返してもらうまで約3時間もかかってしまった。それと言うのも係員がトランプのギャンブルに夢中で、さっぱり仕事がはかどらないのである。夜中とは言い、勤務時間のはずであるがさすがメキシコ流、それでもアシタ・マニアーナ(また明日)と彼ら得意の言葉が出ないだけ良いのかもしれない。国境でバスを待ち、夜中の12時半にバスが着くと同時にバスの方に走ってしまった僕らは「向うで先にチケットを買って来い」といわれ、改めて乗車券を買うため列に並ばなければならなくなり、僕らの順番が来る前に「はい、このバスのチケットはこれで売り切れ、後は明日ね、アシタ・マニアーナ」と言われてしまった。残された僕らと無銭旅行者のモリア、その他数人は文句を言いながらも近くの町まで行き、警察署の前で親切なおまわりさんのガードをうけながら野宿することとなった。

3度目のメキシコシティー入りをして、幸い僕らの知っているホテルの中で一番安い、赤井君達のいるホテル・オーストリアーノに部屋を取ることが出来た。貞やんは桑原さんに送ってもらった預金残高証明書、(桑原、友井、両財閥がお金を出し合って作ってくれたもの)でなんとかアメリカのビザを取ることが出来た。証明書と共に、桑原さんから今回の件についてお小言を頂いたことは言うまでもない。

一番心配していたアメリカのビザ問題が解決していよいよアメリカに帰ろうかと考えていると、赤井君が「2日後がファナの誕生日だから、出来たら一緒に祝っていってくれないかな」と言う。この誘いに、2日ほど滞在予定を延ばすことにする。

ファナの誕生日、僕らはすき焼きを作ってあげることにした。キッコーマンは赤井君が持っているので、残る問題はここで調達できる材料で、いかにそれらしい物を作れるかである。何しろここはメキシコ、赤井くんが知っているこの辺で唯一の小さな日本ストアーに行って材料を探す。糸こんなし、しらたき有り、豆腐類なし、しいたけ有り、春菊なし、しいたけはその後50ペソ(1250円)もすると聞き返品。結局日本ストアーで買ったのは“しらたき”だけということになる。バナナをいれるわけにいかないし、なにかないものか。「まあ、キッコーマンと肉があればすき焼きらしくなるもんだよ、それにしらたきが入ればもう出来たようなものだよ」と口では言いながらも、頭の中でこの材料を組み合わせてみても出来るのは、すき焼きと言うよりも、焼肉の様子を呈している。地元のお店で他に入れられそうな材料を探してみることにする。玉ねぎ、キャベツ、レタス、じゃがいも、と思いつくまま材料に加え、なんとなくすき焼きらしき物が頭の中で出来あがった。ご飯を炊くと少しポロポロであるがこれはメキシコシティーの高度のせい、焦げ付いたのはメキシコ産のお米を使ったせい、とすべて原因は料理人以外にあるとして、いよいよメキシコ産すき焼きの材料を鍋にぶちあけ、火に掛ける。やがて調理の秘薬キッコーマンを入れると、なんとなくすき焼きらしい匂いが立ち込めてくる。見てくれも煮込むほどにそれらしい体裁となり、恐る恐る口にしてみるとすき焼きの味がする。あれの材料がすき焼きに成っちゃうのだから、これはもう料理人の腕以外のなにものでもない。肉の量だけはかなりあって、日本人3人、ボリビア人2人、アメリカ人一人のすき焼きパーティーの始まりである。この場所違いの久しぶりの日本料理に右手が鍋、皿、口の3点運動を繰り返す。すっかり満足したころには、大鍋3杯分有ったすき焼きはすっかり食べ尽くされていた。

さて食後の余興である。赤井君によれば南米では誕生日にはキスをして祝ってあげるという。やがて南米ではキスをして祝って上げなければならない、という強行意見となり。ファンの両頬に男性達はキスをすることとなった。ビールが入った上に少し前から髪を梳かしたりして様子のおかしかった我が相棒貞やん、すっかり落ち着きをなくし、最後に彼の番になったときにはタイミングを逸してしまい、責めあぐねている。ファンは立って待っているのに、彼はビールで紅くなった顔をさらに紅くして、おどおどしている。僕らが堪らず笑うと「すぐ笑うんだから」それではと口を抑えて静かにしていると「見ていちゃだめ」だという、「じゃあー、僕らは部屋を出ようか」というと「そ、それはかえって猥褻になるからやめてくれ」という。「軽い気持で『おめでとう』チュッとやれば良いじゃない」と言って上げても、彼の頭の中はすでに妄想がいっぱい。まじめな顔をして呼吸を整えるが、せーのと言う所では噴出してしまう。「キスをしないと彼女を屈辱したことになるぞ」とまで言われ、彼はさらに苦笑いと照れ隠しの10分後、皆の気が緩んだ頃ついに『トラ・トラ・トラ、我、真珠湾攻撃に成功せり』、こうなると、途端に彼は空母を捜す燃料切れの戦闘機のように、ふらふらと、まだ未練がましい。

こうしてメキシコシティー最後の夜は、やがてロスに来ると言う彼らとの再開を約束して、楽しく更けて行った。

                            

赤井君達に送られて30日の朝メキシコの古都グアダラハラに向かう。そこに一泊の後、まっすぐロスに向かう予定である。シティを出て9時間、草原的風景の中を北へ向かってバスは走る。あのまま会えない事になるかと別れた、仲間が待つ、ロスへの帰路にあるのだと思うと、複雑な思いである。
日暮れ時、グアダラハラに着き、桑原さんがしばらく滞在していたという、小さなペンションに入る。ここは親日家の一家が経営している、ほとんど日本人専門の民宿で、今まで300人以上の日本人の旅行者を世話してきたという。外には看板もなく、普通の民家そのまま、ここまでの信頼関係を築いてきた先人に感謝する。宿帳を見ると昨年の11月のところに、桑原さんの名前が載っている。
この家のおばさんと、小さな男の子に「ドン桑原を覚えているかい?」と聞いたら。おばさんは「口ひげを生やした背の小さい人でしょう、しばらくいたから良く覚えているよ」という。隣にいた子供も、自分と同じ位の背の高さに手をかざし、「この位の背丈のドン桑原だろう、覚えているよ」という。手振り身振りが入るので僕にも会話が解った。しばらく見ていないうちに彼のなかで桑原さんはさらに小さくなったようである。桑原さんには言い難いが、桑原さんが流暢なスペイン語を話したせいもあろうが、大勢の日本人宿泊客の中でも、背の低いドン桑原として、今だに印象深く覚えてくれているようである。

8月31日にグアダラハラを発ち、24時間後、月が変わり9月1日、バスはメキシコ北部の荒涼とした砂漠地帯を北へと走っていた。遠くに見える裸の山々が、太陽の残光を背後に受け、サボテンと同じ黒いシルエットと化す。タランチョラ(毒蜘蛛)もガラガラヘビも就寝の時間である。そんな平和な何千年も、毎年、毎日繰り返されてきた風景の中を瞬時に通り過ぎて行く。やがて空には星が輝く、道はまっすぐに続き、対向車のライトを認めてから、すれ違うまでかなりの時間がかかる。文明の匂いがするものはこの道路だけである。そんな時間が何時間も続く、遠方に街の光りをみるとホッとしたりする。そんな街でしばらく休んで、バスは再び小さなライトを頼りに砂漠のなかに突っ込んで行く。

夜が明けてバスはまだ砂漠の中を走っていた。やがて国境の町ティーファナに着く、ここでアメリカ側のグレイハンドに乗り換えアメリカの入国審査を受ける。心配していた入国手続きも思っていたより簡単に、2ヶ月のビザを貰えた。僕のイェローサブマリン浮上計画はここに完了した。そして貞やんも無事アメリカに入ることが出来たのである。

アメリカ側のサンディエゴに入ると、そこにはもうメキシコの匂いはない、ビルディングと幅広いフリーウェイ、すべてがアメリカの力を象徴しているかのようである。僕らは再びアメリカに帰ってきた。約2ヶ月のこの中米の旅は、大変であったが思い出すと楽しい思い出になっていた。ロスから南に旅立った時、僕は南米まで足を延ばすつもりであった。スタートでつまずき、最初の予定とかなり変わったものと成ってしまったが、ラテンアメリカの生活と文化、自然と歴史に触れ、ポールをはじめ多くの人との出会いと別れがあった。一日一日を思い出せば素晴らしい旅であった、遠回りしながらも今日まで無事に旅を続けられたことを感謝したい。
やがてハイウエーの標示が懐かしいLOS ANGELESを示す。今日からまたロスで待つ友との生活が始まろうとしている。


                              

9月3日、ロスに着いた日は火曜日であった。僕の働いていたそば屋も金やんの働く焼肉屋も休みである。松島ホテルにいくとマネージャーが、「金やんはウイルシャー地区にアパートを借りて、ホテルを引き払った」という。しかも僕らが仕事を見つけてあげた焼肉屋ハニールも辞めて、「今日からノブやんと同じセンチョリーシティーの高級日本食レストラン『YAMATO』で働き始めたはずだ」と教えてくれた。ノブやんもリトル東京のホテルを出て引っ越したと言うし、向かいのまさごホテルの友さんも出たと言う。桑原さん、高浦さんも見当たらない「さては僕らがロスに帰って来ると聞いて、避難警報でも出されたか?」と訝るほどに知り合いと連絡がつかない。
思いもしない、かってのわが町リトル東京の変化に、僕らは戸惑うばかりである。

松島ホテルの向かいの末広レストランで久しぶりの日本食を食べていると、友さんの後釜としてまさごホテルの部屋を借りているという内藤君が、ホテルのマネージャに聞いたといって尋ねて来てくれた。内藤君がまずは、友さんがホテルを出て最近借りたと言うアパートに、僕らを連れて行ってくれた。友さんは相変らず元気、ちょっと太っていた。ノブやんと金やんはここ友さんのアパートから歩いて5分ほどの所に、一緒にアパートを借りて住み始めたという。桑原さんは友人のところでスクールボーイ兼、スペイン語の家庭教師兼、居候をしているという。

友さんのところでシャワーを借りている間に、ノブやんと金やんが仕事を終え、伝言を聞いて駆け付けてくれた。2ヶ月ぶりの再会である。レックスは先日、日本に留学のため飛び立ち、クレアの妹ケィリーは中部の大学に行ったと言う。旅に出ていた2ヶ月間でロスの僕らの生活圏は大きく変化していた。とりあえず二人のアパートに転がり込む形で4人で同じ部屋に暮らすことにした。

翌日、仲間が集り僕らの為に歓迎パーティーを開いてくれた。豪華に海老天プラを作る。ベジタリアンの家庭でスクールボーイをしていたという内藤君「私もベジタリアンではありますが、海老は海から採れた物、海の生物はすべて植物のたんぱく質から進化いたしました物、本質的にはあまり変わりはございません、まあ海老は食べても宜しいでしょう」などと、もっともらしい理由をつけパクパク食べている。彼は最近新興宗教とやらを創立し、自らを教祖と名乗り、この訳の分らない宗派を広げていきたいと、冗談と思える冗談を一見本気で進めている。彼は時たま神がかり的な声で神のご神託をつげる。あぶないといえばあぶないがこれが我々には話題を提供してくれ、めちゃくちゃ面白いのである。ブルースリーの物まねで滑稽な踊りを踊る、体を鍛えるためとビール瓶で体を叩く、そして自分で痛がる。もともと空手をやろうと、そのトレーニング中になにか掴むものがあったようであるが、スタイルとしてはブルスリー風お笑い空手であるから面白くないはずがないのである。

                           

ロスに戻り、僕も、桑原さん、貞やんの通うエバァンス語学学校に、学生ビザを取って通う事になった。学校に入るにあたり、レベル分けの試験がある。ここにはレベル1からレベル7までのクラスがあり、ワンレベル上がるのに約3ヶ月かかる。レベル分けの試験を受けにいったら、すぐ後ろに腰まで真直ぐの髪を伸ばした日本人離れした目立った顔立ちの日本人がいる。こいつが試験中になにやら外のガキがうるさいとぶつぶつ文句をいっている、僕には彼の方がうるさく、文句を言いたくなる。その内、彼は15分も試験時間を残し早々と試験会場を出ていった。「なんだ文句を言ってた割には早々と諦めて出ていったな」と僕は残りの時間を試験に集中する。たいがい日本人は大学を終わってから来ている者が多く先輩方の話に拠れば、日本人はレベル4か5からの出発が一般的だという。レベルが発表になるまで貞やん(既にレベル7)から有言の圧力が掛かるが、幸い塩見英会話教室の成果かレベル5からのスタートであった。このビザクラスは午後1時45分から夜7時45分まで、週5日間毎日授業中は英語だけの、始めての僕にとり拷問のようなクラスである。しかし3回石を投げれば2回は日本人に当たり、3回目にメキシコ人に当たると言うくらい生徒の3分の2は日本人で日本人学校のようなクラスである。

この同じクラスにレベル分けの試験の際、諦めて試験を投げ出して帰ったと思っていた、あの腰まで髪を伸ばした奴がいた。名前を栄一という彼は日本では、レコーディングやコンサートの際、音のコントロールをするミキサーという珍しい仕事を学生の時からしていたミュジック・エンジニヤである。彼は学校に通うのを目的にアメリカに来た訳でないから、宿題をいかに短時間で仕上げるかなどに、素晴らしい才能を見せてくれる。その後の試験でも、クラスで一番最初に試験用紙を提出して教室を出て行くのは彼である。授業中はひたすら目立たず、休み時間には目立ってしまうという毎日が始まる。栄一とは学校が終わった後頻繁に、ハリウッドのライヴハウスやコンサートに音楽を聴きに行く仲となる。

もう一人同じクラスにヒロという友達が出来た。日本でレースをやっていたという彼とは休み時間に車の話でもりあがり、いきなりその晩、彼のアパートで二人で2升酒をあけることとなる。粋な江戸っ子プレーボーイであり、日本では「銀流し」という洒落た暴走族の創立メンバーであったという。彼はトランザムの455に乗っていたが、これがめちゃくちゃ速いがガソリンも食う。彼の表現を借りればアクセルを床まで踏みつけると一升瓶を逆さまにしたぐらいの勢いでガソリンが減っていくという。日本での最高反則金が一回で17万円とかで、その時はスピード違反、定員オーバー、信号無視数回、公務執行妨害、一時停止違反、酒帯運転等々で両手に余る罪名がついたそうである。当然、免停をくらって、アメリカに来る一年くらい前からは免許がなかったが、それでも車は手放せず乗っていたそうである。よって、一斉取り締まりに会うたびに逃げていたという。日本のパトカーならたいがい振り切れたというが、ここアメリカでは「おまわりさんは、すぐ撃つから」とそれでも大人しくしているのだそうである。最近までアメリカにいた弟が、彼と入れ替わりに日本に帰り、慣れぬ左側通行の上に酒で目がちらついて、高速道路を反対方向に走って事故を起こしたと言う、その罰金が14万円とかで、その時、「あ、兄貴よりいいや」と言って警察官を驚かせたという。

学校では宿題も多く、一応大学、いや高校時代並にまじめに勉学に励む。しかし時にはヒロとスピーチの時間の前に学校を抜け出し、ビールを引っ掛けてくる、「これで口が滑らかになる」と学生生活を適当に楽しむ術は、歳の功か日本での学生時代に比べ、遥かに進歩しているのであった。

                          

週末には僕は学校の友達や、クレア、ジョン、キャセイと会ったりで、外食が多いが、普段の夕飯はルームメートと自炊する。何せ男世帯であるから同じアパートに住む、日本人の女の子に作ってもらったりもする。こうして楽しく暮らしていたが、ある日大家さんが来て「この狭い部屋に4人で住んでもらっては困る。定員オーバーだから、3人までにしてくれ」という。僕らも4人では狭いと思っていたところだったので、とりあえず家賃を払った9月一杯は貞やんが友さんのアパートに居候に行って、10月になったら新しいアパートを皆で借りることにする。とは言い貞やんも毎日夕飯を食べて、その後もこちらで過ごし、夜12時ごろ居候先の歩いて5分ほどの友さんのアパートへ帰っていく生活で、さほど以前と変わった訳ではない。
最近はノブやんと友さんが車を持っているし、学校の帰りは栄一が送ってくれるし、ロスは確かに車があると便利である。リトル東京から抜け出した僕らは以前以上に文化的な生活を送っていた。

クレアとキャセイが遅い夏休みを取って旅に出た数日後、近くの日本式ナイトクラブ“ラーク”に日本から歌手の元トワ・エ・モアのエミちゃんが来るとのことで土曜日の夜“ラーク”に彼女の歌を聞きに行くことにする。その4ドルの入場券が僕らの間で売れに売れ、総勢13名で繰り出すこととなった。イザベラに見捨てられすっかり元気のない桑原さん、「あんな財閥の娘、何処が良いと言うんだ」と報われぬ恋にすっかり開き直った貞やん、2週間前の夜遊びで風邪が治らず、ふらふらしながらも僕らに付いて来る金やん、そして何時も元気な内藤教祖とノブやん、その他で総勢13名。はやばやとラークに着いた僕らは、まだ誰も会場にいないうちから一番前のテーブルをグループで占領する形となった。早い時間から盛り上がっていると、そこに現れた一人の日本女性、これがなんと貞やん憧れの君、財閥の娘、小石さんであった。僕が椅子を勧めると僕らのテーブルに付いてくれた。口では最近まったく進展のない残酷な片思いに小石さんのことを散々けなしている貞やんであったが、やはり本人の前では面白いほど落ち着きをなくしてしまっている。

やがてステージにエミちゃんが登場する。彼女はこの度、ハネムーンでアメリカに来たのであるが、その思い出にと、引き受けたステージであるという。新婚のご主人がベースを弾いて、彼女が歌う。澄んだ美しい声が会場に広がる。生の歌声に感心する僕ら、ちょっと上の空の貞やん。

2部に入って予想しない展開となった。歌を聴きに来ていたはずの僕らに「皆さんにも私が指名しますから、唄っていただきたいんです」と彼女、僕らのほうに来ると、なんと内藤教祖を指名した。唄う人として“当たり”と“外れ”があるとするならば、僕らの13名のなかでは一番の“外れ”を引いた事になる。そこは恥しらずの教祖さま、前後のみさかいもなくステージに上がると一礼。ここまでは良かったが以下めちゃくちゃ、曲にならないほど音程が外れていた「キーが合っていない」と自分の声の調子外れをものともせず、バンドの音出しをもう一度やらせ、自分の声に合わせようとするが、そんな程度で合うほどの音程ではない。彼の音程に合わせていたら違う曲になってしまうといわれたのである。結局バンドの音は無視して勝手に歌え終え、爆笑の中を大歌手になったつもりでステージを下りてくる教祖。エミちゃんも大笑いで「今の方よりは歌えるという人」とか「ああいう人でも歌えるのだから、私も歌ってみようという人」とかと盛り上げ「けっして貴方が下手というわけじゃあないんですけど」とフォローするが自分の言葉のそらぞらしさに自分で思わず、笑ってしまっている。内藤教祖、平然として「ええ、才能はあったでしょう」と、なんの才能か分りはしない。僕らは彼のブルスリーのまねが出るのを期待していたのだが、さすが彼もあれだけは音楽のステージだからと自分を抑えたらしい。あの18番が出ていたらエミちゃんは完全に食われ『教祖 オン・ステージ』になってしまうところでした。

                           

ここはベッドルームもないワンルームのアパートである、そこに3人でごろ寝している。しばらく腰を落ち着かせて暮らすには空間的にも狭く感じていた僕らは、9月一杯でこのアパートを出て貞やん、ノブやん、金やん、僕の4人でもっと広いアパートに移ろうということにしていた。始めは、あまりあせっていなかった僕らも、9月も残りあと1週間となると、尻に火がついたように、本格的にアパート捜しを始めた。ノブやんの300ドルの車で捜しまわるが、なかなか希望する条件の2ベッドルームは見つからない。5日間ほど皆が交代で捜しまわり、やっと今のアパートから2ブロックほどしか離れていない所に、良さそうな部屋が見つかった。これはタイミング良く、まだ借り手募集の広告を出す前の段階で情報が入り、押さえた物件である。このアパートは経営が会社組織になっており、最終的には書類審査の上で、契約がなされるというが、管理人は感じの良い人であり、今月中に引越しをしなければならないタイムリミットも、なんとかクリアー出来そうなのでホッと一安心。しかし翌日9月29日、学校から帰ると「書類審査の結果、男ばかり4人、うち収入のない学生が二人、等々の理由で受け付けてもらえず、あのアパートはダメになったよ」とのこと、今更そう言われても明日は月末、今のアパートは後30時間で出なければならないのである。
このままでは僕らはそろってホームレスの新参者となってしまうのか?

時間はないが捜し続けるしかない、友達に手伝ってもらって、夜10時までアパートを捜し廻るが今日は成果なし、反省会をして明日の作戦を練るが、残り24時間のタイムリミットが迫る。

翌朝、今日の真夜中12時までに今のアパートを引き払わなければならないのに、今だ引っ越すべき、行き先が決まっていない。事態は最悪であるが、朝一番から僕がノブやんの車を使って授業の始まる寸前まで、30軒ほど廻るが成果なし。学校で車を貞やんに引渡し、僕と入れ替わりで貞やんが捜しに出る。授業が終わり8時ごろ、栄一に送ってもらってアパートに帰ると「夕方ハリウッド方面にアパートが見つかった、引越しの用意たのむ」との、嬉しい書置きがあった。その内に、知らせを聞いた友達が6人ほど手伝いに集って来てくれた。4人分とは言っても大きな家具がある訳でなし、3台の車と人海戦術で荷物の運び出しにかかる、最後の荷物が出発したのが夜10時、アパートの契約切れ2時間前であった。そして僕らは晴れて、ハリウッドのアパートの住人となることが出来た。

慌ただしい一日が過ぎ、翌10月1日、僕らは荷物の整理に忙しかった。新しいアパートはハリウッド通りとノルマンディー通りの交差点の近くにあり、グリフィス公園の天文台のすぐ下、ハリウッドのランドマークも近くに見える。2ベッドルーム、2バスルーム、クーラ、プール付きでリビングルームも広く、僕と金やん、貞やんとノブやんがそれぞれ一部屋ずつ使う。電話機が3台、皿洗い機、セントラルヒーティングが付き、ゲートもセキュリテイになっている、今までとは雲泥の、快適な文化生活が送れそうである。そしてなによりも気の許せない3人のルームメート、引越しのあと片付けも、一通り終わり、僕らはリビングのソファーに腰を下ろした。

金やんが言った「僕ら、これでまたビバリーヒルスに一歩近づいたね」

今日からここを我が家として新しい生活がはじまる。

窓の外にはこの夏最後のさわやかな夏の風が、椰子の葉を揺すって通り過ぎて行った。僕はその椰子の木の向こうに、この夏行った中米のジャングルと青い海を思い浮かべていた。

何万年も変わらずそこにあり続ける風景と、何百年もそこにある先人達の残した歴史、そして毎日繰り返されるその土地に住む人達の日常生活、そんな時間を超越した風景を見に行く現代の旅人は、彼らにとり空を飛ぶ翼と陸を駆ける靴を持った、瞬時に通り過ぎるタイムトラベラーなのかもしれない。そして僕は今、その翼と靴をしまい、天使が住むと言うここロスアンジェルスに暮らして見ようと思っていた。

おわり


夏の風・ あとがき

この「夏の風」という題名は、嵐の中というイメージでなく、風のように自由に、目的もなく、それでいて 爽やかに流れた青春の瞬時を表わしたものである。

この歳になると毎年、同じような齢(よわい)を重ね、最近のひと夏を回想して、いくつの出来事を思い出すことが出来るであろうか?ここに書いた1975年のひと夏は僕にとり沢山の出来事の詰まった、25年後の今でも鮮明な夏である。

この文に登場している主な登場人物とは、いまだほとんどの人とe-mailなどを通じ、交友関係が続いているのであるが、その原点となる出会いがこの文章の骨格である。一期一会の出会いを大切にした結果であると思う。

主な登場人物のその後を簡単に紹介すれば、大多数は歯が欠けるごとく日本に帰り、今でも、こちらアメリカに残ってたまに音信のあるのはノブやん、桑原さん、栄一、くらいになってしまった。

ポールはこの旅から一年後くらいにハリウッドの私らのアパートにレコードの買出しのついでに顔をみせてくれた、その後はスイスで友達とスポーツクラブをやっているはずである。

貞やんはその後さらに6年間ほど、学校に行きながら私と同じレストランでアルバイトをし、一緒にスキーに通い、ほとんど毎日顔を会わせる関係にあったが、今は四国に帰り英語塾をやっている。金やんは栃木で幼稚園の経営者となり、高浦さんは千葉で登記の仕事をしている。

僕が貞やん、ポールと行ったウーマン・アイランドは現地語で Isla Mujeresといい、その頃は小さなホテルが数軒しかなく、訪れる人も少なかった。最近インターネットで調べたら対岸の漁村はカンクーンとよばれる、今やメキシコの最高級リゾート地となり年間200万人の観光客の訪れる地となった。1970年代の初めまでこのカンクーンは人口120人の漁村であったという。カンクーンからトゥルムに架けての海岸線は、今はホテルが建ち並んでいるようであるが、当時ほとんど人のいない美しい海岸であった。知らずに海岸の椰子の実を盗み飲みをしてしまったあの海岸は、あの時僕ら3人の物であった。今思えば最高の贅沢である。
美しい海岸があれば人はホテルを建て、ホテルが建てば、空港やレストラン、お土産屋が必要になる。こうしてあの自然のままの海岸線は永遠になくなり観光客は人工の海岸線を見せられる事になる。

同じくユカタンのチェチェンイッツアのピラミッドはその当時から観光地で、近くには部落があり、舗装された道路とバス停がピラミッドの近くにあったが、その6年後くらいに里帰りしていた際、日本で見たテレビで“川口浩探検隊長”率いる探検隊がユカッタン半島に入り、苦闘7日間ジャングルの中をさ迷い、たどり着いたのがあのピラミッドであった。おいおい、あのバスや観光客相手に土産物を売っていた子供達は何処にやってしまったんだ、と思ったものであった。

ジャングルに閉ざされたティカルの遺跡は、当時凸凹道を頭をぶつけながら8時間走るか、小型飛行機をチャーターしないと行けない場所であった。その後、大ヒットした映画 “スター・ウォーズ”のパート1、最後の方で、凱旋した宇宙船が地球外の惑星のジャングルから顔を出した石の神殿の上を飛んで行く場面があったが、あれがまさに私が神殿の上から見た、ティカルの遺跡群であった。

今だに、あの熱い夏の風を感覚として思い出す。交通の便が悪く、苦労して行っ場所が今はどんどん観光化され、俗されて行くのを見るのは残念である。今やあの25年前の風景は何人かの心の中にしかないのである。願わくは現代の文化文明があのジャングルの遺跡として滅び去ったマヤ文明の二の舞いとならぬように祈りたい。

ニュ−ヨークの自由の女神が砂の中から遺跡の様に顔を出したのは映画 “猿の惑星”の中であった。このまま人口が増え、自然を破壊し続けることはマヤ文明と同じく、その人口を支え切れなくなり、破滅への道を進んでいるように思えて成らない。

リトル東京も様変わりした。あのホテルも、私の働いたそば屋も東京ガーデンもなくなった。便利にはなったが、殺伐としたものを感じる。最後に残るのは友情であり、互いを思いやる人類愛であろうか、昔の仲間と会うと瞬時に時間の隔たりを忘れ、その頃の自分達に戻れるのは不思議な事実である。あの時、日本を離た異国の地で出会った友達は、仲間イコール家族のような関係であったと言える。その気持を大切に、人類すべてが互いに慈しみ、助け合う心を忘れなければ、きっと、さらなる繁栄をもたらすものと信じる。


私の手元にはもう一冊、この旅の前に、私が始めて海外にでて、ユーラシア大陸を放浪した時の日記がある。その、もう一つの旅の思い出も皆さんとシェア出来たらと思い、機会を見てまとめてみたいと考えている。(『旅人、ユーラシアを往く』 として2007年にアップロード完了)

この旅行記をすべての、あの時間を共有した仲間と、旅行中一番心配をかけた両親に捧げたい。


12月2日、 2000年